6.

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思い出の賞味期限はいつまでなんだろう。

スーパーからの帰り道、ふとそんなことを考える。
ねぎやら豆腐やらをぱんぱんに詰め込んだエコバッグを手に歩く、家までの道。

あんなにぎらぎらと輝いていた太陽は、いつの間にかおとなしくなって、十月の午後はぽかぽかと暖かい。空は澄んでいて、のらねこが塀の上で溶けている。ねこはかわいい。おなかを撫でようとしたけれど、真っ黒なそいつは、にゃあごと鳴いて一目散に逃げていってしまう。

こんなに晴れ渡った日は、彼のことを思い出す。
思い出すけれど、それは思い出すたびにすこしずつ形を変えていく。勝手に補正されて、なんてことのない日々がまるで美しい映画のようになってしまう。そうなってしまえば、もはや思い出は私のものではない。

記憶は、思い出は、たしかにそこにあった過去だというのに、時が経つほどにまぼろしのようになってしまうのはどうしてだろう。過去の私も、過去の君も、存在しない。今現在の私と、今は存在しない君。それしかもう、分からない。生きているかぎり、なくし続けるだけだとしたら、私は、

「おかあさん。」

ぐるぐると考えながら歩いていたら、後から呼び止められて、我に返る。私を見つめている小さな女の子がふたり。

「ニコ、明日花ちゃん、おかえり。」

私がそう言うと、ニコはぎゅっと抱きついてくる。
顎のあたりで切りそろえたさらさらの黒髪を撫でながら、ねこみたいだなとぼんやりと思う。

「ニコちゃんのママ!こんにちは!」

明日花ちゃんは、茶色の大きな瞳をきらきらさせて、ぺこりと頭を下げた。その動きに合わせて髪の毛がふわふわとなびいて、水色のランドセルはがたがたと音を立てる。

私と君の娘、嬉野 笑(うれしの にこ)は今年小学二年生になった。明日花ちゃんはニコのお友達で、同じく小学二年生だ。

「…おかあさん、明日花ちゃんを、お家によんでもいい?」

ニコは私を見上げながら、こてんと首をかしげた。奥二重の眠たげな目に、青白い顔。鼻も唇も頼りなく小さい。一度見ただけでは、覚えられないようなぼんやりした顔立ちの娘は、私にとてもよく似ている。内気で、恥ずかしがり屋で、うまく人に馴染めないところも。

それに対して、明日花ちゃんの目はぱっちりと大きく、通った鼻筋と長い手足。純日本人だというのに、明日花ちゃんはハーフの子みたいに美しい。明るく活発な性格で、明日花ちゃんのおかげでニコに友達ができた。笑顔がいつもまぶしくて、ひまわりみたいだ。

「どうぞどうぞ。」

「やったあー!」

私がそう言うと、明日花ちゃんはぱあっと笑って、はにかむニコの手をひいて駆け出した。

その背中を見ながら、私はまた考えてはいけないことを考えている。

君に似ていたら、ニコは明日花ちゃんみたいに綺麗で明るい子どもだったのかもしれないね。

こめかみが痛んで、きいんと耳鳴りが響く。

動物のかたちのビスケットは、箱に書いてある図を見ないと何の動物かわからない。お皿に並べて、オレンジジュースをコップに注ぐ。

明日花ちゃんのママみたいに手づくりのお菓子を出せたら素敵だけど、そんな余裕も技量も私にはない。だから、いつもおやつは近所のスーパーで買った安いお菓子だ。

おやつをのせたトレイを片手にリビングに入ると、明日花ちゃんが持ってきたらしい絵本を二人眺めていた。

「へえ、絵本かあ。」

覗きこむと、黒い髪に小さな桜色のリボンをつけた女の子と、星柄模様でしっぽの先に土星のついたねこがいた。女の子は自分の体と同じくらい大きな本にまたがって、ねこは女の子の肩に乗っかっている。一面の青と黄色い星屑たち。宇宙が舞台の物語らしい。

「この女の子、ちょっとニコちゃんに似てるでしょ?」

明日花ちゃんが女の子を指差して言う。
ニコは小さな声で「そんなことないよ」と呟いたけれど、たしかに彼女はどことなくニコに似ているような気がした。はっきりどこが似ているというわけではないけれど。

「たしかに似てるかも。」

「ニコとワコ、名前も似てる!いいなあ。」

私と明日花ちゃんがそう言うと、ニコは恥ずかしそうにうつむいて、だけどどこか嬉しそうだった。

『ワコとポポのだいぼうけん〜スパゲティ星をすくえ!』女の子ワコとねこポポが宇宙を冒険する物語らしい。ふわりとやさしい水彩風のタッチがかわいらしい。作者は『ちくわ浜 のぞむ』…ふざけた名前だ。

「あ、この絵本くれたおじさん、"あいかわ"って人を探してるんだって。ニコちゃんのママ、知ってる?」

しばらく絵本に見入っていたら、明日花ちゃんがいきなりそんなことを言うから、驚いた。

哀川は私の旧姓だ。二十年前、私がニコと同じ歳でこの街に住んでいたとき、私は哀川という苗字だった。けれど、半年足らずで九州の方へ引っ越してしまったから、その頃の私を知っている人なんてほとんどいないだろう。この街で過ごした日々の記憶さえおぼろげで、ほとんど覚えていないのだ。そもそも、女子小学生に絵本を渡すおじさんって怪しい。怪しすぎないか。

「そのおじさん、どんな人だった?変なことされてない?」

つとめて冷静に、何気ないそぶりで尋ねると、明日花ちゃんは満面の笑みで言った。

「変なおじさんだけど、やさしいおじさん!背はね、あすかのおとうさんよりちいさくて、しましまのTシャツ着てる!」

やっぱり、小学生の説明では素性は分からないよね。そうよね。諦めかけたそのとき、ニコが口を開いた。

「ニコも、そのおじさん見たよ。おかあさんと歳はあまり変わらないないんじゃないかな。公園のそばのオレンジ色の建物から降りてきたから、きっとそこに住んでるんだよ。」

その建物には、私も見覚えがあった。

この街の中では大きめの単身者向けマンション。いつも私が歩く道からは少し離れているけれど、明るいテラコッタの外壁は遠くからでも分かるくらいにあざやか。隣の森林公園に生い茂る緑がコントラストを作り出し、建物をいっそう目立たせていた。

歳が同じくらい、ということは同じ学校に通っていた子なんだろうか。だけど、私には友達と呼べる存在もあの頃いなかったし、そのおじさんは、そのちくわ浜とやらなんだろうか。しかし、私はちくわ浜を知らない…。

どうぶつビスケットをかじりながら、私はぼんやりと考える。

彼が誰であろうと、できれば会いたくないと思った。
自分が覚えていないのに、相手が覚えているなんて、一番面倒な状態だ。だけど、小さなこの街ではいつかばったりと出会ってしまったりするのだろうか。

会いたくて、覚えていてほしい人には永遠に会えないのに、もう忘れてしまった他人のような人はわりと近くにいて、思えば人生そういうことばかりだ。

だけど、絵本に描かれた絵を見ていると、何かを思い出しそうで、だけどそれがどんなものなのかは分からない。記憶の底、霞んだその記憶はどこかやさしい匂いがしていた。

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