見出し画像

2020.01.23 水曜

平日の真昼間の京急の車内、品川より先の各停駅、鮫洲、青物横丁、平和島。暖かい日差しが差し込む光景は死んだ後の世界みたいだ。

月に一度は風邪をひいている気がする。わたしには誰か、わたしを管理してくれる人が必要だが、わたしは人に管理されるのが大嫌いなのでそれは土台無理な話というもので。

煙草の匂いもわからない鼻風邪のまま、外に出たくなくて家にあったホットケーキミックスを焼いてみた。2枚焼いて2枚とも焦げた。バター、ミックスのタネ、ハチミツ、何の匂いも分からないのでつまらない。味もよくわからないので1枚はラップをかけて保存しようとしたら、ラップは20cm程引き出したところで終わり、ケーキを包み込むことは出来なかった。

依存、について考える。

鬱を寛解して、もうすぐ一年が経つ。
鬱の渦中も、そこからの一年も、楽しいことはたくさんあった。なんなら無職の分フルパワーで遊んだので、高い波も低い波もめちゃくちゃに味わう事ができた。一度死んだようなものだったので、後は余生、と思っていた。

後は余生、だった時期をまた終えようとしているのか。前戦に復帰し、感情をフルに働かせる事になるのか。何かや誰かに対しての責任を負う事になるのか。

実際のところ、また働き始めてみて、頭が鈍くなったなぁと思うことは多々ある。もともとの性格のADHD的忘れっぽさとはまた別に、一度に頭にストックしておける情報量が非常に少なくなったと思う。沢山の事を言われたり、読み取る必要があると、不快で不快で仕方なくなる。無理だっつってんだろやめろ。とか言いたくなる。ひとりで、自分にわかりやすい流れに組み立てなおさないとうまく処理していく事が出来ない。それをうまく他者に伝えるか、待ってもらうか、誤魔化すかしていかなければ、また甘えだのなんだのと言われるのだろう。言われてもいいが、それは実際に私を甘やかしてくれる人に限る。

わたしは色んな物や場所や人に依存している。特に、サシでしか会わない友人達には、それぞれの人と会っている時だけの顔があるはずで。そこには長かったり短かったりでも、積み重ねた特別な時間がある。皆それぞれの場所で、それぞれの事情や思いを抱えている、彼らの依存をわたしは受け止める。私の存在は彼らに許される。

依存の交換だ。それぞれの人との関係が皆特別だから、複数人を集合させる事は出来ない。

だから私はたまに、自分の葬式の事を考える。私が既にいないその場所に全員が集まる。それぞれが思う私はそこに集う他者の中にはいない。愉快痛快である。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?