封神演義にみる人間の弱さ

 藤崎竜の『封神演義』という漫画がある。
 中国に伝わる同名の古典小説を原作として描かれた作品である。
 原作は殷周易姓革命を題材とし、そこに、周の軍師太公望が特殊な力を操る仙人だったという設定を加えたファンタジー小説となっている。殷側、周側にそれぞれ仙人が付き、仙人の力を吸って特殊な効果を発動する宝貝(パオペエ)という武器を駆使して戦いを繰り広げるのだ。
 藤崎封神演義も、基本的にはこの筋立てを踏襲している。太公望の活躍により殷が倒れ、易姓革命が成就するところまでは大筋では原作通りだ。
 しかし、その後の展開が原作とは異なっている。
 異なっているどころか、原作を裏切り、その世界観を否定さえしているのである。
 原作を覆い尽くしているのは、「天命」という概念である。人も国家も、その運命はあらかじめ決められており、それに逆らうことはできない、という思想だ。作中で殷と周は激しく争うけれども、戦争の帰趨はすでに天命によって定まっていることになっている。
 だから、作中には、登場人物の仙人たちが戦いに敗れたり策略が外れたりした時に天命を読み、「ああ、やはりこういう運命だったのか」と嘆息するシーンが頻発する(あらかじめ天命を読むことをしないのは、さすがにそれではエンターテイメント小説として成り立たないと原作者も考えたからであろう)。
 藤崎は、この世界観を真っ向から否定する。
 革命成功後のシナリオで、「人は自らの運命を自ら決めることができる」ことを強く主張するのである。
 革命の後、太公望たちは、そこに到るまでの歴程をマニピュレートしていた「歴史の道標=女禍」という存在のあることを知らされる。地球の歴史は、故郷の星に似せた理想郷を地球上に作ろうとする異星人、女禍の手によってコントロールされていることが明らかになる。そして、今まで革命を成功させるためだと説明されてきた太公望への仙人界からの指示が、実は女禍を滅ぼすための布石であったことが明かされる。
 真実を知った太公望たちは、女禍の潜む本拠地へ乗り込んで戦いを挑み、最終的にこれを撃破する。歴史がマニピュレーターの手から解放され、自由な運動を始めたところで、物語は終結する。
 これは、作品を「父権制イデオロギー」から解放しようとする試みと言うことができる。
 「父権制イデオロギー」とは、この世には、秩序を司る平定者がおり、世界は専一的にそれの振る舞いによって規定されていると仮定する思想のことである。「神」でも「歴史を貫く鉄の法則性」でもよいが、そういった何がしかの存在によって世界の成り立ちを説明しようとする構えをそう呼ぶ。親が悪い、社会が悪い、国が悪い、在日が悪い……。そういった思考はすべて父権制イデオロギーである。村上春樹がエルサレム賞受賞に際して行ったスピーチで「壁」、「システム」と呼んだものを生み出す土壌がこれである。


“『システム』は私たちを保護することになっています。けれども、しばしばシステムはそれ自身の命を持ち、私たちを殺し、また私たちが他者を殺すように仕向け始めます。冷血に、効率的に、組織的に。(内田樹氏による翻訳)”

 内田樹は、『もういちど、村上春樹にご用心』の中で、父権制イデオロギーについてこう書いている。


“ほとんどの人はこれからどうするかを決めるとき、あるいはすでに何かをしてしまった後にその理由を説明するために、「父」を呼び出す。それは必ずしも「父」の指導や保護や弁疏を期待してではない。むしろ多くの場合、「父」の抑圧的で教化的な「暴力」によって「私は今あるような人間になった」という説明をもたらすものとして「父」は呼び出されるのである。「父」の教化によって、あるいは教化の放棄によって、私は今あるような人間になった。そういう話型で私たちのほとんどは自分の今を説明する。それは弱い人間にとってある種の救いである。
 世界は「父」を呼び出すことで合理的なものになる。さまざまなあやふやなものが名づけられ、混乱は整序される。けれども、そのようにして繰り返し自己都合で「父」を呼び出しているうちに、「父=システム」はますます巨大化し、偏在化し、全知全能のものになり、人間たちを細部に至るまで支配し始める。”

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