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そんなこと無いよ、は怖い


『そんなこと無いよ』は数ある言葉の中でもめちゃくちゃ扱いの難しい、怖い言葉だ。

言葉は武器だ、僕の一貫した持論。

何もひとを傷つけるどうこうは無くとも、本来的意味の『武器』ではなくても、自分や他人を守るために使えば御力装置として十分過ぎるほど機能する。

刀は刺す為だけのものじゃない。他者から斬り込まれた時にかざして跳ね返す為にも使う。もちろん跳ね返した結果、相手の弱点を切っ先が掠めることもあり得るし、無関係のひとが巻き込まれて被害拡大もあり得る。

一見どれだけ優しげで口当たりの良いものでも、言葉は武器たる本質から自由にはなれない。

全てのひとに滋味や癒やしとなる言葉など存在しない。

『そんなこと無いよ』待ち、というコミュニケーション小芝居がある。

例えばSNSやリアルな会話の中で、誰かが「私なんておばさんだから」「どうせ太ってるしー」とネガティブ発言を吐き出す。事実や当人の本心はどうあれ、誰かから「そんなこと無いよ」と良き否定を引き出したくて、期待を忍ばせながらそれらは発せられる。

良き否定を欲する心理の不思議さは、結局のところ、まじない程度に過ぎない安心を貪りたい渇望と結びつく。

所詮はまじない。いくらたくさん得ても貪っても満たされはしない。定期的に、途絶えることないように、「そんなこと無いよ」を他人から引きずり出したがる亡者へと変貌する。

こうなると「そんなこと無いよ」は、まじないどころか不安と飢えを再生産する呪いと化す。

いつかは尽きるのだ。親しい友人知人、果てはSNSなら世界規模で発信できるけれど、世界中の人間から貰える保証は無い。近しい者たちに繰り返し求めるうちに、どれだけ優しい人でも辟易せざるを得なくなる。

「そんなこと無いよ」の死滅した世界には、次なるまじないワードを求める妄念が涌くのだろうか。

ネガティブ発言は良き否定を求める、他にもあるだろうか。

やや異なる種類のネガティブ発言として、「私なんて生きていても仕方無い」「私はここに居てはいけないのではないか」を挙げてみる。

先ほどのネガティブ発言とは格段に深刻度が増して、安易に「そんなこと無いよ」を言いづらい。発言者と自分との関係性にも左右されるし、「そんなこと無いよ」が果たして適切なのかと言う判断力や洞察力も問われる。

この状況における「そんなこと無いよ」の重さは、場合によっては受け取り手の希望を破壊しかねない。

もはやコミュニケーション小芝居なんて茶化せない。この種類のネガティブ発言を提示する側は、まず己の為にも他人の為にも、決して安易な良き否定を期待すべきではない。その言葉を見聞きする全ての者に過剰な負荷をかける覚悟を持たねばならぬ。

もしも思わず「そんなこと無いよ」と返す者が居たならば。

それは、つまるところ心の奥底(意識下)では「そんなこと無いよ、とは断言出来ない」「もしかしたらそうかもね」と感知しているが故の、いうなれば『己の本心をこそ否定する為』に発せられるものなのだ。

相手へのまじないであった筈のものが、ここでは良き否定を返す者へのまじない返しに変化している。

相手のネガティブ発言を否定し切れないと薄々勘づいていて、けれどそれを正直に伝える怖さには踏み込めず、さりとて模範解答など無いのも解っているからこそ、反射的な「そんなこと無いよ」として発露される。携帯の予測変換の如く、とりあえず返しのテンプレートを提示する。逃避の一手法とも言えるが、それを責められる者もまた存在しない。

良き否定をみだりに欲しがる言動は、自分も他人も奈落へ落とす。たとえ小芝居の範疇内でも、結局飢えの苦しみは己が心にのし掛かり、他人を疲弊させる。

小芝居の領域を逸脱する場合は、そもそも相手から良きものを勝手に引き出そうと仕掛けてはならぬ。相手にはあなたに良きものを返す義務は無い。能力や責任が無い可能性もある。それを責め得る者は居ない。

「そんなこと無いよ」というまじないは、斯くも危うく不安定で、扱いの難しい武器なのだ。