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冷静に情熱を@野球

2023年はプロ野球ファンとして、燕ファンとして、とても苦しいシーズンだった。三連覇、日本一奪還を目指したスタートから考えると、全く不本意なゴールへたどり着いたように感じる。
リーグ5位という成績も無論だが、それ以上に辛かったのは、あらゆる角度からのバッシングにひたすら耐えねばならなかったことが予想以上に堪えた。いちファンがキツイと感じるくらいだから、チーム、選手や監督コーチ陣は言わずもがな。
表立って誹謗中傷の被害を訴える者(燕に関しては)は居なかったが、恐らく相当数、想像以上の暴言をぶつけられていたことだろう。現に投手陣のSNSには脅しとも取れるような罵言が多々投稿され、一時閉鎖する事態にもなっていた。

ネットニュースが逐一取り上げる言動の断片化報道が過激な投稿に拍車をかけ、プレーでの出来事(主に死球)にからめては異常なまでのボルテージで攻撃を受け、過剰かつ執拗に謝罪を求める内容の投稿が延々続いた。
今もなお各メディアのニュース記事に寄せたコメント等において死球を絡めた陰湿な投稿が散見される有り様だ。
今シーズンをそれなりに穏やかに観戦したい希望は果たして叶うのか、危ぶまれる。

死球については燕のみならず他球団にも暗い影を落とした。この問題の中心に虎の岡田監督の言動が有ったことは間違いない。
現場の指揮官として再び望まれて戻ってきた岡田監督。
想像ではあるが、岡田監督もここまで死球にまつわる自らの言動がメディアやファンを巻き込む大きな波を生むとは余り思っていなかったのではないか。
そして生じた巨大な波を存分に乗りこなし、結果的に他球団が”やりづらい”空気に呑まれるようにと引き込んで、優勝への勢いをつけることに成功した。
虎の選手たちが持つ能力は申し分なく、岡田監督は彼らの力をこれ以上ない最高のタイミングで結実させ、日本一まで到達した。
ファンも在阪メディアも大きく強くこの波を動かす一助となり、他を圧倒したと言える。
岡田監督はまさにグラウンド内外を支配するかのようにプロ野球という盤面を操った。恐ろしいほど全方面を余さず固めた日本一だと痛感している。
だから今季は更に恐ろしくもある。そして、ファンとして強くならなければと肝に銘じている。

2023年は応援に制限が無くなり、観客の声が戻ってきた。
2020年以降に入団してきた若手はこの声援を知らない。
甲子園を始め高校や大学野球でもこうした経験の乏しいままプロ入りした者も少なからずいるだろう。その意味で、『観客の声・行動』にも選手たちは様々な影響を受けた。
初めて体験するにしろ、再びのそれを見聞きするにしろ。
SNSの声とは別に球場で直に降りかかる声。
拍手や歓喜の声とは限らない。
ヤジ、ブーイング、下品な替え歌、蛍の光やあと一人コール。
ネットの声を無視することも若者には難しいが、球場に行く限り試合に出る限りは『直接の声』は避けられず投げかけられる。
観客の発する生々しい感情の発露は、選手からすれば心身に刻まれそうなほどの強い力であったろう。

チームは『声』に振り回されない・揺さぶられないタフネスを。
ファンは言わなくて良いことは言わない・しなくて良いことはしない理性と良識を。
法的に誹謗中傷に該当するか否かではない。罰則規定の有無でもない。
法は最低限のモラルに過ぎないのだ。法に触れる領域の手前、そこに数多ある罵詈雑言や否定的文言、部外者であることから逸脱した非難など、言わなくて良い言葉を発信しない。
物申さずに済まないと思っても、のみ込む。
球場内外で当たり散らしたくなる衝動に耐える。
ものを投げたり壊したりという行動で周囲に威圧感や嫌悪を与えない。
ファンにはそういう理性が必要なのだ。
情熱だとか熱い想いだとか期待するからこそ、なんてのは当たり散らす己の幼稚さを正当化したいだけの言い訳だ。

ひいきチームの勝ちを願う応援と、相手チームのエラーや不振不調を望むためのヤジやブーイングとは、全く別物だ。
ひいきチームが負ければ悔しいのは分かる。しかしそれで相手チームが勝ちを喜ぶことを妨害したり攻撃したりは断じて許されざる行いだ。
横浜スタジアムでの蛮行を虎ファンは猛省し、二度とやらないで欲しい。
もちろん12球団どこのファンだろうが当たり前のこと。
(どこのファンにも賊徒が一定数存在するのは事実だが、加勢も擁護も煽るのも、結果的に野球ファン全般を貶める)

