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祖母と牛乳


私の夢には、よく祖母の家が出てくる。
 特に長期間住んでいたわけではなく、夏休みとかに数日泊まりに行った程度なのに、なぜかよく祖母の家が出てくるのだ。それは殺人鬼に追いかけられる場所であったり、恋人と過ごす場所であったり、永遠と続く迷路だったりした。

 「牛乳しっかり飲み切りなさいよ」
 もう成人も過ぎたのにまだ朝に牛乳をコップ一杯飲み切らせようとしてくるのは、ずっと変わらない。変わったのは昔使っていたセーラームーンのコップだけで、相変わらず頼んでもいないのにストーブで温められて膜を張った牛乳が、少し皺をつけて白い簡素なマグカップの中で揺らいでいる。
 「おばあちゃん、温めないでっていつも言ってるじゃん」
 朝のイラついた頭では感情をセーブする余裕がない。ムカムカしながら割りばしの頭で膜をすくう。そうすると祖母は祖父の仏壇に手を合わせながら、「膜には栄養があるんだから捨てないの。」といつもの文句を言う。毎回やめてって言ってるのに、と不満を漏らそうにも、結局私の体力が消耗されるばかりなので、仕方なく喋るのをやめて、わざとらしく膜をティッシュに置いてパサパサのパンをかじった。

 祖母の家のお泊り最終日、私は些細なことでふてくされていた。帰る時間になってもそれは変わらず、祖母はいつも通り、私の怒りには気づいているが気にしないといった感じで私の帰る時間の確認をした。私は大きな声で「さんじ!」と叫んで帰る支度を続けた。
 時間になると家の外で母親が車に乗って迎えに来た。私は車に飛び乗り、そのままへの字の口を続けた。祖母は家の外まで出て私が帰るのを見送ってくれた。いつもなら私は車の窓を開けて、祖母が見えなくなるまで手を振っていたのだが、その日は窓の開閉ボタンに手も置かず、そのまま家と反対方向を向いた。
 自分の良心と葛藤はしたが、結局意地が勝って私は依然背もたれに背をつけたままだった。いまだこちらに向かって手を振っているであろう祖母を無視して、車はゆっくりと発進した。

 恐る恐る後ろを見ると、祖母だけ取り残された大きすぎる一軒家の目の前で、小さい彼女がついに見えなくなった瞬間だった。

 

その日の夜にも祖母の家は現れた。そこでは殺人鬼も恋人も巨大迷宮もなく、ただ祖母がダイニングにいて牛乳の膜を舐めていた。
彼女は、美味しいとも不味いともつかない顔で、「膜には栄養があるんだから」と静かに言った。
 私は、祖母に聞こえないように小さな声で「うん」と言った。
 朝日が眩しかった。

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