高三の夏に書いた雰囲気小説

およそ10年前、高三の夏に書いたらしい非常に短い小説が2本見つかり、記念に残しておこうと思い、あげておく。読めたものではないのだが……。何というか、ギャルゲーの影響を感じる。

「少年時代」

 いっしょに行かない? 
 そう彼が言ってくれた時には本当にどきどきしたし、すごく嬉しかった。
 彼はもう、帰ってしまっただろう。明日からはもう、今までと同じようには話せないのかもしれない。そう思うと、すこし寂しい――けれど。
 見知らぬ歳上の男、ライターの炎に照らされるその汗ばんだ皮膚を見つめながら、私はずっと彼のことを思っている。でも、後悔がない――そのことが私にはとても不思議で、そして、恐い。痛いくらいに私を強く抱いた目の前の男はもうまったく冷めていて、それでも、男を信じているわけでも諦めているわけでもなく、怒りも悲しみもぜんぜん浮かんでこないのだ。

 ・・・・・・・・・・・・

 夏の夕焼けはしぶとい。待ち合わせ場所は出店の並ぶ通りの近くの稲荷神社――夏祭に来る人たちの駐輪場になっていた。私が下駄をからからと鳴らしながら着いた時には彼の姿はなく、階段を登って鳥居をくぐると、子どもたちのはしゃぐ声も聴こえなくなって、蜩の鳴き声に包まれる。境内は木々の葉に覆われて暗く涼しく、浴衣では寒く感じるくらいだった。
 階段の下、彼が待っていた。白いシャツ……制服のままみたいだ。顔が熱くなるのを感じる。やはりどこか気恥ずかしくて、慣れない下駄で一段ずつゆっくりと階段を降りて、彼がそっと差し出した手にも気づかないふりをした。
「ごめん、先に着いてた?」
「ううん……今来たとこよ」
 そんな定番のセリフが自然と出てきて、すこしおかしかった。行こうか、と彼は小さい声で言う。
 山車の出るにはまだ時間があったけれど、通りにはもうたくさんの人がいた。端の出店のほのかな灯りには羽虫が集まっていた。
「……わたし、祭りなんて久しぶり」
 彼に聴こえるよう、大きな声で言う。
「そうなの。俺は、去年も来たよ、友達と」
 そう、と答える。いつもよりずっとぎこちない――彼も、わたしも。彼とは幼なじみで、普段からよく話してるけれど――変に意識しているからだとはわかっている。けれど、今日は変に意識すべきなのだ、たぶん。
 ふと気づくと彼は少し後ろの出店でお金を払っていた。止まる時くらい何か言ってくれればいいのに、と思う。彼も相当変に意識しているらしい。ごめんごめんと言いながら戻ってきて、わたしに硝子の風鈴を渡した。
「これ、あげたかったんだ――去年から。綺麗だろ?」
「う、うん……良いの?」
「良いよ、安いし」
 また、二つの山車の出逢う場所にむけて並んで歩きだす。彼の左手はと固く握られていて、私の右手も浴衣にきっちりとくっついていて。なんとなく触れてしまうのは恐かった。戻ってこれないような気がした。何処から何処に戻れないのかはわからないけれど、そんな気がした。左手に持った風鈴は人混みの音の中でとても透き通った音を鳴らした。

 帰り道、日はもうすっかり暮れていて、私は下駄をかたかた鳴らしながら、彼は自転車をガタガタ鳴らしながら懐中電灯で前を照らし、二人並んで川沿いの堤防の上を歩く。彼の自転車の籠の中では透明のラムネ瓶が二つ転がり、蟋蟀は鳴き、もう涼しい秋風が吹いていた。愉しげな声――人はまだらで、けれども普段よりはずっと多くいた。
「あ」
「……ん?」
「花火したくない?」
 彼は言う。河原を見ると、いたるところで花火が光っている。聴こえる音は愉しげで、それに、このまま終わるのもあまりに寂しい気がして、そうだね、と私は答えた。彼は私に懐中電灯を渡す。
「ここらで待っててくれよ。買って、すぐ戻ってくるから」
 彼は自転車に乗り、ラムネ瓶を鳴らしながら、立ち漕ぎで走っていった。
私の左手の指にぶらさがる風鈴は、透明な音を出す。私は堤防から少し降りて、座った。良く聴くと川の流れる音がかすかに聴こえる。少し離れた場所から打ち上げられた花火が対岸の林を照らす。若い男女のはしゃぐ声が混じる。私は懐中電灯と風鈴とを地面に置き、ため息をつく。蟋蟀の鳴き声や川の音があまりに大きく変化もなく、なんとなく、ここに一人取り残されてしまった気がした。そしてそう思うと、体が震えた。風が冷たい。

