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「路上観察クロッキー会に寄せてーナイトフィッシング」しばちゅうさんより寄稿

刻々と変化する事象を、短時間で描出すること。我々はこれを「ムービングクロッキー」と呼んでいる。
何より、時間が限られている。そのため、作者には描写量を素早く取捨選択し、写し取る大胆さが求められる。

さて、今回は、「路上観察クロッキー会」と題し、街中で「ムービングクロッキー」を実施する。

路上を疾走する自動車、雑踏を行き交う人々の影、風にそよぐ街路樹ー、画家の目の前で街はまるで有機体のように目まぐるしく変化し続け、同じ形には戻らない。
図は地になり、地はまた図になる。それは二度と邂逅することのない現象同士の出会いであり、別れでもある。

画家たちは、目の前の事象の息遣いに筆を添わせ、その間隙から本質を剔出する。そして最後には、各人が描き込んだ絵を重ね合わせて一つの作品として統合し、そこから真実をあぶり出す。

あぶり出された真実は、ある部分が黒く塗りつぶされ、モンスターのような形をしているかもしれない。あるいは、決定的な部分が描かれず、ほとんど余白のまま残されるかもしれない。しかし、それもまた真実の一形態であることには変わりないだろう。

19世紀後半、写真技術が発明され、絵画は写実の表現技法としての地位を写真に譲った。
しかし今日、写真は「真実」ではなく「事実」を剔出する技術になりつつある。絵画が「真実」を剔出する表現であり続けているのとは対照に。

では、絵画にとっての「真実」とは何か。
それは、「見えないもの」を表現するということに他ならない。

かつてメルロ=ポンティが「世界は画家の前に表象されてあるのではない」と語ったように、世界は「塗り残し」であふれている。
それは例えば一瞬先の未来であったり、画家が世界を演算するプロセス、すなわち画家自身の身体であったりする。あるいは、同じように世界に対峙する他者のまなざしであったりもするだろう。

写真の場合、こういった「世界のクレヴァス」が映ることは決してない。
しかし、見えないものは、まるで亡霊のようにこの世界に取り憑いている。
画家は、こうした「世界の影」をこそ描出しなければならない。

描くことは、冷たい夜の海に釣り糸を垂れるようなものだ。
海の中には、どんな生き物が潜んでいるか見ることはできない。糸を垂れた次の瞬間サメに飲まれるかも知れないし、獲物が全くかからないかもしれない。
しかし画家はそれでも、この釣り糸に真実をつかみ取る一縷の望みを託し続ける。

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