4.

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「いやー、舞浜くんは変わらないねえ」

夕日のように赤くてかてかした顔をくしゃくしゃにして、教頭先生は笑った。お酒の匂いがふわりと立ち上る。

先生の行きつけの居酒屋「いわし雲」は、路地裏にこじんまりと佇む店構えのせいかお客は僕らしかいない。まさに頑固親父という感じの無口で強面の店主が、何かを刻むトントンという音だけが店内に響いている、そんな店だった。

しかし、先生のおすすめだけあって、出てくる料理はとてもおいしくて、お酒がどんどん進んだ。僕はあまり飲めないのに、もう四つ目のジョッキを空にしそうだった。

「教頭先生も、僕が小さな頃から変わらないですよ」

僕がそう言うと、おじさんからおじいちゃんになっちゃったけどねぇ、なんて言って先生はまた笑った。

白い髪の毛や、顔に深く刻まれたシワが、あれから幾重にも年を重ねてきたことを物語っていたけれど、やっぱり教頭先生は教頭先生のままだった。

眼鏡の奥の優しい細目も、ほんわかした喋り方も、冗談が大好きなところも僕が小学生のときから変わらずにそこにあって、だから母校を訪れた時もすぐに僕の知っている教頭先生だと分かった。それが何より嬉しかった。

「この街から出ていってしまう子供たちが多いから、こうして教え子にまた会えるのは嬉しいねえ。こんなに立派になって…」

お猪口を傾けながら、先生がしみじみと呟いた。その目は昔を懐かしむように、穏やかに遠くを眺めている。

関東のはずれのこの街で育った子供たちは、その多くが東京の大学に進学したり、就職する。結婚や出産を機に戻ってくる人もいるみたいだけど、ほとんどはそのまま都内で家庭を持ち、帰ってこないと僕の母が話していた。

たしかに田園が広がるこの街は、暮らすには多少不便かもしれない。商店街はシャッターが閉まっている店がほとんどだし、大きなデパートや繁華街も隣町まで行かなければ無い。就職先も少なく、初任給も東京に比べれば雀の涙だ。何もかもが揃っている大都会に出ていくのは当たり前のことなのかもしれない。

だけど、出版社との打ち合わせで東京を訪れるたび、溢れる広告と高い建物に囲まれ、人の波に押されて、僕は自分が自分で無くなるような感覚に襲われる。ぽっかりと僕の存在が抜け落ちて、雑踏の中、知らない誰かに踏まれる。東京の風はどこか素っ気なく、つくりものみたいだった。何もかも揃っているけれど、だからこそ僕の入り込む余地など残されていないような気がした。

この街の駅につくといつも、商店街から流れるお惣菜の匂いと青葉の匂いが混ざりあった風が吹いていて、その懐かしい匂いに満ちたこの街のほうが僕は好きだった。僕はたぶん、死ぬまでこの街で暮らしているんだろうなと思う。

「君の絵は、昔から人を惹きつける魅力がある」

串カツを頬張る僕を見つめ、先生は言った。

「そんなこと…思ったこと一度もなかったです」

僕は絵を描くのが、他の子よりも多少得意ではあったけれど、絵を褒められたり、好いてもらえたなんてことは、ほぼほぼ記憶に無かった。

別に下手ではないが、たいした魅力もない。君の絵はつまらない。専門学校に通っていた時も、絵本のコンクールでも幾度となく言われてきた。絵本作家として、デビューしてからも特に持て囃されることもなく、正直やっていけてるのが不思議なくらい。それが僕の絵。

「放課後、教室に展示した君の絵を、いつも同じ女の子が眺めていたのを知ってるかい?ずーっと真剣に見ているもんだから、印象に残っているよ。君の絵が好きだったんだろうなあ」

「へえ、そんなことがあったんですか」

努めて冷静に、何でもないように言ったけれど、自分の顔が自然とにやけてくるのが分かって、僕は口元を慌てて隠す。
嘘だろ!僕の絵が好きな女の子がいたなんて!店中をスキップして、踊り出したいくらいの気持ちだった。