 ねぇ君、独りなの?
 だから――その声に従ってしまった。

 その男の後ろにはたくさんの男たちがいたけれど、私が独りです、と答えると、変に笑いながら歩いていってしまった。むこうに車停めてあるから、と男は私の手を引いて、それから優しげに笑った。私は腰を浮かせて男の手を取って、微笑んだ。
 硝子の風鈴は懐中電灯といっしょに置いていった。持っていってはいけない気がした。

「陽炎」

 不意の目眩に、立っている大地が揺らぐ。
 全て、夢だったのではないだろうか。波打ち際で水を蹴る白いワンピースを着た美佳と、海パン一丁で泳いでいる黒く焼けた健太を陽炎のむこうに眺めながら、思った。今までのことは全部、ただの夢だったんじゃないか、と。強い夏の日差しの下、この視線の先にいつだって笑顔いっぱいだった祐未がいれば、あの楽しく輝いていた夏と同じだったのに。祐未のいないまま巡った夏。
 大きな麦藁帽子をかぶった美佳が俺のところにちょこちょこと走ってきて、ちょっとばかし大きな巻貝を見せた。なんとなく脆いものであるように思えて、俺はそれをそっと受け取る。彼女は寂しげに笑って、耳に手を当てた――彼女はもう、言葉を話さない。俺は彼女に倣い、貝殻を耳に当てる。予想通り、遥か遠くの世界のさざ波が、その貝殻から聞こえてくる。彼女はかすかに笑っていたけど、俺は笑えなかった。泣きそうにさえなった。そこに祐未の欠片を、あの夏の幻を見たのだ。
 三年前の夏。俺も、祐未も、まだ高校一年だったとき。祐未はいなくなった。世界から消えた。あの夏――最後の夏の記憶が、蘇る。

