自分を諦める儀式

あの人とかこの人とかに怒られちゃいそうなタイトル。

私は、本当のところは、人とコンテンツについて話すこと、内観しそれを共有すること、作品に触れること、ヲタクが芸術点高く沼に落ちていく様子を眺めること、が大好きで、そういう事をするのが一番楽しい。そういう性格の人間になってしまった。

しかしどうやら、仕事-仕事にまつわる人との交流-仕事でしか得られない加速度がある。ずっと頭の片隅に仕事のある人にしか得られない加速度。

この1年間、帰宅した後に「仕事」という概念を忘れ去りすぎました。勉強しなきゃと思うことすら嫌になってしまい結局だめでした…。
その結果今になって「全然仕事できない自分」が不甲斐ないです。当然の起結。
書類をサイレントに大幅修正されていて、しかもそれを見ると私ぜんぜんうまく書けてなかったなと反省した。悲しい、不甲斐ない。

「仕事のことが頭の中にないのなんて1月1日くらいかも」と、数十人単位の組織を束ねる母が言う。「仕事がつらい気持ちはよく分かるから、体力面は支えてあげるけど、こんなにいろんな人に支えられてるんだから弱音吐かずに頑張りなさい」。

私が伸びるにはどうすればいいか分かっている。
仕事の事を頭の片隅においている時間を増やせばいいのだ。
なんやで具体的な工夫の仕方とかは経験則があるし自分がどういうタイプかは朧げに掴んでいる。

でもそれが辛かったからここまで逃げてきてしまった。
今になって思うのは、24時間は働けなくていいけど、24時間働く事を考えることは義務だったのかもしれない。

実はハロープロジェクトのメンバーの様子を見ていて、私は最近ずっと罪悪感を抱いていた。ハロメンはきっと1日のうち多くの時間と頭を仕事に費やしている。努力研鑽をつんでいる。それに比べて自分はどうなんだ。仕事の事を考えたくない。かといってヲタクとしての業務もてんでだめ。なんのアウトプットもできていない。全てだめ。

私は要領が悪いし、一つのことにギアを入れてしまうとそちらにのめり込んでしまうので、「どっちもいっちゃう?!」ができない。
なのでついに諦める時期に入ってきたのかもしれない。いや本当は1年前から諦めるべきべきだったんだけど、ここで諦めると一生続くのかなと考えてしまってあまりに辛かったからできなかった。

生きていくために諦めようかな、つまんない人間になっちゃうのかな。ごめんなさい。でもライブは行きたいな。中途半端かな、でもライブも行かなくなったら何するために生きてるか分かんなくなっちゃう。いや生きてる理由は生まれちゃったからだよな。

いくつかある錨に繋ぎ止めてもらいながら、生きるためにフワフワと諦めの海を漂うことを考えるだけでしんどいけど、生きるためにはしょうがないよね。どうしてこうなっちゃうんだろうか。

心の整理のために書き綴り、また駄文を生成してしまった。