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鳥山明先生追悼稿 北陸第三事業所 


7366文字・60min

3038文字・15min




北陸(その地下)


 北陸。ある事業所の地下。
 それほど高くないコンクリートの天井から裸電球が下がる。部屋は百畳ほどなのでどこもかしこもうす暗い。愚痴をこぼすぼやきが聞こえる。中央には一番大きな釜が設置されている。そのなかはぐつぐつと煮えたつ。湯気のなかに、人間の頭や足が浮かんで見える。中央の大釜にいる男たちは黙々と作業をする。尺のある棒を大釜の底までツッコんでから、泡とともに浮いてくる骨と不純物を、腰を落としてゆっくりと網で掬いあげる。ポリバケツに入れる。部屋の換気は悪いようだ。方々に散らばる大小の釜の傍らで作業をする男衆らの咳き込む声が聞こえる。
 角刈り頭の男は大きな黒いヘッドフォンを耳に被せ、音楽に没頭している。角刈りの頭の男はハミングをしながら、両手で抱えあげた死体を、大釜に放りこんだ。
「ぺっ」
 角刈りの男は釜の縁に唾を吐いた。額に浮きでた汗のつぶをぬぐって、体をよじらせてふりかえる。作業部屋の出入り口の階段脇の隅をまじまじと見つめる。死体の山を数え始めると眠くなる。ここ三日で運ばれてくる死体の数はあまりに多すぎる。男は考えるのをやめてまた他の死体に取りかかる。
 死体が各々の理由によって運ばれてくるここは、身内では北陸第三作業所とよばれる。作業所では死体はサイズに合った釜で服を脱がせた生まれてきた状態で茹でる。死体はバラバラにはできない。なぜなら個体がもつ病気や疾患はおのおのはちがうからだ。死体から抽出された油脂は火薬や蝋や保湿クリームになって海外に輸出される。世界のある場所ではそれらは蝋燭や栄養瓶や高級美容液となって高値で取引される。場所の情勢が変わると、飛ぶように売れる。
「辰さん。あっち。階段口に、お客がみえてる、です」
 となりで作業をする大男は鍋を掻き回すその手を止めて、角刈りの男を呼んだ。大男は赤毛のモヒカンだった。
 辰と呼ばれた角刈りの男はひらいた片手の指を折る。
「だめだ、こんなにのんびりとは、やってられねえぞ」
 辰は額にまた玉になってふくらんだ汗を、ぬぐった。リストバンドはぐっしょりとぬれて、汗は床に滴った。辰は、ひっきりなしに運ばれる死体と釜の湯気とむさ苦しい仕事に唸り声をあげる。
 こんどは奥の暗がりから侏儒のように背の低い狐目の男が現れた。片手に電卓をもっていて、それを絶えず打っている。その小男は大男の尻をパンとたたいて辰に声をかけた。
「辰さん。このぼうだいな死体の数なんですが。先日から盛り上がっているこのニュース。知っていましたかい。これなんですが」
 侏儒のように背が小さい狐目の男はポケットからケータイをだして動画を再生した。ボリュームを上げた。
「…日本列島に大きな異変が起きています。ことの始まりは三日前。国会の召集日に首相官邸と国会議事堂が、謎の武装集団によって制圧されました。映像は生中継されていました。その大事件の悲惨さを目の当たりにした国民も大勢いると思います。国会議事堂に登院をしたすべての議員は謎の武装集団に射殺されました。国会議事堂大虐殺事件です。以来、謎の武装集団はそのまま国会を占拠しつづけています。国会は死体の山です。この事件に憶測は留まることを知りません… 」
「辰さん、聞こてるのかいな」
 侏儒のように背が小さい狐目の男は辰となりにいる赤髪のモヒカンの大男を見上げた。おれも知ってるぜ。あのニュース。明日から日本はどうなっちまうんだろうな。後ろの男衆はこもごも話し合う。
