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引き返せない挑戦への旅路| アオイエ代表・巴山雄太インタビュー〈前編〉

 2022/10/10をもって創設6周年を迎えたコミュニティハウス アオイエ。大阪・東京で開催した6周年パーティーには、総勢90名の住人・OBOGが集まりました。アオイエでは、年末まで6周年企画を継続しつつ、7期目に向けたメッセージの発信につとめて参ります。
 今回は、代表を務めて1年を迎えた巴山雄太(ともえやま・ゆうた)の生い立ちに迫りながら、アオイエがこれから提供すべき価値についてお伝えしたいと思います。

 巴山の代表就任については、こちらの記事をご覧ください。

[profile] 巴山 雄太|Yuta Tomoeyama
明治大学卒業後、“ブラックな企業“として知られるトゥモローゲート株式会社を含む2社に入社、事業開発やブランディングプロデューサー職として従事。その後、挑戦する全ての人が外的要因(仲間、空間、知見、お金)で夢を諦めない世界を目指して、2020年に地域サッカークラブである江の島FCを創設。2021年8月、株式会社アオイエの代表取締役に就任。

聞き手:米倉伸哉

写真屋の息子として

ーー profileを見てもそうですが、雄太さんはとかく大学卒業後のことしか語ってくれません。だけど、時々思い出ばなしを聞くと、過去の経験がいまに息づいているんじゃないかと感じます。実際、どんな幼少期を過ごしてきたのか教えてほしいです。

 ありがとう。実家の話から始めると、僕は、脱サラして写真屋(フィルム写真を現像するお店)を営む両親とお転婆な姉に囲まれて幼少期を過ごしました。学校のすぐ近くに写真屋があったので、朝は親といっしょに出勤、学校が終わるとお店に直行、というルーティン。僕自身は、いまに比べるとかなり臆病な性格で、面倒見のいい姉にいつも引っついていました。でも、周りを笑わせるのは好きだったので、ムードメーカーと思われていました。
 まちの人に知られる写真屋だったけど、小6のときにデジカメが流行したことを機にお客さんが減るようになって、結局は店を閉じることになりました。はたらく背中をいちばん近くで見てきたこともあって、そのときのショックは今でもよく覚えています。祖父も苦労を重ねてきた人だったし、両親もそんなことがあったので、安定志向の強い家庭でした。姉が大手に就職したこともあり、僕が休学すると決めたときには、すごく反対されました。

お姉さん(左)と雄太少年(右)

 僕自身について言えば、父が厳しい性格で、感情を表に出す人だったからか、人の顔色を伺う癖は小さいときからあった気がします。自分の発言や行動が、まわりの人に影響することが怖い、という感覚でした。
 小さい頃から抱えてきた吃音(話す時に最初の一音に詰まってしまうなど、言葉が滑らかに出てこない発話障害の1つ)もそんな性格の一因だったかもしれません。なにか大きな失敗があったわけじゃないんだけど、ふとした失敗が毎週のように起きて、ずっとそれが悩みでした。あるとき、NHKの企画で、落語家の柳家花緑さんが学校に来てくれたことがあったんです。小学校のOBである花緑さんに悩みを打ち明けるコーナーで、思いきって吃音について打ち明けてみたら、まわりに同じような経験をしている子はひとりもいなかった。クラスではムードメーカーとして認知されていたけど、自分のほんとうの苦しみは理解してもらえないんじゃないか、とそのときから思うようになりました。

サッカー少年から1,200人を率いる生徒会長へ

 そんな思いを抱えたまま小学校生活を終えて、中学に進学しました。ずっと男子校への憧れがあったので、明治大学付属中野中学校を選びました。迷わずサッカー部に入ったんですが、運動神経がものすごく悪くて、小2からやっていたのにチームではいつも補欠でした。
 中3までそんな調子だったけど、都大会出場をかけた選手権の準決勝直前でトラブルが起こり、急きょ僕が出場することになりました。初出場が準決勝だったので、正直不安でいっぱいです。それでも監督が、「巴山にはスタミナと根性がある」と言って背中を押してくれたんです。結果、僕が決めたロングシュートでチームは都大会初出場。大好きなサッカーをとおして、仲間と同じ目標に向かうことの素晴らしさを実感する瞬間でした。

