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ゲルハルト・リヒター展@東京国立近代美術館  ― 写真いかほどのものか 1

​きちんと見たかったので、有給をとって雨天の平日に出かけた。
それでも予想以上に観客は多くて、「きちんと見る」にはギリギリという状況だった。
多くは、アートを格別好む20代から30代という男女だった。

すばらしかった。

何から書けばいいだろう。

驚いたのは、リヒターの作品が全て写真撮影可能だったということだ(彼の作品ではない、歴史的な4枚の写真は撮影不可 ※)。
日本での企画展ではたいへん珍しい。
油彩にも多くは額縁は施されておらず、つまり、ガラス等でおおわれてもいなかった。
私はiPhoneで撮影したりもしたのだが、しかし、撮影した画像と目の前にある実物とがあまりに違うのには、思わず笑ったほどだ。

私のリヒターについての知識は、美術館を訪れて知ったものがほぼ全てだ。
今回、この展示を見に来たのは、リヒターはフランシス・ベーコンをしっていると思ったからだ。
ベーコンは人間の視覚を頼りにつつもそれを信じていなかった。
リヒターがこのベーコンの不信をどこに昇華しているのか、そこを確かめたいと思ったのだった。

リヒターは、開かれた、つまり、どのように解釈してもいいし、なんなら観る者が勝手に作品をつくってくれてもいい、という「信頼」を提示してくれていた。
信頼とは、独自に存在するものではなく、希求することによって現れる現象、なのだった。


※ これらの写真については、意味がわからない人も多いのではないかと思った。
リヒターの絵の解釈のためというよりも歴史的事実を知るために、もう少し解説を施してくれていたら親切だったかもしれない。
まずは次回、"2"でこれらの写真について記載しよう。

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