「あっち。辰さんにお客が見えてるんですが… 」
 赤髪のモヒカンの大男は、背が小さい狐目の男を見る。背が小さい狐目の男が手にもつケータイでは動画は流れつづける。
「…それとは別に、三日ほど前から北海道はロシア軍に侵攻されており、九州は中国軍らしき謎の軍隊に制圧されました。これらの情報は全国のユーチューバーの拡散によって顕になってきました。それがちょうど三日ほど前からなのです。三日前に、日本列島にいったいなにが起こったのでしょうか? これは世界を裏で牛耳る組織が日本列島を転覆させようとする、なにかの巨大な陰謀なのでしょうか、はたして黒幕はいったいだれなのでしょうか… 」
 背が小さい狐目の男はボリュームを落としてケータイをしまった。辰さん。辰を呼んでみた。それでも反応がないので、大きな声で喋りだした。
「今日あたりからここにも死体が山になって運ばれてきますよ」
「うるせえ! 」
 辰はヘッドフォンを外して、さけんだ。辰の怒号は作業所内にひびきわたった。作業所はしずまりかえった。赤髪のモヒカンの大男がゆびをさす階段口のほうから豪快な笑い声が聞こえる。作業員の男衆らはその声にふり向き、全員がおどろいて仰け反った。「おつかれさまです! 」膝に両手をついて声を合わせた。辰だけは聞こえなかった。
 辰は頭のなかが悩みでいっぱいだった。昨晩からこの場所に死体がどんどんと運ばれてきていた。
「タケさん。わるかった」
 辰はタケと呼ばれた狐目の小男に両膝に手をついて平謝りをする。
「辰さんは謝らないでください。この作業所の長なんだから」
 タケはうなずいた。後ろから男衆の声がする。無理もねえですよ。辰さんはよくやってますよ。こんなめちゃめちゃに忙しかったら、おれだったら逃げてるか自殺してますよ。んだんだ。タケは奥に消えた。
 赤髪のモヒカン男はうなずく。そ、そうでさ。き、気にしないでください。と笑ってみせた。赤髪のモヒカン男は緊張すると滑らかな発話ができない。吃(ども)った。たタツさん。だ、だいいちと、だ、だいにのほうもいそしいんですかい。赤髪のモヒカンの男は辰に訊ねる。辰はヘッドフォンを耳につけ直して、グシの肩に手を乗せる。
「グシ。おれは怒ってねえ」
 辰はグシをいつも傍に立たせた。それをひがむ男衆は、グシをドモリとバカにする。それでも辰は構わずにグシを傍に置いた。
「まて、」
 辰は手を止めてグシを遮った。いま聴いてる音楽に乗っているようすで、肩をくゆらせている。
「インザ、ヒイイイト、オブダ、ナアアアアアア〜イト! 」
 辰は頭を大きくゆさぶった。担いだ死体を大釜にぶちまけた。
 辰の背後から青年が現れて「今朝、仕事にはいるときはまず所長にあいさつしてから。といわれまして」と辰を横目で見ながらグシに首を垂らす。
「新入りかい? 」
「そうです」
 グシは手を挙げて、壁際で作業するタケを呼んだ。
「タケさァーん。こいつは今日入ったばっかのシンジンだ。いつものあれ。おしえてやってくれないかァ」
 グシは大声でさけんだ。
 奥からタケは湯気のようにまた現れた。
「私は竹原だ」とタケは新人の青年に言った。
「この赤髪のモヒカンの大男の名はグシケンで、グシ。そこの角刈りの二枚目の男が辰吉でタツさん。恐らく、先日おまえの命を助けたのは、銀さんだ。あの背丈であの顔だ。わかるな」
 タケはいう。新人は思いだした顔をして、ひとつ、うなずいた。
「過去の名前はすてて、こんごはシライと名乗るように、といわれました」
 シライがいうとタケは話を続けた。