サッカー部での集合写真、前列左から2番目

 その後、進学した明治大学付属中野高校でもサッカー部に入りました。自信もでてきて完全に調子に乗っていました。だけど、それもつかの間、練習中に右腕を骨折したんです。プレーできなくなると、臆病だった自分がサッカーで保ってきた自信が崩れ落ちて、「このまま自信なく生きていくのかな…」と自分の状況をどんどん悪く考えるようになっていきました。
 怪我をした時期、学校ではちょうど生徒会長選挙の直前でした。明大中野の生徒会長は、全校生徒1,200人のだれもが立候補できて、当選すると24人の生徒会委員を自由に指名できるほど権力がありました。「どうせなら自分がいちばん苦手なことをやろう」と思い、立候補を決めました。一騎打ちの生徒会長選挙が始まりました。
 でも、ひとつ大きな不安がありました。全校生徒1,200人の前での演説です。幼い頃には、人前で話そうとすると、突然吃ったり泣き出したりすることが何度かありました。小学校のときの失敗の記憶が邪魔して、演説をするその瞬間まで、心の底から自信を持って演台に立つことはできませんでした。
 演説を始めると、自分でも驚くほどスラスラと言葉が出てきました。休部していたサッカー部の監督や母親が原稿に目を通し、アドバイスしてくれていたので、たくさんの人の声がのった原稿だったんです。結果は、1,150対50の圧勝でした。

生徒会長時代

 生徒会長になってはじめに着手したのは、生徒会活動の透明化です。16頁の広報誌「生徒会ステーション」(通称:ナマステ)を毎月発行して、食堂の割引券や先生たちのインタビューを掲載すると、生徒たちがどんどん手にとってくれました。食堂にかけあってメニュー化した「ナマステカレー」がバカ売れしたのもよく覚えています(笑)。
 生徒会活動と並行して取り組んだのは、30年前に廃部した応援部の復活です。学校への帰属意識や誇りを生みだすには、応援部は不可欠だと思ったからです。仲間を集め、大学の応援部を学校に呼んで演舞の稽古をつけてもらい、僕は、明大中野高校40代目の応援団長になりました。いざ応援部ができると大忙しで、野球・ラグビー・スケート…あらゆる部活の応援に出向いては応援歌や校歌を熱唱しました。

 高3の文化祭で、応援部が講堂メインステージでの大トリを任せられたとき、僕たちにあわせて全校生徒が肩を組んで校歌を歌う光景を目の当たりにし、壇上で涙が止まりませんでした。僕の頰をつたうのは、小学生の頃のように、不安からくる涙ではありませんでした。「誇りを持てる母校を仲間とつくりあげた」と本気で実感したからこそ溢れる涙でした。

応援団長時代

自分の”表現”を求めて

 高校3年間ですべてをやりきった僕は、大学に入ってから完全に天狗になりました。「巴山雄太」の名前は、同級生にも、次年度以降入学してくる後輩たちにも知られていました。そんな高校時代の余韻にひたったまま、3年間を終えたと言ってもいいかもしれません。リスクを冒してまでやりたいことが見つからなかったんです。音楽の道に進みたいと漠然と思っていましたが、軽音サークルでのらりくらりとしているうちに、就職するか、そのほかの選択肢をとるか、判断の時期が迫っていました。

