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優しい社会を目指すなら破綻を悲観しなくてもいい

私はカルマキッチンというイベントにスタッフとして数回参加させていただきました。それは贈与経済を反映した飲食店での実践でした。

↓カルマキッチンは詳しくは下記を参照してください。

人間には反応性があるため、食事が無料で提供されその代金は自由に決めていいと言うと案外コスト前後の支払いが返ってくることがカルマキッチンという場では体験できました。そしてそれだけでなく、このような試みに賛同する人たちが集まるため非常に暖かなコミュニケーションが生まれるのです。

しかし、この暖かなコミュニケーションというのは人間が文明を発達させ、貨幣を使った経済を生み出し発展していくなかで捨ててきたものであると私は感じます。

いつか新聞記者に取材を受けた時、「このような試みの経済(いわゆる贈与経済)は成立しない」と言われてしまいました。
そして私も内心同意見でした。

何の見返りも期待せず与え合う関係。このような贈与経済を捨てなければならないのはなぜか?
そしてそれにもかかわらずこのような贈与経済から生まれるコミュニケーションをなぜ人は求めるのか私は疑問でした。

そしていろいろな本を読みあさりました。
そして私が得た結論としては「私たちは贈与経済を融資経済や交換経済からの価値観で評価しているため破綻的に見るようになっている」ということに気がつきました。

私をはじめ貨幣経済社会で生活を送る人々は無意識のうちに、お金は増やしていかなければならないものという固定概念が形成されています。それを破ることは悪いことだと思ってしまっているということなのです。

つまり貨幣経済が行き過ぎたため、多くの人々が今の社会の常識にそって温かいコミュニケーションを閉めだしてその寒い環境の中を彷徨っているにすぎないのです。

交換経済では両者の同意のうえでの交換が原則です。
そして融資経済では貸しは必ず利子をつけてかえさなければならないのです。
融資目的で借りた金や受けた恩はもっと大きくして返さなきゃならないとしう義務が発生するため、返せない人は悪人という扱いになります。
しかし、贈与経済においては見返りのないことや破綻は必ずしもそれは悪ではないのです。

それは自分自身の選択であり、それ相応のお返しを選択的にしていけば暖かなコミュニティは比較的長く維持されるのです。そして例えそれらが破綻したとしても、また同じようなものがどこかで生まれるので悲観することはないのです。

貨幣経済によってうまれる融資という経済が行き過ぎると、利益重視の冷たい社会が形成されます。
これはカタチあるものすべていつか壊れる定めにあるのに対し貨幣が腐らないという特徴があるからです。
物を集めるよりお金を貯める方が有利であり、お金を運用するお金に働いてもらうという仕組みの方が経済的に豊かになります。そうして人は金を集めるための融資や利己的な消費に偏った結果暖かなコミュニティが失われるのです。

優しい人がバカにされるのは、そういった社会では結果(利益)を残せない傾向にあるからです。良い人は経済的に苦しむ傾向にあるという明らかな研究結果が出ています。

詳しくは下記の記事を参考にしてください。

優しい方が不利になるなら人はだんだん優しさを忘れ、利益を求め剋しあい奪い合うようになります。

しかし逆を考えれば、人は考え方、お金の使い方、つまり価値観を変え、選択や行動を変えることでとりまく人間関係やコミュニケーションを変えることができるということなのです。

生命の維持、家庭の維持など最小限のものの維持に勤めて、他は流動的に生きることで価値観上で生まれる苦しみから開放されるのです。

勤務契約の破綻、友だち関係の破綻、家族の破綻を迎えそうな時、その価値観は維持するに相当するか選択に迫られるでしょう。でもそれは破綻せざるおえないものとしてもそれは自然のことであるため仕方のないものとして受け入れるしかない場合が多いと思います。

その受け入れのために必要なものは、常に誰かがどんな状態にあろうと受け入れてくれるコミュニティが存在するということを知っているということです。そしてその時を迎えた時、その場所に向かってすぐに動き出せることが大事だと思います。

破綻を怖れるあまり、あなたに否定的なコミュニティにしがみついているのはよくないのです。そのコミュニティが維持されるばかりに自分自身が苦しむだけでなく、否定的なコミュニケーションは世の中からなくならないのです。

とはいっても慎みは必要です。破綻ばかり、約束を破ってばかりでもいけないのです。
あらゆる価値観を受け入れ適切に、ほどほどに生きることが心豊かに生きられる秘訣なのだと思います。

マルセル・モースの著書「贈与論」も貨幣経済の習慣のない民族のにも贈与習慣はあると解説しています。
つまり、贈与経済は貨幣経済よりもわれわれの社会に必然的に存在しえるものであると思うのです。

さて、われわれの贈与の習慣はいったいどこからくるのでしょうか?
おそらくわれわれの文明的暮らしは星のエネルギーの贈与からはじまっています。
そして、私たちの使っているエネルギーは地球の持っているエネルギーか、もしくはもともと太陽からのエネルギーです。
ですので宗教の中には太陽信仰が多いのは頷けるところです。

我々の社会が今メインとして使っている石油のエネルギーも太古の昔にさんさんと降り注いだ太陽からのエレルギーを植物たちが備蓄してそして化石になり地層に埋もれてつくられたものだそうです。

そんな石油エネルギーの文明も「行き詰まり」というものがあるとすれば「エネルギー革新できない」「経済成長が見込めない」「技術革新が起こせない」のいずれかなんじゃないでしょうか。

これらを乗り切る術は価値観の転換と言えます。無限の成長こそ正義の考えを一度リセットする必要があるでしょう。

われわれの文明は火を使い水を使い、耕作するところからはじまっています。それらは太陽のエネルギー、地球のエネルギーに他ならないのです。
人々は、日や地や水の自然恵みを受け、親から授かった身体で暮らしているのです。だから贈与というものはなにも不自然なものではありません。

誰からの愛情も受けられなくなったと悲観する時は、太陽の日差しを、自然の豊かさを感じることまず大切にするのがいいと思います。そして常に私たちは与えられることで生きている感覚を取り戻し、そして贈与の習慣をの輪の中に戻っていくのがいいと思います。その過程で破綻を迎えてしまうことは必ずしも悪いことではないのです。

とはいっても破綻はおそろしいものです。そこからの回復も簡単ではありません。周りの人への影響を考えるとなかなか選択できないものかもしれません。苦しい社会に身を置く中で大切なことは、出来る限り笑顔でいられる場所や習慣を見つけそこに多くの時間を割くことです。あなたが笑顔で入られる時間をつくることがなによりも社会貢献につながるのだと気がつくだけでも十二分に世界平和へ貢献していることになるのです。



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