 ・・・・・・

 祐未と彼女の弟の健太は、砂浜に付くや否や水筒やバッグを岩場に投げ捨て、キャーキャー騒ぎながら海に走っていった。俺は祐未の妹の美佳といっしょに後からゆっくり彼女たちについていった。俺が砂の入りこんだスニーカーを、美佳が向日葵を模した飾りのついた黄色いサンダルを脱いだときには、祐未も健太も高い声で騒ぎながら水をかけあっていて全身びしょびしょに濡れていた。俺が靴下を脱ぐのに手こずっているうちに、美佳は先にいきますねと静かな声で言って、彼女の祖母から借りたらしい大きな麦藁帽子をおさえながら海に向かった。俺は諦めて、砂浜に腰かけた。砂にたまった熱と水気をじわじわとジーパン越しに感じた。
 昼下がり、東シナ海に面した、鹿児島の田舎町の浜辺。波の高いときにはサーファーがいたりするが、大抵はほとんど誰もいない。
 俺や祐未たちは東京に住んでいるけれど、祐未の母方の実家がこの田舎町にあって、そして俺の父方の実家が錦江湾側の町にあった。近いこともあってよく互いに遊びに行きあっていて、特に最近は祐未の方に俺が行くことが多かった。俺の方は鹿児島市の近くで、この町ほど田舎、という感じのしない場所だからだ。
「ゆうとー、こっち来なよー」
 祐未が叫ぶ。祐未は頭の上から全身びしょ濡れで、ティーシャツはすごく張り付いていて、あまりじっと見るのは恥ずかしい。健太は祐未の後ろからずっと海水をかけ続けている。美佳は岩場に近い砂浜にしゃがみこんで何かを拾っていた。
「無理だよ。着替え少ないんだから」
 美佳の方に近づきながら俺は大声で言った。
「ジーパン脱いじゃえって。見慣れてるし、気にしないから」
 後ろに水を足で蹴り上げながら祐未は大きな声で言った。いくら水をかぶっても、健太の攻撃は止まらない。
「貝殻を拾ってるの」
 美佳の隣にしゃがんで言った。美佳はコクっと恥ずかしそうにうなずいた。姉とは大違い、正反対と言ってもいいかもしれない。反面教師に、なったのだろうか。美佳はちょっと目立つ貝殻を拾っては捨てて、拾っては捨てて……なかなか彼女の目にかなうものはないらしい。
「おにいちゃーん!」
 健太の声に顔を上げると、健太が俺の方にむけて叫んでいて、祐未が健太の後ろでくすくす笑っている。
「お兄ちゃん? ……俺?」
「あ、あの」
 美佳が何かを謝るみたいに、言う。
「お姉ちゃんが、優斗さんのこと、お兄ちゃんって呼んで良いって……」
「……なんだそりゃ」
 おにいちゃん、と今度は祐未が叫んで、それから口元を手でおさえて、たぶん笑っている。健太が彼女を不思議そうに見上げる。
 俺は立ち上がって、ジーパンのベルトを弛めた。大きめのトランクスだし、たぶん大丈夫だろう。どうせ祐未と健太と――美佳には少し恥ずかしいけれど、ジーパンを脱いで岩場に放り投げる。祐未がキャーと声をあげ、それからなぜか健太を持ち上げ、海に放り投げる。そしてまた叫ぶ。
「美佳も来なよー!」
 ちらっとしゃがみこんでうつ向いたままの美佳を見る。
「美佳ちゃんは行かない?」
「うん……濡らしたくないから」
 少し不機嫌そうにも感じた。清楚なクリーム色のワンピース。日光に気をつけろよ、とだけ言って、海にむかう。今日も日差しはものすごく厳しい。何時間も当たっていたらそれこそ死んでしまう、そんな日差しだ。ちょっと手を当ててみると、自分の頭は触っていられないほどに熱くなっていた。

「……美佳?」
 浅瀬に倒れこむ俺と健太を見下していた祐未が突然小さく呟いた。塩辛い水を吐き出し、身体を起こす。祐未が水を跳ねさせながら走っていく。見ると、美佳は浜辺に寝転んでいた。祐未は美佳の傍にしゃがんで、それから俺を手で呼ぶ。立ち上がっていく俺に健太はついてくる。
「美佳、熱射病かも」
「熱射病?」
 美佳の額に手を当てる。熱があるかどうかは、わからなかった。汗は出ている。意識はあるようだったけれど言葉はなく、呼吸は苦しげだった。俺は岩場にむかって、濡れた足のままジーパンを穿いた。ジーパンはものすごく熱くなっていて、水はすぐに乾き、すぐに汗に湿った。シャツを絞る。祐未は健太に取らせた水筒を美佳の口にそそいでいる。美佳が咳き込む。健太は静かにそれを見守っていた。
「優斗、どうしよう」
「――家に連れてこう。こんなとこじゃ何もできないよ」
 言ってしまってから、安静にした方がいいかも、という気もした。学校で配られた紙に書いてあった熱中症の応急処置。先生も話していたのに、何も思い出せない――。
「それ、ポカリだよな。飲んだ?」
「う、うん」
「……背負うよ。急ごう」
 どうすればいいのかなんて、本当はまったくわからないのに、俺はそう答えた。しゃがんで、祐未が美佳を抱え上げ、背負わせる。美佳の体温が伝わってくる。小学生の彼女はとても軽かった。健太が何も言わずに、後ろでうちわを扇いで美佳に風を送る。家にむけて、なるべく急いで、歩きだす。道の先、陽炎が揺れる。