大学時代

 親の反対を押しきって最後に選んだのは、休学でした。半年間ジャマイカに渡り、大学時代の僕に大きな影響を与えてくれた、スカやレゲエを本場で学ぶことが目的です。”スカの王者”とも言われる「ザ・スカタライツ(THE SKATALITES)」の初代ヴォーカル・スパロウさんの家に泊まりながら、広報スタッフとしてジャマイカ中を飛び回った僕は、安易にクリエイターを目指していた自分の浅はかさに気がつきました。貧しいジャマイカの社会で生きているクリエイターたちの覚悟が、自分には足りないーー素直にそう感じました。
 大学生活を棒に振ったうえに、最後の頼みの綱だと思っていたジャマイカ滞在でも絶望を覚えた僕は、結局就活を始めました。「表現の場をつくりたい」という気持ちは変わらなかったので、まずはゲーム業界を片っ端から受けて、すべて落ちました。一貫したマーケティングの知見を獲得できると考えて志望したけど、ゲームは苦手だったし、心から届けたいコンテンツではなかったからだと思います。それでも就活を続けると、某外資系コンサルティング会社に内定を頂きました。親や親戚はもちろん大喜び。僕自身も「まぁ、これでいいか」と半ばむりやり納得しました。
 大学卒業を控えた3月のある日、志望していたゲーム会社の社長に誘われ、同業者の集まる飲み会に参加したんです。最後に行った下北沢のガールズ・バーで、店員の女の子とジェンガをして遊んでいると、社長に突然ジェンガをたたき崩され、こう言われました。

「お前が作りたかったコンテンツはこんなものか!!」

僕は翌日、内定を辞退しました。

ジャマイカ滞在時。右手がスパロウさん

 それからは、自分にはなにができるか、ああでもないこうでもないと考える日々を送りました。自分の限界を知り、それでも本気で考えた時間だったと思います。出した答えは、やはり「表現の場をつくること」でした。自分がクリエイターにならなくとも、なにかを自発的につくろうとする人のプロデュースに回れば、そこに自分の未来が切り拓けると感じたんです。そのときに、応援団での経験が力になりました。僕がつくりたいと思ったのは、一言でいえば「カーニバル」です。トップダウンな「フェスティバル」に比べて、僕にとっての「カーニバル」は、誰もが発信できる場所。応援団はまさに、僕がつくることのできた「カーニバル」だったんです。
 そうと決まれば善は急げで、「煩悩 #BornNow」などのイベント運営に加わり、日常に近い場所でカーニバルを起こす方法を考えました。4月からはフリーのイベンターとして活動を始め、お笑い芸人の方の広報サポートなど、とにかく動きまわりました。良かったのは、トゥモローゲートの西崎社長にお会いする機会に恵まれたことです。当時のトゥモローゲートは、大阪に拠点をおく、新進気鋭のブランディング会社でした。西崎さんのお誘いもあり、僕はトゥモローゲートに入社し、アオイエ十三に入居しました。

トゥモローゲート入社時

新天地・大阪での生活

 22年間を東京の実家で過ごした僕にとって、新卒でトゥモローゲート入社したことと同じくらい、アオイエでの生活は新しい体験です。特に知り合いがいたわけでもなく、「あの青木大和がやっているから」という安直な理由で入居したんですが、安定志向だった家族とくらべ、「本当に自由な人たちに出会えた」という実感がありました。いまや親友とも言える山田瑠人との出会いも、アオイエ十三に住んだからからこそです。

リビングでみんなを笑わせる巴山

 経営者から家出少女まで、それぞれが自分の宇宙を持っていた。その一方で、対話を重んじ、他者への愛にあふれたメンバーが集っていました。アオイエ十三は、最凶の家であり、家族でした。

アオイエ十三のオープニングパーティーでフルーチェ13kgを食べる参加者

 他方、トゥモローゲートでは苦難の日々を送りました。経営者に新規営業をかける部署にいたのですが、入社半年を過ぎたある日、相手が電話に出ると動悸が止まらなくなり、一言目の言葉がまったく出てこなくなりました。耳鳴りにも襲われて、それ以上はたらくことができなくなったんです。社交不安障害と診断され、休職を選択しました。
 それからは、平日に部屋でボーッとして過ごす日々が続き、たまにいくスポーツ観戦だけが気晴らしでした。ある日、幼少期から応援してきたFC東京とガンバ大阪の試合を吹田スタジアムに観にいくと、大阪在住のFC東京ファンが、仕事終わりに試合を観にきているのを見つけました。僕のように生まれ育った場所を離れた人間にとって、サッカーチームは、「故郷を運んできてくれる存在」だったんです。すべてがハマる瞬間でした。僕はずっと、だれもが表現者になれる「カーニバル」を目指してきた。だけどそれは、表現できる人たちだけの場所だったのではないか。それなら、「表現したい」と思う人を増やすにはどうしたらいいのか。FC東京は、僕にひとつの答えをくれました。「サッカークラブをつくる」という答えです。

