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グラデーションな世界の中で

「カンボジアへボランティアに行く大学生の中で、貧困であるはずのカンボジアの子どもたちがずっと笑顔であるのを見て、衝撃を受けたって人が多いよね。発展途上国の子どもたちは笑顔である一方で、物が溢れていて豊かなはずの日本では顔が暗い人が多い、驚きだ、って。日本の私たちは何をしているのだろう、カンボジアの方が心が豊かなのではないか、って。
でもだからといって、単純に良し悪しは決められないと思う。発展途上国の人たちは、ただ知らないだけ、ということもある。知らないから笑っていられるということもある。搾取されているということさえ分かっていないという事実がある。
豊かさというものを、プライベート(当事者的)なものからパブリック(公的)なものへ置き換えた瞬間、陳腐なものに聞こえる。」

飲みながら、大学時代の友人がふいにそう言った。その友人は大学時代の塾のバイト先が同じで、京都大学で教育哲学を専攻していたひとだった。
興味関心のあるテーマが似通っており、社会人になってからも彼とは年に一・二回ほど飲みに行く。普段はほとんど連絡も取らない。それでも、会うたびにこういった本質的な問いを投げかけてくれるので、彼と話す時間はとても濃く深い。彼は白黒はっきりした答えを出さないし善悪を決めつけない。問うて熟考する。そういった白黒はっきりつけられない物事が世の中にはたくさんあるということを、教えてくれたのは彼な気がする。

そしてこの話には、「知ることの不可逆性」という側面も含まれていると思う。気づいてしまったことはもう誤魔化せないし、ぶつかった問いはなかったことにはできない。
発展途上国の人たちは搾取されていることや世界構造を知らないから笑っていられるのではないだろうか。理不尽な立場に立たされているということに気づいてしまったら、怒りや絶望でいっぱいになってしまうのではないだろうか。
また同じような事例として、外国人労働者が日本に来て不当な条件で働かされていることも、その構造を知ってしまった人のみが痛みを感じているのではないだろうか。

かといって、無知のままいる方が良いわけでは決してない。気づかないよりも、気づいていたい。たくさんの人が気づいて、この歪んだ社会を変えていくことができるならば。そう願わざるを得ない。だからこそ、学び続けたいし、学ぶことを伝え続けたい。

「海外にはたくさんの教育モデルがある。だからといって、日本の教育がダメだとは言い切れない。日本の風土に合わせて、詰め込み教育がなされてきたのだと思う。全てを否定するのは違う気がする。」

と、教育で有名なフィンランドに留学し教育現場を見てきてなお、そう言えてしまう彼はすごいと思う。全肯定でもなく、全否定でもない。そのグラデーション的な考え方は、わたしが世界を見つめる上で、とても重要な視点となっている。

「生徒と関わり合った思い出を、思い出として残したい。生徒との関わりを、そこでのエピソードを、就活というもので消費したくない。だから敢えて、就活の場では塾講師していたことは話さない。」

彼のこの発言もまた、わたしにとっては驚きの発言であった。自分の中の大切な出来事を、全て話すことが必ずしも良いわけではない。よく自分のエピソードをネタ的に話す人もいるが、わたしは大切な出来事を滑稽な笑いにはしたくはない。かつての失敗や弱さを、人との思い出を、大切にしまっておきたい。消費的なエンタメに転換したくない。

彼から学んだことは、もちろん大学時代にもたくさんもある。印象的なものとしては、「迎合しない」という話である。その頃、わたしは塾で受験生を担当していたのだが、その生徒というのがメンタルが弱く、わたしは生徒に共感してしまいすぎていた。しかし、生徒の目標はあくまでも合格。だからこそ、迎合しない方が良いのではないか、と彼が教えてくれた。気持ち的には寄り添うことはするものの、勉強量は減らしたりはしない。迎合しない。相手の「いま」だけではなく、長期的な目で良いものを提供する。

「あおいさんって性善説を取るよね。良い意味でも悪い意味でも、信じすぎている。そこまで信じれるのはすごいと思う。僕は、性悪説をどうしても取ってしまう。人は楽な方へ流れてしまうと思っている。だから、楽な方へ流れないように、迎合しないスタンスでいるのかもしれない。」

という彼の言葉があった。もう数年前の出来事であるが、言葉のニュアンスとしてはそんな感じだったと思う。夜中の、しかも授業終わりの疲れ果てた中で、彼の言葉が妙に響いていた。それからというもの、わたしは「迎合しない」というスタンスで授業を行っている。生徒としっかり向き合うし寄り添う。しかし、迎合しない。宿題は減らさないし、テスト範囲は狭めない。その子のために本当に良いのか、を思えば自ずと解は導き出される。

彼は、世界の見つめ方や心の在り方といった、大切なことをたくさん教えてくれた。

わたしは親しい人によくおすすめの本を聞く。彼にも例外なく聞いたところ、天童荒太の『包帯クラブ』だと答えた。後日読んだのだが、本の始まりの言葉がとてつもなく気に入った。

“わたしのなかから、いろいろ大切なものが失われている。いつごろか、それに気づいた。たとえば悪魔のようなやつが現れて、これとこれを持ってく、と宣言していったのなら、記憶に残るし、少しは抵抗できたかもしれない。”

年齢を重ねていくごとに、知ってしまうことが増えた。でも、気づかないうちにいろいろ大切なものも失われている。痛みに鈍感になりつつある。知りながら、失いながら、心の傷に包帯を自分で巻いていきながら、そうしてこれからを生きてゆくのだろうか。

またいつの日か、彼と飲みに行ける日をたのしみに、あらゆることを考え続けていたい。

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