「第一や第二ってのは、事業所のことだ。事業所はここの他に全国にたくさんある。が、シライはぜんぶをしるひつようはない。この竹原も知らない。第三事業所の責任者である辰さんも把握はしていない。ひとついえることは、われわれがはたらく事業所がある位置は、日本の海上保安庁の管轄の割りあてに、似ている。海上保安庁の第九管区海上保安部は四つの保安部署と一つの空港をもっている。その基地の地下の奥深い場所にわれわれの作業所はある。地面をあわせ鏡にした表と裏の世界のようだな。表では国土交通省が統制権をにぎる海上保安庁の第九管区がある。その地下にはわが組織の北陸作業所があるってわけだ。その歴史をひもとけば、当時のオカミとこの事業所の先達たちは海運が物流を支配していた時代からむすびついている。その根はとてもふかい。越前、越中、越後とか備前、備中とか、瀬戸内、北陸、東海、東北、蝦夷(えぞ)とか。事業所はそのむかし、オカミによって設立された。オカミに死体をあつかう特別な作業を与えられて、われわれは「ケガレ」になった。爾来(じらい)われわれはこの作業にたずさわってきた。銀さんの頭(かしら)にあたる人は天上人だ。それ以上は穿鑿(せんさく)はするな。銀さんがおまえの命を助けて、名前を捨てさせ、新たにシライの名を与えたのは、意味がある。それ以上、意味を知る必要はない。そうだよな? 」
 タケはいう。たしかに。とシライはうなずく。
「それでいい」
 タケは笑った。それ以上、シライはなにかをしるひつようはない。それで、おれたちみんなはうまくやってきた」
 みろ。これがおれたちの作業だ。大釜で死体がぼこぼこと浮かぶのを見せる。今日からシライはここ北陸第一作業所に所属して、日夜、はたらくってわけだ」
 タケはシライの肩をたたいて笑った。
「北陸の第一作業所のほうは、第三となにかちがうんですか」
 シライはつぶやく。タケはシライの疑問符がついた言葉尻をひきつぐ。
「北陸作業所は三つにわかれている。第一作業所は頭脳や身体能力がずばぬけて優秀な人間の脳や骨髄や生殖器を細部まで、あるいは供給先の必要に応じた大きさに分解する。それを選り分けて、研究や医療用の発注先へ配達する。第二作業所は新鮮な臓器を売買するためにつくられた事業所だ。まあ若くて健康な男女、あるいは妊婦や子どもの臓器をおもにあつかう場所だ。で、第三作業所はシライがその目で見たとおりだ。釜でひとを茹でて人体から白蝋や脂を抽出する。火薬などにかえて、供給先に送りとどける。この辰さん(タケは辰の腰にふれる。すると辰はふりむいてシライに手をあげてわらった)が、ここ第三作業所をふくめた北陸作業三ヶ所の総責任者だ」
 シライがうなずくとタケはきえていた。
 辰は指を折って何かをかぞえている。
「だめだ。なんでこんな戦場みたいにごろごろと死体が湧きでてきてるんだ。それも第三事業所ばかりがいそがしくなる。男たちはみんな脳を撃ち抜かれている。これじゃあまるで戦場の兵士だ。第一じゃ使いもんにならん。おんなこどもだってみんな暴行痕が見える。なんだこりゃア」
 辰さん。ニュースまだ見てないみたいだぜ。周りの男衆どもはで鍋を掻きまわしながらこそこそと笑う。
「また明日からここに死体がとめどなく運ばれてくる。なぜだ? 」
 まわりが笑う。タケさァーん。いま一度、さっきのニュースを辰さんに聞かせてやれよー。所長がこれじゃァ、おれたちの仕事があがったりだ。みんなは笑った。
「おらあ、もうやってられねえ」後ろで作業をする男衆のひとりは長尺の棒を壁に投げた。
「だまらんか。ぐずぐずとぬかすな。辰さんだって、だまってやってるんだ。部署の配置は籤(くじ)で決まったんだろうが」
「籤はイカサマ籤だったってはなしだぜ」
 大釜の向かいで死体の灰汁をすくいとる男が、噎(む)せた。死体を煮た蒸気をすいこんだようだ。男はだまって作業にもどる。
「タツさん」