きっかけとなったFC東京vsガンバ大阪(2020年)

引き返せない挑戦

 すぐに大阪を離れる準備をしました。仕事を辞めることもそうですが、8ヶ月住んだアオイエを離れるのは、とてもつらかった。アオイエのみんながいなかったら、僕は、「サッカー好きのサラリーマン」として生きていったんじゃないかと思います。アオイエ十三での生活が、僕の背中を押してくれたんです。
 実家に戻ったはいいものの、アイデアだけもらって自信は皆無の状態でした。そこで、以前にも関わっていた「煩悩 #BornNow」の運営会社に籍をおいて、事業開発とセールスを学びながら、サッカークラブをつくるための準備を進めました。
 僕が大阪を離れたタイミングは、コロナウイルスが猛威をふるいはじめた時期でもあります。ウイルスそのものの脅威もさることながら、コロナ禍によってもたらされる分断/情報の個別化にも、社会的注目が集まっていました。街を歩いていて偶然見かけるショーウィンドウ、雑誌ではじめて知る音楽やファッションーー僕を形づくってきた、そんな偶然の連鎖が社会から消えてしまうかもしれないことに、ものすごい危機感を覚えました。
 同じ思いを共有した仲間たちと僕は、「漂流図書室」という取り組みを始めることになります。そこには、十三時代からの大親友・山田の姿もありました。「漂流図書室」の仕組みは、ひとことで言ってシャッフルマッチングですーー参加者はチケットを購入して事務局に「本と手紙」を郵送する。それらは他の参加者に贈られ、自分にも誰かの「本と手紙」が届く、というもの。本と手紙を選んだのは、それが、もっとも手軽に人の思いを込められる手段だと考えたからです。100名もの方が参加してくれたこと、日経新聞に取り上げられたこともいい経験でしたが、それに付き合ってくれる仲間がいたことが、なによりも事業づくりの自信につながりました。

 着々と自信と経験をたくわえた僕は、満を持してサッカークラブ創設にフルコミットすることになります。最初に集まってくれたのは、ほとんどがアオイエ時代に出会ったメンバーでした。そうしてできたのが、江の島FCです。
 すぐに法人化して、チームの体制を整えました。監督やコーチも人伝てに紹介してもらい、自己資金と少額の借入金だけで、ほんとうに綱渡りの経営だったと思います。まもなくチームは30名の規模になり、「引き返せない挑戦がはじまった」と感じました。初年度のあるとき、0対12という大敗北を喫することがありました。江の島FCは当初から「Jリーグを目指す」と掲げていただけに、同時にSNSで「サッカーをナメてる」「詐欺集団だ」などの誹謗中傷も寄せられたんです。そのとき、いつもは穏やかなジョナ(元 アオイエ千歳烏山住人)というメンバーが、落ち込みつつも「許せない」とこぼしたのを覚えています。自分が必死に追いかけてきた夢が、人の夢になっていくことを実感した出来事でした。

ーーふとした瞬間に見えてくる雄太さんのパーソナリティが、こうやってできていったんだな、と考えながらお話伺いました。ありがとうございます。後編では、江の島FCのその後、そしてアオイエ代表への就任について聞かせてください。

(続)

※11/24にインタビュー後編を公開予定です。ぜひご覧ください


アオイエについて

 アオイエは、全国に14の拠点(東京8ヵ所、京都3ヵ所、大阪:2ヵ所、沖縄1ヵ所)をもつコミュニティハウスです。「みんな表現者」をコンセプトに掲げ、家という形を通して住人に安心と挑戦を提供しています。安心と挑戦をうむ環境づくりとして、各家へのキーパー制の導入、ゼミや合宿の実施、入居者へのフォローアップなど、他のシェアハウスには類を見ない取り組みを、5年目を迎える今もなお続けています。


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