 蜩のよく聴こえる森の木陰の道で、美佳のため息を耳元に感じた。
「美佳ちゃん?」
 隣でうつ向いていた祐未がはっとこちらを見て、美佳の背中をさする。健太はうちわを扇ぐ手をゆるめない。
「美佳、大丈夫?」
「……うん、ごめん」
 美佳が呟き、そして背中でもぞもぞと動く。はぁ、とため息が出た。大丈夫、みたいだ。
「喉渇いてないか?」
「はい……大丈夫です」
「良かったぁ……」
「でも、早く大人に見せた方が良いだろ」
「う、うん……優斗は大丈夫? 代わろうか?」
「いいよ……美佳ちゃんは軽いからな」
「……わたしは重いって言いたいわけ?」
 美佳が、くすくす笑う。祐未はそれを見て、ようやくいつもみたいに、明るい表情を浮かべた。健太からうちわを奪い、お疲れと言いながら頭をぐしゃぐしゃ撫で、それからゆっくり、美佳に風を送る。木陰の道だからだろうか、美佳の体はさっきよりも冷えたように感じた。
「……美佳がね」
 祐未がぽつりと呟く。そしてうちわを健太に押しつける。
「美佳が、お兄ちゃんが欲しいって言ってたのよ、昔から。ねぇ美佳、良かったね」
 美佳に反応はなかった。祐未は美佳の腕を指でぐいぐいつつく。体重が祐未の反対側に傾く。俺は背負いなおす。美佳は鼻をすする。
「美佳、お兄ちゃんって言ってごらんよ」
「アホか」
 海へ行く時にも見た、あなたは狙われている、と書かれた防犯の看板。森の中の道が終わろうとしている。この林を抜ければすぐに家だ。
「……お兄ちゃん」
 突然、美佳はそう呟いた。ものすごくくすぐったく、でも、少し嬉しいかもしれないなと思った。林を抜ける。太陽の光は明るく、けれど少し優しくなっていた。蜩の鳴き声は、変わらず聴こえていた。

 美佳は高熱を出した。夏風邪、と祐未の祖母は言って、美佳を風通しの良い和室に寝かせた。無理してたんだろ、とおばあさんは笑って言った。
「あれ、健太、お姉ちゃんは?」
 日は少しずつ低くなってきていた。おばあさんが何処かに行ってしまって居間に一人残され、祐未たちの寝ているらしい部屋に行くと、健太が一人で足し算引き算の算数ドリルを進めていた。ここは、祐未に似なかったということだろうか。
「あっちだと思う」
 指差したのは庭の方。
「庭?」
「ううん。あっちの家」
 離れのことだとわかった。広い庭の先にある離れ……工事現場の事務所みたいな味気ないプレハブ小屋だが、祐未も離れと呼んでいたし、たぶん離れでいいのだろう。誰のものかわからないスリッパを借りて、庭に出る。蝉は軋むように、全力で鳴く。
小屋、離れの窓には灰色のカーテンがかかっていて、中に日が入らないようになっている。俺はドアを叩く。ん? とドア越しにこごもった返事。ドアを開ける。事務机の椅子をくるっと回してこちらをむく祐未。
「あれ、優斗か。ダメだよ勝手に開けちゃあ。着替え中だったらどうすんの」
「今さら着替えを見せられてもなぁ……」
 ポン、と何かが頭に当たり、床に落ちる。見ると、丸まったコピー用紙。
「……なにしてんだ?」
 ドアを閉め中に入る。クーラーが緩く効いている。見回すと狭い小屋にたくさんの段ボール箱やファイルのいっぱい入った棚。足元には工具入れが転がっていた。
「折り紙」
「……は?」
「折り紙」
 また祐未が何かを投げる。今度は、赤い折り紙で折られた鶴だった。祐未は性格に似合わず器用で、この鶴も細かく丁寧に折られている。
「千羽鶴?」
「ううん、ただの趣味……でもその鶴は、美佳にあげようかな」
「今俺にぶつけたこれか?」
「……じゃあ、それは優斗にあげる」
 そう言って、椅子を机にむける。近づいて見ると、慣れた手つきでぱっぱっと、それもきれいに、水色の鶴を折ってみせた。机の上には折り紙と、落書きのされたコピー用紙と、画用紙……美術の宿題の絵を描く紙だ。下描きが終わっている。
「うわ、絵どうしよ……」
「絵? ああ……絵、またわたしが描いてあげよっか」
「中三の時、バレかけたよな」
「もっと下手に描くから大丈夫。数学の宿題見せてくれたらだけど」
「お前なぁ、美術は良いとして、数学はやっとかないと痛い目見るぜ」
「良いの。どうせ文系だし、大学なんて行けなくていいよ」
「あっそう……まあ、お前が東京に戻ってきたときに終わってなかったら、頼むよ」
 祐未たちは、俺が東京に戻った数日後に戻ることになっていた。
「了解、今から下描き考えとくね」
 祐未は嬉しそうに言う――祐未は、絵を描くのがめちゃくちゃに好きで、そして上手い。上手いだけじゃなく、描き方を変えるのも上手い――下手な絵を描くのも上手いのだ。おかげで、それこそ小学低学年くらいの頃からお世話になっている。
 祐未は引き出しからコピー用紙を一枚取って、鉛筆を握って、それからしばらく沈黙が流れた。祐未は俺を見上げて、自分の髪を撫でながら、笑う。
「まいっか、あとで」
 その声も笑顔も、気のせいだったかもしれないけれど、どことなくぎこちなく感じた。
「あ、あのさ」
 小屋のドアのあたりを見つめながら言う。
「なんだよ」
「――優斗、スイカ見た? おっきいやつ」
「スイカ?」
「うん、今朝、中園さん……おばあちゃんの知り合いが持ってきてくれたの」
「あぁ、俺が寝てる時に来た人」
「そう。優斗は明日の朝には、帰っちゃうでしょう? 食べちゃおうよ」
 祐未は勢いよく立ち上がって、椅子は壁にぶつかった。その勢いのまま小屋を出ていって、俺は一人残される。電気もエアコンも消した方が良いだろうと思い、ふと机の上のコピー用紙に目がいく。細い黒い線で――おそらく俺の立ち姿が描かれていた。俺だろうと思えるくらい、上手いデッサンだった。いつのまに、写真でも見たのか、と思いながら俺は電気を消し、赤い折鶴を手に小屋を出た。