 グシは言うが、辰はヘッドフォンでグシの声が聞こえない。ハミングをしている。
「タツさん! 」
 辰はヘッドフォンをはずした。
「どうしたのよ。グシ」
「おいらじゃねえす」
 グシは階段口を目でしめす。扉口に男の影がみえる。だが湯気でぼやける。すると天井の方々にさがる裸電球が、ぱちぱちとリズミカルに明滅する。
「あれ? もしかして忍さん? なんでまた忍さんがここに? ムショのなかじゃあ」
 忍とよばれた男は笑ってまたぱちっと電球を点滅させた。
「おれがここにいちゃあ、わりいのかい」
「忍さんはどこにいても構いやしません。おれたちの仕事の邪魔さえしなければ」
 近づいてきた忍の、顔面の両側にはミニトマトがつぶれたような傷痕がみえる。銃弾で撃ちぬかれた痕のようだった。忍はレイバンのサングラスをはずして、目をつぶった。辰のヘッドフォンから漏れ聞こえる音に耳を澄ませる。周りからひそひそ声が聞こえる。あれが伝説の井岡忍さんだ。伝説って生きてるもんなんだな。
「おまえー。いうようになったじゃねえか」
 忍は、豪胆に笑って辰のこめかみを小突いた。辰は大釜の茹だるなかによろける。っとっとっとっと。忍は利き腕をのばして辰をひっぱりもどす。その腕の先で忍は親指と人さしゆびをつなげて、仏がよくやる手の輪っかをつくった。世の中やっぱりこれよのおォ。忍はいう。ゼニってことっすか。辰は笑った。
「法務大臣が変わったんだよ。こんどの法務大臣はまったくのダメ大臣よ。金ですぐに右に左に日和る風見鶏だ」
「じゃあ出所すね」
 辰は笑った。後ろで、確定死刑囚に出所ってありえるのか? まえは札幌で執行前にいちど破獄して、東京拘置所に収監されたって風のうわさで聞いたぜ。作業所にザワザワとざわめきが走った。忍さんと辰さんの会話だ。冗談にきまっとろうが。とツッコミが入ると、だよなぁ。笑いが起こった。でもよ。実際に死刑確定囚がおれたちのまえにでてきてるじゃねえか。また笑い声はどよめきに変わった。 
「タツはジャズも聴くのか。年次総会じゃあ演歌ばかりうたってたが」
「これ、ジャズっていうんですか」
 忍は片手を拳銃の形にして辰のこめかみを小突く。次いで周りの男衆にパーを作ってみせた。だれも笑わなかった。
「また始まった。おとぼけの辰か」
 辰は、首にかけたヘッドフォンを、忍に渡そうとする。忍はここからでもきこえるよ。と、音漏れに目をつぶってまた耳を澄ませる。
「レイ・チャールズだ」
「レイチャールズ」
「曲はイン・ザ・ヒート・オブ・ザ・ナイト」
「おれは学はさっぱりです」
「たしかこの曲は、むかし、サスペンス映画の冒頭に使われてたっけか。黒人の刑事が白人社会の田舎町から人種差別に遭いながらも、殺人事件を解決していくっていう。タイトルは忘れちまったが。なんていんだっけか? デカいの? 」
 グシは啞(おし)のように黙った。
「赤毛のモヒカン頭のおまえだ」
 グシは忍に叩かれて、ビビってあとじさった。しかし伝説の忍に触れてもらえた嬉しさか、あ、ありがとうございます。訳もわからずにことばを漏らし、顔は興奮気味に上気する。
 辰は、ヘッドフォンをまた被ってさけんだ。
「インザ、ヒイイイト、オブダ、ナアアアアアア〜イト! 」
「それだよ! それ! 思いだした。『夜の大捜査線』だ。そうだよな? デカいの。おまだよ」
 忍はグシの太ももをぺちぺちと叩いた。おまえ。と忍に呼ばれたグシは怯えながらも、ええ、きっとそうだと思います。と強くうなずいた。
 井岡忍は磊落(らいらく)に笑って、辰の肩をひきよせる。足元にある死体をローファーのかかとで思いっきり蹴りあげた。死体は大釜の茹だった湯気のなかにぬるりと沈んだ。
