20180526


その人に、私はたくさんのことを教わった。

例えば、土木規模の大きな物を作る現場における基礎知識、何かを作るときにはとにかく一回現場を隅々まで綺麗に片付けること。たくさんの人が集まる場所での効率のよい作業の段取りの仕方、ワークショッパーのようなその作業の素人から技術のあるプロまでがチームになった時、どんなメンバーでも仕事の無い人が出ないように全体を見るやり方。畑の作物を育て収穫する一連の流れ。季節ごとの体力の分配、どのような道具を用意したり、備品を準備をしていけば体を安全に保つことができるのか。今日絶対にやってしまうべきことと、明日に回したほうがいいものとの線引きの判断。妥協していいところと絶対に譲ってはいけないところの判断基準。それらの物事をひとつひとつ慈しみながら行うことで生まれる成果物のあり方。


ある時、その人と私は二人で農作業用の道具小屋を建てる準備をしていた。はなから綿密な図面などは無い。現地を測りながら、今ある材料のストックを当てはめながら簡単なメモ帳に建て方と完成図をスケッチしていく。その時作ろうとしていた小屋は奥行き方向にL字型に折れた形になる予定だった。柱や梁の組み方などは基本的なやり方で順当に決めていくことができたが、L字になっている部分の屋根の取り付きだけがなかなか解けない。私たちは作業を一時中断し、あーだこーだと正解を探してスケッチを繰り返しながら別の仕事に移った。

翌日の朝、寒い冬の台所でメモ帳とにらめっこをしていた私はついに、もしかしたらこれで解けたのでは?という構成にたどり着いた。少し緊張しながらその図を手渡す。頭の中でその図が立体的に立ち上がるまでに少し時間がかかった後、それが解だとわかった時のその人の嬉しそうな表情。純粋に、美しい形がそこにあるただそのことを喜ぶ笑顔。それ以上の尊いことを私は知らないから、多分私は今もここに立っている。


ある時、その人と私はその土地で行われる祭りの受付になる掘っ建て小屋のようなものを作っていて、期間中真夏の光を遮るその軒の高さについて決めかねていた。人には確かに気持ち良いと感じるモジュールがある、だがそれは皆それぞれの身長や目線の高さなどの身体性によって変わるのでは無いか?だから今は、現実的にここにいるわたしとあなたの感覚で決めるしか無いけど、それが他の人にとっての最上解であるかはわからない。というのが私の考え。それに対してその人は「万人」に共通する、気持ちよいと感じる位置があるはずだと主張した。

「もしかしたらそんなものは無いかもしれないし、こんな簡易小屋はなんとなくの感覚で作ってしまっていいんだけど、でもそのポイントって絶対にどこかにあると僕は思うんだよ」

すでに私に向けてではなく、自分自身と対話するようにその人はそう呟いき、私たちは翌日始まる祭りに間に合うように暫定的に最も適切であると思われる高さを決め、板を切り屋根を張った。


#ある時  その人と私は、田んぼでたわわに実った稲の収穫をしていた。それは本当に秋の真ん中で、広い広い金色の原と随分高くなった空の青のコントラストの中心に、稲束を抱えたその人の姿がある情景は、出来すぎた絵画のようだった。きっと頭の中では今やっている作業の次の次の仕事のこと、もしかしたら来年やもっとその先の為に今何を行うのが最も適切なのかを手繰っているのだろう。中身まではわからなくても、その人の思考がそうやって常に未来に向かって、過去を辿って動き続けていることを私は知っていた。

どんどんと広がりすぎて画角に収まらなくなった風景は、瞬間、時を失い私のどこかに収められた。その景が収められた庭のような場所には、今も常に風が吹き、午後二時の傾いた太陽の光が注がれている。


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