 八月二十日。朝早くおばあさんに起こしてもらい、荷物の準備をしていたところに、祐未が子供じみたパジャマ姿のままで入ってきた。昨夜と同じく笑ってしまい、祐未は昨夜と同じように何か文句を言うと思ったが、何も言わないで昨日びしょびしょに濡らしたシャツの洗ったのをビニール袋に入れて渡してくれた。
「お、ありがとう」
「うん」
 祐未は俺の隣にぺたりと座って、それからじっとしている。眠いのか、と思いながら荷物をつめる。なかなか上手く入らず、バッグを閉じられない。
「……あの」
「ん?」
 何度目かの挑戦を中断して目をやる。まっすぐ、祐未と目が合う。祐未ははっと視線をはずし、自分の髪を撫でながら布団の方へいってタオルケットを畳んでくれる。
「あ、わりい、ありがと」
 俺は立って、布団の端を持つと、祐未は少し離れた。布団を畳む。
「……あ、朝ごはん食べてきなよ」
「……ああ。祐未、体調でも悪いのか?」
 美佳の風邪が移ったのかもしれない――美佳の熱は昨日ほどではないがまだまだ高く、昨晩からは咳き込みだした。
「ううん、ぜんぜん……ちょっと、胸が苦しい」
「胸?」
 ちらっと目をやってしまい、慌てて視線をそらす。いつもなら変態だのなんだの言うはずであったが、やはり祐未は黙って自分の胸元を見つめていた。
「寝不足じゃないか?」
 昨晩は十二時を過ぎてもずっとこの部屋で健太も交えて静かにトランプをしていた。健太が寝室に戻ったあともなんとなく祐未はこの部屋にいて、たわいのない話のあとに、彼女も寝室へと戻った。
「違うよ」
「そう……朝ごはん、いただいてくる。祐未は寝とけよ。まだ時間早いぞ」
「ううん、起きてる」
「あっそう……じゃあ、着替えとけ。目のやり場に困るから」
 アホ、の一言だけだった。それも肺の奥から絞りだしたような、儚げな声。変に思いながら、俺は三晩使わせてもらった部屋を出た。

