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20191104月曜

六月に九州で合宿し、八月に学科試験をパスし免許を手に入れてから早三ヶ月。実際に運転の練習をしていた時からはすでに半年、遂に目標にしていた一件に取り組む為にレンタカーで路上に出た。

ハザードランプやらブレーキランプやらの存在を忘れるくらいには復習もせずだったため、何回か事故になりかけの瞬間もあり、若葉マークの有り難みに震えっぱなし。特に最初の10分は、乗った車の性能が掴めずブレーキがかかり過ぎ同乗した母は叫びっぱなし。そもそもMTで取っているのでAT車2回しか動かしたこと無い。クラッチもサイドレバーも動かさないで踏み込み具合だけでスピード変わるのが怖すぎて、心臓は痛いわ口はからからに乾くはで恐ろしかったが(周りのドライバー達の方が恐ろしかったと思います。)、北海道の端っこの町は中心部を抜けるとすぐに閑散とし、さらには子供時代に何年間かは住んでいたので土地勘がない訳でもなく、練習をするにはうってつけであった。

目的地である山の麓の墓地へ、三年ぶりに墓参りに。既に骨となった親族に手を合わせる。

今、八十代半ばの祖母はずっとこの町に暮らし、同じくこの町で生まれた祖父と結婚し、四人の子供を育て、彼らは皆自立し都市部へ出ていった。その後伴侶である祖父をまだ六十代のうちに亡くし、ひとりになった。大家族で暮らしていた古い大きな家は、管理が難しいため一度すべて更にして小さな戸建に作り直し、十年。一人暮らしの日々の中で徐々に認知症になり、ある時、子供達の手によって関東の施設に移される形でこの町を出た。認知症意外にも、体力の衰えが著しい彼女が、この墓地を自分の足で訪れる事はもう無いだろう。(もちろん、いつか、彼女が骨になってしまった時、その時を除いてはという事になる。)

私は、祖母の娘、つまり私の母である人の都合でこの町に何年か暮らしていた。幼少期と、中学生の何年かと。関東に住んでいる間も一年に一、二度は祖父母のところを訪れていた。

この町にいる間、私は祖母と出かけるのが好きだった。小柄な祖母が運転する大きな白い車。教会、町のデパート、ちょっとした家族での外食、となり町の親戚までの届け物、運転をするのはいつも祖母だった。中学生の頃、母がまだ仕事で家にいない夕方の時間に塾まで送り届けてくれたのも、夜にまた迎えに来てくれたのも。祖母は私をつまらないことで叱らなかったし、簡単なはなし、要点さえずれていなければ細かい事は気にしないという彼女の性格を私が受け継いでいたのだろう、一緒にいて気が楽な人だった。

祖母の細かい事を気にしないエピソード。
かつてまだ祖母の子供たちが小さく、層祖父母も健在でいまはもう無い大きな家に、家族がひしめき合って暮らしていたころ。家にはいつも住み込みのお手伝いさんがいた。その人たちはみな若い女の子なのだそうだが、ある時期に働いていた女の子は、祖母が玄関や勝手口なんかに支払い用に置きっ放しにしている小銭をすぐ着服してしまっていたらしい。気づいたのは同居していた曾祖母で、すぐにお手伝いさんは解雇、チェンジ。祖母は怒られただろうが、商家のわりにどんぶり勘定の彼女はやはりすぐにそこかしこに小銭を置きっ放しにしてしまうし、置いたはずのお金がなくなっても不思議に思っただけで、人を疑うということを思いつかないような人だった。

話は戻って現代。祖父が亡くなる前から、この墓地までの道を何度、彼女の運転で走っただろう。私は、閑散とした道路ですら40km制限を厳守してののろのろ運転で、凸凹の道に車を走らせながら祖母の姿が自分に重なる様子を俯瞰して眺めるように感じていた。

敬虔なクリスチャンだった祖母とは違い、わたしには信仰心も教会に定期的に通うような習慣も無い。首にも、手首にもロザリオをつけることは無いし、結婚もしていないから、皺のよった彼女の左手にいつも光っていた祖父からの贈り物のような指輪も無い。ハンドルを握る祖母の手に、腕に、それらはいつも光を浴びてキラキラと輝いていた。

今、老人施設の一室に暮らす彼女は既に娘も息子もわからないし、私などさらに会う回数も少なく、一緒に暮らしていた中学生の頃とは見た目も大きく変わっているのでわかるわけもない。それでも、わたしが彼女にもらったものが消えるわけではない。わたしはこれを、また引き継ぎ、繋いでいけるのだろうか。


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