「辰、ちょい、オメエの耳を貸してくれや」
「おれ、いま仕事中で… 」
「あんまカテエことぬかすねえ。明日はおれもおめえもこの死体とおなじになってるかもしれねえんだぜ」
 かっこいいな。やっぱ忍さんのセリフは。まわりの男衆は忍のセリフに聞き惚れているようだ。
「へえ」
 と辰はうなずいた。
「で、銀の字はどこだ? 」
「これから親不知に寄って、雄琴です」
「これから? 」
 忍は腕時計の文字盤に目を落とす。
「いまから出発して雄琴に到着は昼日中じゃねえか」
「まあ」
 辰は笑ってうなずいた。
「銀め。まっ昼間からか。ったく、あのイロ気狂いが」
 忍は笑った。ここから雄琴までどれくらいかかるよ。辰っちゃんの有名な安全運転で。忍は首を曲げてポキポキと音をだす。ええ、おかげさまで来月の誕生日にゴールド免許を更新します。すっとばして走らせても、およそ四時間かかりますね。
「で、今日もおまえが運転か」
「ええ、まあ」
 辰が言うと、忍は百畳の作業場を見渡した。
「この部屋にいる男衆で、車の免許をもってるやつはいねえのか? いたら手を挙げろ」
 忍は大声を張り上げた。手を挙げたのは、辰だけだった。
「はぁ、銀の野郎。一番にはたらいてる男衆どもによ、運転免許ぐらいよぉ。取らせよろよ」
 忍は白いスーツの内ポケットから分厚い札束をだした。その角をトランプをめくるようにパラパラとめくる。札束を辰にわたした。
「ここにポッキリ百万がある。いま辰にわたした。おまえら、いまからジャンケンしろ。恨みっこなしだ。勝った四名(四本指をかかげて見せる)に、この忍さんが運転免許をとらせてやる。ジャンケンをして勝ったら無料の教習所にいけるぞ。ではこれから第一回井岡忍ドライバーライセンスカップといこうかァ」
「よォ! 井岡カップですね! 」
 作業場一面に、拍手が沸いた。いいから、はよ、ジャンケンをやれ。忍が手を挙げると、まわりの男衆は、いっせいにジャンケンをやり始める。
 背の小さいタケと赤毛のモヒカンのグシと新人のシライが勝った。もうひとり勝ったやつがいたがその男は茹だる大釜のなかに浮かんで死んでいた。それを見て忍はおおきく肩を落とす。
「だめだよー。こういうことをやっちゃあ。いまはどこでもうるさいんだからよ。銀に追求されて、詰められたら、おれの足元だって危ないよ。こういう問題ってのはよ、だれのせいにすりゃあいんだあ? おい! この事故で、いったいだれが、責任を取るんだあ! 」
 作業所は水を打ったように静まりかえった。
「おれは、だれかの背中を推したやつは責めない。ここは罪を憎んでヒトを憎まずとしようじゃねえか。大会は毎月やる。表向き辰が主催するってことで、その費用はおれがポケットマネーからだす。この忍さんがよ、ここではたらくみんなが運転免許を取れるようにする。ジャンケンはただのまつりだ。安心せえ」
 忍はポケットに片手をツッコんだまま辰の片手をにぎって掲げてみせた。まるでボクシングのタイトルマッチ戦のレフリーのように。やっぱすげえ、東京作業所の元総責任者の井岡忍は格がちがうぜ。男衆の声が漏れ聞こえてくる。忍は辰のポケットに百万円の札束をいれた。辰の肩を抱いてよせる。
「じゃあ、出発する前にほんの少しだけ話そうか? オカミのほうで動きがでたんだ」
「いってらっしゃいませ」
 地下室にいる作業員は膝に両手をついて声を揃えた。


三 (ファミレスにて 1月21日am.09:25)