 バス停までの道を、祐未は黙ってついてきた。
「お前、ほんとに大丈夫かよ」
 彼女の額に手を当てると、祐未はわっ! と叫んで後ずさった。
「祐未?」
「あ、うん、大丈夫だよ、眠いだけだから……ねぇ、今年の夏は本当に楽しかったね」
 朝よりは少し明るく、いつもの祐未に近づいていた。
「楽しかった、去年よりも一昨年よりもずっと……優斗、も、楽しかったでしょ?」
「ああ、楽しかったな。くたくただけど」
 けれど、祐未の物言いからは妙なぎこちなさを感じたのだ。何か隠し事でもあるかのようなよそよそしさ。
 バス停に着くと、近くの木でミンミンゼミが鳴き出した。これからまた、暑く厳しい一日が始まる。思わず呟く。
「……気をつけろよ」
 祐未はえともへともつかぬ声を発する。
「――暑いし、な」
「あ、うん」
 あなたは狙われている、の看板がバス停の脇にも立っていた。小学生の描いたような、祐未の足元にも及ばない下手なイラスト。
「……絵、楽しみにしてるよ」
「あ、結局描かないんだ」
 祐未の語気は急に明るくなった。少し嬉しくなった。
「ああ、祐未に描いてもらいたくなった」
「何を描けばいいかな?」
 答えはすぐに脳裏に浮かんだ。くすぐったい、木漏れ日の情景。
「あの森の道なんてどう?」
「うん、良いね。木ばっかりでつまんなそうだけど、描くよ。ちょっと上手く描く」
「バレない程度にな、お願いします」
 車通りのまったくなかった道の、遠くから車の近づく音。空港行きの高速バスだ。
「よし、じゃあな」
「優斗、あの」
 バスが止まり、扉が開く。
「ん?」
「あの…………やっぱり、東京に戻ってからで、いいや」
「はぁ? 気になんなぁ……じゃあ、東京で待ってるぜ」
「あ、ゆ、優斗――」
 バッグをバスに持ち上げて載せて、空港まで、と運転手さんに伝えた。
「なんだよ、もう乗るぞ。祐未、ほんとに大丈夫かよお前」
 祐未は突然、本当に嬉しそうに――いや、少し陰りのある、けれど満面の笑顔を浮かべた。
「うん、優斗、またね」
 祐未はバスから後ろ足に離れる。俺は客の一人もいないバスに乗る。扉が閉まり、俺は椅子に座り、窓を開ける。腕を出して、祐未の差し出した手に、軽く触れる。バスは走り出し、後部の窓から見えた祐未は、右手は高くかかげて左右に振って、左手は髪を撫でながら、微笑んでいた。

 ・・・・・・

 俺の落とした貝殻を、美佳がそっと拾った。
「わ、わりい……」
 涙が止まらなくなった。あまりにたくさんのことが、俺が見落としていたたくさんのこと、あの夏に忘れてきたたくさんのことが、見えてきて。
 海に入ってばしゃばしゃと水を飛ばしている健太は、あの夏を覚えていない。けれど、いや、だからだろうか、健太の姿はあの夏と何も変わらないで、それがたまらなく苦しい。
 美佳が何を思っているのかは、俺にはわからない。彼女は言葉を話さなくなってしまった。何があったのかは聞いている――彼女が最後に話した言葉は、「お姉ちゃん」だったらしい。姉の……祐未の死を見つけたのは、彼女だった。熱で寝込んでいたはずの彼女が祐未の亡骸を見つけたその経緯は、わからない。
 美佳はずっと俺のそばにいて……その姿や仕草に香る祐未の欠片は俺の胸を鋭く突き刺す。祐未の最後の微笑みの記憶は俺の頭を強く、何度も何度も、殴りつける。

