2.

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あの子はいつもさみしそうな目をしている。

窓際の一番うしろの席で、その小さな手にはいつもの本。分厚い、桜色の表紙の本。彼女はどこかさみしいような、かなしいような目でそれを眺めている。僕はいつもそれを見つめている。

五月のやわらかな木漏れ日があの子の机の上踊っていた。休み時間の教室はひどく騒がしいはずなのに、彼女を見ていると何故だか何も聞こえなくなる。僕と彼女だけ、透明な箱の中にいるようだ。

ぶわっと春風が窓から入り込み、教室に巻き上がる。彼女の本のページをぱらぱらとめくって、黒い髪が舞い上がる。きれい。渦巻く風の中、あの子が僕を見る。黒く儚げな瞳が僕を映して、君は何か言おうと、

「にゃーん」


「うーん…はんぺん…重いよ」
飛び乗ってきた飼い猫の重みに僕は目を覚ます。時計を見る。午前10時20分。教頭先生との約束は午後5時に駅前だから、まだ十分に時間があった。

はんぺんは脂肪のたっぷりついた腹を揺らしながら、ベッドから飛び降りる。僕も起きて、お皿にカリカリをたっぷり注いでやる。

頭が熱を持ってぼんやりしている。この前学校で見たあのそっくりな少女のせいだろうか。哀川さんの夢を見ていた。

机の上には、散らかった絵の具や絵筆の隙間から僕を見つめる半分だけ色のついた女の子。その瞳はやっぱりちょっとさみしそうで、黒い髪に小さなリボン。からだと同じくらい大きな本を抱えている。

ああ、あれが僕の初恋だったのかもしれない。

哀川さんの本の表紙には、僕がいつも読む子供向け文庫のようにかわいい絵はついていなくて、ただむずかしくて読めない字のタイトルと著者名が小さくあるだけだった。たぶんあの頃の僕には、いや、こどもには到底分からないような物語。それをひとり、物憂げな瞳で、ただ静かに読んでいる彼女はとても大人びて見えたし、僕はひそかに憧れていた。
しかし、弱虫な僕は話しかけることもできずに、彼女は三年生になる前にどこかへ転校してしまったのだった。

「もう二十年も経つのになあ…」

僕は苦笑いを浮かべる。僕はもういい大人で、哀川さんだってそうだ。あの頃とは何もかも違う。あの女の子が哀川さんの娘だとすれば、彼女は今幸せに暮らしているのだろう。

なんだかちょっとセンチメンタルな気分になって、僕はため息をつく。講演会で僕の人生を語るなんて、おこがましいような気さえしてくる。僕は、小学生のときの好きな子をいまでも未練がましく思い出して、絵本に出てくる女の子も彼女に似せて描いてしまうような絵本作家です。なんだか情けなくなってきた。

けして、不幸せなわけではない。絵本作家一本でやっていけるほど売れてはいないが、週3日のスーパーでお惣菜を作るアルバイトと、時々依頼される雑誌や広告の挿絵の仕事で、僕とはんぺん、普通の生活はできている。好きなことを仕事に出来ている僕はすごく恵まれているんだと思う。

内気で身体も弱かった僕は友達も少なかったし、両親は共働きで家を留守にすることが多かった。ひとりぼっちの僕の唯一の相棒は、色鮮やかな絵本や挿絵のたくさん入った児童文学だった。開けば、わくわくするような色彩と、やさしくあたたかい世界が広がっていて、夢中になって読んだ。本の世界にいるときは、ひとりのさみしさを忘れられた。どんなにつらくても、絵本がなぐさめてくれたのだ。

もともと絵を描くのが得意だった僕は、そのうち自分でも絵本を作ってみたいと思うようになった。両親に頭を下げて美大を受験したが、落ちた。僕はただ絵が好きなだけで、才能も実力もなかったのだ。だけどどうしても諦めきれず、地元でバイトをしながら、イラスト系の専門学校に通い、ひたすら絵本のコンクールに応募し続けた。僕にはそれしかなかったから。

僕の絵本がコンクールの優秀賞を取り、はじめて出版のオファーをもらったのが、25歳の冬だった。専門学校を卒業し、フリーターを続けながら、ひたすら応募し続けて、やっとのことだった。

タイトルは、ワコとポポ。ひとりぼっちで小さな星に住む、本が好きな女の子ワコが、宇宙猫のポポと出会い、宇宙にともだちを探しに行く物語だ。

僕はずっと自分のために絵本を作っていると思っていた。だけど、哀川さんのためでもあったのかもしれない。哀川さんの瞳に、姿に、どこか自分と似たものを僕は感じていた。だから、僕の絵本で彼女に笑ってほしかった。

それこそ、おこがましい話だ。向こうは僕のことを覚えてすらいないことだって有り得るのに。だけど、もし会えたら。

窓を開けて、外を眺める。この、小さな街に彼女はいるのだろうか。おだやかな晴れの日。見下ろせば、マンションの駐車場で子供たちが遊んでいる。そうか、今日は日曜日か―――

きゃあきゃあと声をあげて、チョークで何か描いたり、おはじきを並べたりしている。その中の一人がふと、上を見上げた。黒い髪の女の子。ばちり。儚げなさみしい目と、目が合ってしまった。

あの子は哀川さんの!

僕はうろたえながら、バッグにワコとポポシリーズ、全7巻を詰め込んだ。持ち上げてみて、よろける。お、重い。

「あ、あの!!」

はんぺんがびっくりして毛を逆立てる。僕は急いで部屋を飛び出した。

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