 昼にはやはり早い夕陽のようなオレンジ色の太陽が当たる崖に、渦で生まれた波濤が突進しては抱きしめあってたがいに慰(なぐさみ)み消え、それが滝壺のように見えるが、その傍ら、国道、旧国道、山岳ショップ、割れたマンションの窓、防波堤で首を垂らす釣り人の群れ、山手には林、それから森、海にはタンカーの汽笛のような蜃気楼と、廃線になった鉄道の軌条の先には旧陸軍がガソリンを埋蔵していたと思われるレンガでできた洞窟の影、零戦が隠れる木の葉が生い茂った掩体壕、落ちたピストル、波、テトラポッド、人魚の死体、角が取れてまるくなった流木、黒く燃えのこされた枯れた焚き火、カァと羽ばたく鳥、それらを海が幻想で塗り替える、鳥のフンがべっとりと付着いて白色に変わり果てためおと岩、波が拐ってもってきた中学校の自転車、赤い車、ねずみとりがわりに使いペンキの剥げたスバルのパトカー、その百メートルほどのハイウェイの橋桁の下の山手がわの玉砂利の敷地にあるファミレスの北の窓際の席に座った辰は、上越方面にむかう道の向こうがわにある浜辺で、寄せる冬の波が洗剤でできたみたいな脆(もろ)い灰色の泡を高く形成しては壊れる様を眺めていた。メニューは頼まずに手持ちぶさただった。腕時計に目を落とした。頭をぽりぽりと掻く。少し遅れる。と忍に言われて、五分をすぎていた。辰は忍と話して作業所に戻って車で銀を迎えにいく。親不知のホテルまでの時間を計算する。
「ご注文をおうかがいします」
 辰は顔をあげずに、ブレンド、ホットで。と答える。
「お砂糖とミルクは、要らない? 」
 辰は見上げた。じゃあ一つずつ。と答える。
「たまわりました」
 声でわかった。それと、腰を振って去っていく女の後ろ姿の艶かしい肢体を見て、辰はこのファミレスの出店と入れ替わりで潰れた、以前この敷地にあった喫茶店で働いていた女だと思った。名前は忘れたが一度、寝たことがあった。抱いたのはずいぶん前の話だ。抱くたびに、軋んだ板のような嬌声を上げた。いい女だったが、関係は続かなかった。この店が喫茶店だった頃の白ヒゲのマスターを少し思い出した。いつもコーヒーの臭いが染みたエプロンを痩せた胸に下げていた。
 あと五分。待って来なかったら店はでる。ズボンのポケットに手を突っ込んで辰は車のキーを握りしめる。
 海岸沿いに、弓なりになって伸びる国道の先から、貨物が前と後ろに二つ連結された巨大なトレーラーが砂利の敷地にゆっくりと入ってきた。フルトレーラーだ。頭から尻まで二十五メートルはある。あの運ちゃんの年収はいくらだろうなー。辰はぼんやりと思っていると、逆側のポケットのなかのケータイが震えた。銀からかと思ったが、忍からだった。出ると、マエをみろマエ、トレーラーのヘッドだよ、ウンテンセキだ。電話は切れた。辰は国道沿いに高い杭になってそびえ立つ店の看板の先を見る。フルトレーラーは砂利になった敷地のなかに車体を折り込んで侵入してきて、最終的には国道側にトレーラーヘッドを向けて一直線に停車した。フルトレーラーはファミレスの敷地に停車するのにたっぷり二分はかかった。敷地にホコリが舞いあがった。ホコリが消えると運転席から手を振っている男がみえる。忍だった。忍があのバカでっかいトレーラーヘッドに座ってフルトレーラーを運転していた。となりに若い衆がいて番をさせた真っ白なスーツ姿の忍はトレーラーヘッドからとび降りた。
 カランコロン。鈴がなって、忍は店に入ってきた。
「ようやく取ったんですね」
「おつとめをまたいだが、取れたよ。取った甲斐があったぜ。今回のためにとったようなもんだ」
 忍は、意味深に顔を破顔させてみせた。
「そういえば、話ってなんですか? 」
 辰は話は手短に済ませたかった。忍はあせる様子などはなく、エメラルドグリーンの硬く座り心地が悪いビニールのソファに片足を投げて、テーブルに肘をつき、手をあげてウエイトレスを呼んだ。
「この店には灰皿はあるかい? 」
 ウエイトレスは茶色のトレンチを胸に抱えて、辰を睨んでいた。