「その子はなんて名前だったかな…小説家の天川渚の娘さんだよ。あの悲しそうな名前の…あいかわだったかな…」

「あ…哀川!」

思わず手に持っていた割り箸を落としてしまって、急いで拾う。
顔が一気に熱くなるのが分かった。
心臓の音が耳の中で大きく響いている。
今朝の夢が頭に蘇る。彼女の瞳を思い出す。

「そうそう、哀川ミユウさん…満ちる憂い、と書いて満憂なんて、小説家のセンスは独特というかなんというか…君友達かい?」

「はい、小2の時同じクラスで…」

しどろもどろにそう答えるのが精一杯で、どうにか気持ちを落ち着けようとジョッキに手を伸ばすが、ちくしょう、それはもうすでに空っぽだ。

「私は来年定年退職だから、それまでに哀川くんにも会いたいねぇ…」

独り言のようにぽつりと呟いた先生を見る。その横顔は、いつものように微笑んではいたけれどひどく寂しげで、急に年老いて見えた。

ああ、そうか。教頭先生が教頭先生でいるのにも終わりがあった。僕の中では先生はずっと変わらないままだと思っていたけれど、それは違った。

頭の中再生されていた夢が、ぱちんと弾けて、僕はなんだか今にも吐きそうになって、そのままカウンターに突っ伏した。

「おいおい舞浜くん、大丈夫かい?今、水を…」

先生が水を取りに席を外す音を聞きながら、僕は思い浮かべる。夕焼けで赤く染まる教室にひとり僕の絵を眺める、小さな哀川さんの後ろ姿を。どんな顔をして、僕の絵を見ているのだろう。いつものさみしげに翳った瞳だろうか。

そういえば、哀川さんの母親の名前も、哀川さんの下の名前も、僕はいままで知らなかった。知ろうと思えば、知れたはずなのに、僕は知ろうとも思わなかったのだ。

僕の中では、哀川さんは『哀川さん』という名前のただの女の子で、それ以上でも、それ以下でもなかったから。長年、心のどこかで想い続けてきた女の子の名前も生い立ちも知らないなんて、他の人が聞いたら呆れてしまうだろう。

今、哀川さんは(たぶん)結婚して、小学生くらいの娘がいる。ということは、哀川という苗字も僕の知らない苗字に変わってしまっているはずだ。そのことを忘れそうになるけれど。

とっくに、僕の初恋は終わっている。哀川さんが僕の絵を好きだったとして、それは二十年前の話でそんなこと哀川さんは覚えていないかもしれない。教頭先生も、小学校も、この街も、そして僕も、変わらないでそこにある気がしたけれど、そんなわけないんだ。先生も哀川さんも僕も歳をとり、先生は来年には先生ではなくなる。小学校の教室には、当たり前だけど僕の絵はもう無い。小さい頃通った商店街の駄菓子屋は、いつしか無くなってしまって、そんな店ばかりが増え続けている。

哀川満憂。アイカワミユウ。呂律の回らない舌で声を出さずに小さく転がす。アイカワミユウ。満ちる、憂い。ミユウ。

哀川満憂なんて、悲しみを背負って生きていかなければならないような名前。だけど、彼女にすごく似合っている名前。彼女のお母さんはどうしてその名前をつけたんだろう。今はどんな名前に変わってしまったんだろう。

「舞浜くん、ほら水だよ。それ飲んだら、もう出ようか。私もだいぶ酔っ払ったし」

肩をぽんと叩かれて、僕は顔を上げ、すみませんとグラスを受け取る。冷たい水を一気に飲み干すと、気持ちが少し落ち着いた気がした。

ふらつく足取りで店を出ると、ぽっかりと満月が暗い夜空に浮かんでいた。風はいつものように穏やかに、懐かしい匂いを運ぶ。この風もいつか変わってしまうのだろうか。だとしたら。

長い人生のたった一瞬、すれ違う人たちを決して逃がしてはいけない。走る車輪が擦れ合い火花を散らす、その瞬間のその程度の運命で、僕と哀川さんは今繋がっている。どんどん形が変わって、磨り減って、いつか死んでしまう車輪のような人生だから、僕は哀川さんの手を今度こそ掴まなければならない。

酔っぱらいの火照った頭で、そんなことを考えていた。

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