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【ピリカ文庫】みんなすやすや眠る頃

 痛い。苦しい。辛い。悲しい。
 真美は玄関で靴も脱がずに倒れ伏した。スーパーのレジ袋から缶ビールが数本転がり出る。自然と喉からあーと声が漏れる。冷たい床にべったり頬を押し付けたまま、指の血で和歌でも書きつけようかしら、と頭が喋る。
 そのときどこかから音楽が聞こえてきた。これは何だっけ、ああほら、ドヴォルザークよ。どうしてこんな夜中に。題は何て言うんだっけ。思い出そうと顔をしかめると、頭がずきずきと痛む。
 廊下をごろごろ転がったビール缶が、フローリングの中に溶けだしていったので、真美は慌てて留め具を外して靴を蹴落として駆け付けた。やだ何これ、どうなってるわけ。青いラベルの缶は溶けて、青い小瓶に再成形していた。超常。unbelievable.
 ドヴォルザークに合わせて、背後から拍子が聞こえた。振り返るとパンプスが踊っている。コーッコツッココー、ツッコーコココー。
 とにかく、この頭痛をどうにかしなくちゃ。痛い。苦しい。辛い。悲しい。真美は壁に何度もぶつかりながら居間に入る。頭痛薬の箱を逆さに振ると、黄金色こがねいろの粉末が机上にぶちまけられた。同時にふわりと良い香りが空気の中に一瞬広がり、沈殿した。硫化カドミウムは黄色沈殿。それにしてもいい香り。芳香。そう、これはまるで夕日の中で、色づいた銀杏並木が輝いて、どこまでもすうっと高い青空に、よろこばしいすらりとした両手を差し伸べているような。甘いけれどウッディで、優しく凛々しい香り。
 いいえ、そうじゃなくて。あー、いらいらする、散らかしちゃった。掃除…。塵箱は?さっきから一体どうなってるっていうの。
 ちょうどそのとき、冷蔵庫がぎゅるりと捻じれて、少女の姿に変わった。真美は椅子に倒れこんだ。今度という今度は我慢ならないわ。両手で顔を覆って、背もたれに深く沈む。あれ、こんなに沈み込む?まだ沈む。まだいける?とうとう顔以外がすべて埋まって初めて目を開けると、椅子はあたたかで巨大でやわらかな白熊だった。彼女は大きな濡れた黒い瞳で真美を覗き込んだ。やだ、なんて悲しい目。いいえ、深すぎるのよ、愛が哀になって、流れることなくたまって、それでも絶え間なく湧き出る、深い井戸のように。それにしてもどうして私、「彼女」なんて思ったのかしら。
 そのとき時計が零時を打った。子供の頃、夜中の十二時にはお化けが出るって言われてたな。だいたい、あの頃の私には深夜零時なんて時間はなかった。私が寝ている間も時計は動いているなんて、信じられなかった。
 そのとおり、時計はぴったりと止まった。いや、止まったのは針よ、文字盤は高速で回転し、目にも止まらないくらい、しまいには光になって、プラネタリウムを作った。空にきらきらお星さま。なんて綺麗。素敵。こんな星、久しく見てなかった。降るような星空とはよく言ったもんだわ…そう、これはまるで…なんて言ったらいいのかしら、形容詞が出てこない。adjectiveよ、ほら…
 冷蔵庫少女が湯をはったボウルに、もとは缶ビールだった青い小瓶の中身を少したらした。忽ち花が咲くように、星が降るように、優しい高貴な薫りが漂う。うわあ、素敵。なんて美しいの。なんだか…なんて言うのかしら、出てこない…でも、それもどうでもいいや…
 冷蔵庫少女はこちらへ歩いてくる。亜麻色の髪をしていて、落ち着いた黄土色の地に小さい赤い木の実や深緑の木の葉の柄のワンピースを着ていた。素敵、可愛いワンピースね。彼女は真美の目の上へあたたかで小さな掌を載せて、微笑んだ。あら、私微笑んだなんて見えないはずなのに。
 おだまりなさい、あなたってばよく目の動くこと。
 ことばは、あの香りが空気に、空気が肺に、浸透するように、流れ落ちた。形すらない、匂いとしての心が直接響いてきたように、真美の心はそれを受容して震えた。彼女は素直に目を閉じた。
 ドヴォルザークは芳香の底にふりつもる。白熊の呼吸のリズムが心地よく真美を揺する。
 真美の中にあったのは、いろいろな風景だった。子供の頃の通学路、よく遊んだ公園、秋の日に、天が高くて、ことに美しかった木々。彼女はよくそういうものに、様々な形容を付与して楽しんだものであったが、今はその文言を何一つ思い出せない。写真のように、いやそれよりも儚くまた麗しく、彼女はその光景を瞼の裏に映し出す。
 ことばの表現の、なんとつまらないことか。
 部屋じゅうに漂い包み込む美しい薫りが、お腹の底の白木の升にいっぱいにたまって、全身に溢れ出した。ああ、と自然に声と涙が流れた。胸のくびきが外れて、苦しくも悲しくも、辛くも痛くもない。真美は今、静かだった。
 少女が手にマグカップを握らせてくれる。鼻の下に強く優しく香る。温かみを増して、空気中を循環する。一口啜ると、彼女の境界が溶けだして、世界と一つになった。安らかだ。あらゆる音が、匂いが、私の一部だと告げている。というより、もとから私などというものはなく、宇宙そのものが、このちっぽけな体を借りているのだと確信する。そして今、体なんていうものはない。私なんていうものはない。ことばなしに、そう悟った。
 すべてがひとつで、そこには幸せしかなくて、浮かぶような心地の中で、すべてがどうでもよかった。

 翌朝目が覚めると、彼女の座っていたのは堅い木の椅子で、猛烈に首と腰が痛かった。机上にはマグカップと頭痛薬。時計は何食わぬ顔で七時を指している。がばりと台所を振り向くと、小さな冷蔵庫はちゃんとそこにあった。青い小瓶はその上に載っていて、近づいて見ると、essential oilとだけラベリングしてあった。
 そういえばあのドヴォルザークは「新世界より」だったと、そのときようやく思い出した。





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