「お姉さん。客が聞いてるんだよ」
 慌てて辰は、この店は全席禁煙なんです。すみませんが、喫煙席はないですね。とウエイトレスにかわって言うと、ウエイトレスは、キッチンにもどってアルミ製の灰皿をもってきた。あるじゃねえか。と忍は辰に大声で言って、ウエイトレスから受け取ろうとすると、彼女は灰皿を手元に引っ込めた。辰を睨んだまま、灰皿をもったその手で奥のトイレを示した。
「奥のトイレの脇の角なら、天井にあるフックからパーテーションを吊るせば、タバコが吸える喫煙席にできます。だけどね。いまのこの時間はモーニングです。平日でもお客はくるの。他のお客からクレームがきても店としては対応しませんけど」
 辰を睨んだまま言った。
「だってよ辰。タバコ。吸えるじゃねえか」
 忍は辰に剣呑に言った。
「すみません」辰は言った。
 ふたりは席を移動した。
「で、話はなんですか? 」
 辰は忍の目を盗み、忍の背後にある柱時計に目をやる。それはフランチャイズ店のイメージバードが窓から飛び出る鳩時計だった。九時半になって窓から鳩がでてきたら銀から巨大な雷が落ちる。
「おまえ今日は予定は空いてないのか? 」
「これからすぐに銀さんと仕事です」
 忍はタバコをゆっくりと吸った。タバコの先が緋色にふくらんだ。
「綿鍋金男の件か」
「ええ」
「大阪の統括責任者が失踪ねえ」
 辰はそれには答えなかった。忍は肺のなかに溜めこだ紫炎を半開きにした口の右側から吐きだした。天井から下がるパーテーションがゆれた。トイレに入っていく青年が咳きこんだ。
「さっそく本題だ」
 忍はいう。息をのむ辰。
「おまえが信用できるニンゲンをひとり貸して欲しい」
 辰は左ポケットからケータイを取りだしてかけた。
「タケさん。仕事中に悪いな。釜番でまだそこにグシいるか」
 右のポケットに入れた手が汗ばんで、にぎる車のキーがぬれるのを感じる。
「いや、替わらなくていいんだ。こう伝えて欲しい。グシは仕事を中断していい。タイムカードは一応、押して、いまからファミリーズに来てくれって伝えてくれ。そうだ。毎週金曜の夜に集まる、すぐ近くのファミレスだ。来ても、辰はいない。入っていちばん奥だ。どんつきのトイレの手前の喫煙席で、忍さんが待っている。忍さんから直接に話があるそうだ」
 電話を切って辰は腰をあげて、忍に頭を下げた。
「これで、失礼します」
「悪いな。おい、あの美人のウエイトレス。ずっとお前のこと睨(にら)んでるぞ」
「おれの人相が気にいらんのでしょう」
 忍は豪快に笑った。
「お前、あの女となんかあったのか? 」
「いや。今日、生まれて初めて見た女です」
「二枚目は困るな」
「コーヒー代は払います」
「いいよ。おれがおまえを呼び出したんだ。ここは払わせてくれ」
「ありがとうございます」
「そうだ。さっきの電話口のやつは。タケって言ったな」
「はい。背の小さい竹原ってやつです。苗字の漢字は、竹はチクリンの竹、原はノハラの原です。顔の人相は悪いですがおれの信用はあります」
「竹原な。わかった」
 いまいちど辰は忍に首を下げて席を立つ。
 忍は天井から吊るされた、麻の藍色の染め物のパーテーションを、利き手ですこし左に退けて、辰が店をでるのを見守る。辰は、海が見える通路でウエイトレスとすれ違いざまに転んだ。ケータイを床に落とした。ウエイトレスに足元を引っ掛けられたように見えたが忍には判別できなかった。ウエイトレスは膝を折って落としたリモコン式のオーダー器を拾って、厨房に消えた。
 鳩時計から鳩が出てきて、一回、鳴いた。





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