死球に関しては幾年も前から続く因縁めいたものもある故、プレー中にそうした危険行為が出ればどうしても過去を掘り返してファンが場外乱闘しがちである。
またYouTubeやニュース・コラムなどでOB大御所ライターがコメントを出し、それらがまたネット上で乱反射して波紋を呼ぶことも少なくない。
岡田監督が監督として死球に怒るのは選手のためと分かるが、謝罪を求める立場ではないし、死球を巡るやり取りをメディアもネチネチ取り上げ続ける必要はない。
死球を始め危険行為に関しては当然関わった選手同士で謝罪がなされることであり、関わっていない者が責め立てたり謝罪を迫るものではない。
乱闘が事実上行われない現状において、それぞれの立場で怒りへの対処は変わらねばならない。

死球については、当てられるリスク(負傷や恐怖心)も当てるリスク(評価や試合への影響、誹謗中傷)も負わない立場の人間が言えることなど無いに等しい。
ダメージ少なくあれと願い、回復と復調を祈るぐらいだ。
ましてやチーム状況や順位、勝敗にかかわらず(優勝がかかっていようがいまいが)選手・チームとして「勝つためのプレー」をする、投手陣が厳しいコースに投げるのは当然である。
負けたくない打たれたくない。負けてはいけない打たれてはいけない。それと同じくらいの思いで投手陣は誰にも当てたくないし当てない投球を目指す。
それは「普通」のことだ。
不幸にも死球が発生したとして、当てられた選手がチーム主力か否かなど関係ない。
選手が死球を受けたという事実だけがそこにある。
だから「優勝がかかったチーム主力に死球するな」「得点差が大きいのに厳しいコースに投げるな」というのは意味がない。
どんなチームもひとつでも多く勝ち星が欲しいし、求められるのだから。
死球を与えた方とて自身の評価や試合の流れ、以降の影響に関わることを思えば、自責の念を抱くことも、相手への謝罪もなされることも疑いない。
たとえそれらのやり取りがファンの視界に映らないとしても。

岡田監督が死球について自らへの直接謝罪を求めたことはおかしなことと言わざるを得ない。(横浜戦)子ども同士のケンカに大人がしゃしゃり出るようなものだ。
選手は大人だし、死球はケンカではなく事故である。
そして、個々の努力を尽くしても懲罰や罵倒で圧を加えようとゼロに出来ないのが事故である。
高津監督、三浦監督は岡田監督のもとに出向いて謝罪を公にしたが、こうでもしなければ場外乱闘は過激さを増すだけだったろう。それでもネット上では高津監督をなじるコメントがいまだに散見される。
そもそも謝罪行動を白日のもとに曝すことをファンやメディアが過剰に求めるからこそ行わなければならなかったことが残念だった。ファンもメディアも幼稚だ。
何故、「全て」を公開すべしと迫るのか。
おもてに出す出さないの判断を何故尊重しないのか。
謝罪など水面下にある個別の意思伝達や、選手の人間性(ちゃんと謝る、労うなど)を何故信じないのか。
スポーツマンシップや高潔な人間性を求めるなら、謝罪も感謝の意も労いも当事者同士のなかでなされることとファンは信じるのがまともな感覚ではないのか。
何もかもを全ておもてに晒すことが正解ではない、誠意でもない。
可視化されない水面下の交流にまで介入干渉する権利など誰にもない。

虎の投手陣が相手チームに死球を与えたとき、岡田監督は何も言及しなかった。謝罪をしなかった。
「謝らない」というスタンスの表明であるのなら、疑問は残るもののそれを監督の姿勢として解釈する。
虎ファンはこのことをどう思ったのだろう。
相手チーム選手・監督の謝罪を「あんなの謝罪じゃない」「ゴミ球団」「負けが込むと当ててくる方針」「死球は犯罪」「投げられなくなるまでブーイングしてやる」などと詰った者たちは、球場で他球団の投手にブーイングしていた者たちは、今後も同じことをするのだろうか。

死球に限らず危険なプレーをゼロにすることは正直無理だとは思う、無論ゼロにすべしという構えでシーズンを戦って欲しいのは言うまでもない。
自分が問題視するのはあくまで当事者以外が巻き起こし拡大させていく言動。
声援はひいきチームの勝ちを願うためのもの。
相手チームを詰り嘲るためではないし、エラーや不調を誘発するためのものではない。
勝負は時の運。仮にひいきチームが負けを喫したとして、相手チームが勝利を喜ぶことを妨害したり過度に責めて感情表現を封じさせるべきではない。
どのチームにも自らの勝ちを喜ぶ権利がある。その喜びは負けた側をあざ笑うものではないのだから。
負けた悔しさを相手の喜びにぶつけて溜飲を下げても虚しいだけ、他者に当たり散らすほうが醜悪ではないか。

法に抵触しなければ何を言ってもやっても構わない訳ではない。
その手前で留まる理知を持つ。
たとえ一時の激情や憤怒に駆られても、冗談やいじりのつもりでも、「それを発信したらどうなるか」を考える。
言動を向ける対象は人である。
野球選手はスーパースターかもしれないが、何にも傷つかないスーパーマンではない。

相手の心身や尊厳を損なうような言動は、結局自分自身を貶める。
ソウイウコトしか言えない出来ない奴、と。