 ――雲ひとつない青空。青くて広くて……あの日の空と何一つ変わらない、空。

 空の青、厳しい日差しが網膜にやきつき、そして、彼女から送られてきた真っ白な手紙を思い出させる。
 封筒には俺の名前がフルネームに様付けで記され、その中に入っていたのは雑に折り畳まれたコピー用紙。震えた文字で書き出された文章と、滲んだインク。そして、はっきりとした字で書かれた、祐未の思い。胸が、苦しくなる。
 無理だよ、と、俺は呟いていた。美佳が心配そうに俺を見つめる。あの夏、ここから見つめた祐未の笑顔。それを奪い去ったもの。赦せるわけ、ないよ――何度、何度も、俺は、死のうと思った。けれど、それですらも祐未の思いにこたえることにはならないのだと、彼女の手紙に突きつけられるのだ。
 彼女のくれた赤い折鶴といっしょに、俺の机の上に今もある手紙。その脇には、僕らの写真。


ゆうとへ
 今日は8月25日、雲ひとつない青空です。鹿児島の空は東京なんかよりずっと青くて広くて……ゆうとと見上げたあの日の空と何一つ変わらなく、きれいで気持ちのいい空です。
 あなたは今頃東京にいて、きっと夏休みの宿題に追われているでしょうね。絵、描いてあげられなくてごめん。
 何からどのように書けばいいのかわからなくて本当に混乱しているのだけど、とにかくぜんぶ、ゆうとに伝えておきます。いえ、知りたくなかったら、破り捨ててください。あまり気持ちの良いことは書けないだろうから。わたしの今までのことと、これからのことについてです。
 まず、この夏、ゆうとと過ごせた日々は、本当に楽しかった。ありがとうございました。美佳も健太もいつもよりずっとはしゃいでいました。ゆうとのおかげです。美佳はわたしに似て可憐でかわいく、そして本当に気のきく優しい子だし、健太はわたしに似てとても明るくて活発で、本当に自慢の妹と弟です。これからも、美佳や健太と仲良くしてあげてください、お兄ちゃん、なんて。
 ゆうとが東京に帰った次の日も、美佳はやはり熱が下がらなくて、それに健太とわたしがうるさいと言うので、わたしたち二人は浜辺へ遊びに行きました。美佳は美佳で、わたしたちに心配をかけたくなかったのだと思います。その帰り、二人であの木陰の道に座って涼んでいたとき、わたしはおそわれてしまいました。
 まず、お願いです。わたしは誰も憎みたくありません。それに、ゆうとにも、誰も憎んでほしくない。わたしは彼らをゆるしたい。だから、ゆうとも彼らをゆるして。
 今、健太が入院しています。とても悪いようです。わたしはその日何も考えられずに一人おばあちゃんの家に戻って、それからずっと部屋にこもってしまっていて、それにやっと気がついたのが昨日でした。両親もこちらに来てくれて、でも、わたしはまだ何も話せていません。両親や美佳、おばあちゃんがわたしに起こったことをどのように推測しているか、わたしにはわかりません。
 だからわたしは、死のう、と思ったのです。嫌な予感もしますし、それに、健太まで傷つけられて、傷つけさせてしまって、わたしはもう、耐えられないと思う。でも、これは誰のせい、というものではありません。彼らのせいでも、わたしのせいでもないと思ってる。だから誰かを憎んだりしないで。お願いです。
 この夏がゆうととの最後の思い出になって本当に良かった。ただ一つだけ心残りがあったのだけど、この手紙で伝えておきます。本当は直接言いたかったけれど。わたしがゆうとにこの夏のうちに言おうと思っていて、言えなかったことです。
 まず、今までありがとう。幼稚園で出会って、この夏の最後の日まで。ありがとうなんて言葉じゃ言いきれないくらい感謝しています。それと、わたしはゆうとのことが好きです。ずっと好きでした。好きなんて言葉じゃ言いきれないくらい好きでした。本当は直接言いたくて、ゆうとの気持ちも知りたかったけど、でももうおしまいだから、いいです。わたしは天国には行けないかもしれない。いつの日か天国でゆうとと会うなんてこともできないかもしれない。でも、満足です。とても楽しかったし、優斗は最後にわたしの名前を呼んでくれて、本当に幸せでした。
 では、さようなら。
祐未より

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