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読書録「最長片道切符の旅」

これは北海道から九州まで、13,319.4キロの鉄道旅の記録だ。
昭和の名編集者であり、鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した著者の紀行文のひとつとなる。

最長片道切符というのは、鉄道ファンが「一筆書き切符」と呼ぶもので、同じ駅を二度通ることなく、最長のルートをたどるものだそうだ。
正直に言って、はじめは「はあ…そうなの?なにそれ」と思った。
最短ルートならともかく最長って…。
しかし読み進めていくうちに、これはすごいことだと感じいった。
ちなみにまだ国鉄の時代だ。

自由はあり過ぎると扱いに困る。
籠の鳥は外に出されるとすぐ空へ飛び立つのだろうか。

乗り鉄の著者は、在職中忙しい仕事の合間をぬって鉄道旅を楽しんできた。もう少し時間があれば…と思っていたが、いざ退職して暇が出来た途端に時間を気にしなくていい現状に戸惑う。制約があってこそ、時刻表を見てあれやこれやと工夫する楽しみがあると気づく。
そこで思いついたのが最長片道切符への挑戦だ。ルートを一本に縛るという制約がありながら、自由に工夫する余地があり、思う存分鉄道旅を満喫するのにちょうどいい。
起点は北海道広尾駅、終点は鹿児島県枕崎駅。一筆書きで鉄道を乗り継いでいく旅をしようと心に決める。

時刻表は百年を超える日本鉄道史上に作り成された大交響曲である。(中略)壮大にして零細、これが時刻表なのだ。

しかしすぐに出発はできない。
最長ルートを割り出す時点でもう大変だ。時刻表を見ては電卓をたたく。
パソコンもインターネットもない時代だ。最長になり得る可能性のすべてを探るのはただごとではない。
乗車券の購入にあたっても「旅客営業規則」「旅客営業取扱基準規定」という分厚い本を繰って運賃やら営業キロやらも割り出す。
ここまでにすでに2か月を費やしている。この時点でもう壮大な感じだ。
切符を買う為に訪れた旅行センターで、若い職員に「本当に乗るんですか」と訊ねられ、「乗りますよ」と答えた。切符の裏には線区名と経由する駅名がぎっしりと書きこまれている。

車窓からの景色や、乗客の様子を楽しみ、途中下車してちょっと観光したり、歴史や地理に思いを馳せたり、土地のものを食べたりする。
コンビニが普及していない時代、度々ごはんを食べ損ねて空腹のまま移動している。駅弁が売っているというのはとても重要なことだったんだな。
昭和の風俗もあちこちに見られてちょっとおもしろい。
途中で娘や仕事仲間が旅に加わって少し賑やかになったり、風邪をひいたり、寝坊をして予定が狂ったり、乗車期間の残日が足りなくなりそうで焦ったり。
途中下車印がぎっしりと押された切符に対する乗務員の反応もさまざまだ。
スイッチバックにワクワクしたり、特急「富士」は特別な列車なのだと所見をのべたりと、鉄道への愛があふれていて楽しくなる。
コスパやタイパとは対極にある、ものすごく贅沢なことのように思えてきた。

阿呆らしさもここまでくると、かえって厳粛な趣を呈してくるかに私は思うのだが。

「最長片道切符の旅」宮脇俊三 新潮社(昭和58年4月25日)

この本を貸してくれた知人は、コロナで出かけられない期間に旅の本にハマったらしい。久しぶりに会ったら、紀行文の文庫本を何冊か貸してくれた。
これが一番読みやすいと教えてもらった。
そんなわけで読むことにしたけれど、私は鉄道ファンではない。
鉄道旅は好きだけれど、時刻表を見るのは特別好きではない。
実際、ルートの割出しや乗車期間のルールなど、何回読んでも分からない。
それでも誰かの「好き」という気持ちに触れると楽しくなるし、こんな世界もあるのだなあと、とても興味をそそられた。
よい季節になったら、鈍行列車でカタコトと旅に出たいと思った。
知っている人から本を勧められるのは好きだ。
その人の一面を見ることができる気がするし、話題を共有できるのも楽しい。ボチボチ読んでいこうと思う。
それにしても、昭和の本は文字も内容もぎっしりつまっているなあ…。

本文より

小池喜孝氏の「常紋トンネル」(昭和52年朝日新聞社刊)によれば、リンチの生き埋め、人柱などもおこなわれたらしい。昭和45年にはトンネル内の待避所で十勝沖地震によるひび割れを修理していた保線区員が、煉瓦の壁の裏から立ったまま埋められたと推定される人骨を発見しているし、トンネルの周辺からも多数の人骨が発見されている。いまでもトンネルにまつわる怪談は多く、国鉄職員は常紋信号場の勤務をいやがるという。

2年前の6月に来たときは美深の駅前に「日本一の赤字線美幸線に乗って秘境松山湿原へ行こう 美深町」と大書した塔が立っていたが、いまはなくなっている。新しい宣伝文句を探しているのだそうだ。

途中下車印を、と言うと、中年の駅員が「めったに使わないので、あるかな」と駅舎へ探しに行く。あることはあったが、すっかり干からびていて、いくら捺しても字がうつらない。

いったい東北本線は日暮里に駅があるのかないのか?

ルートは私の意志によるが、通用期間は国鉄側が勝手に決めたことである、そんなものに支配される必要はない…。これは正常な考え方である。天井などぼんやり眺めているほうが正常になるのかもしれない。

それと、例の切符に対して情のようなものも芽生えている。当初は、みっともない切符奴!と思いながら渋々携えていたのだが、何日も一緒にいると、そうでもなくなってくる。あちこちの駅で途中下車印を捺されて、羽根つきの下手な子みたいな面相になってきたのも愛嬌がある。終着駅「枕崎」の印を捺してやりたいな、と思わせる顔である。

ここは2つに分かれた変わった駅なので、鉄道マニアがよく来るのだろう。また変なのが来た、といった程度の扱いである。面白がられるのは迷惑だけれど、全然反応のないのも物足りない。

駅と行政区劃の関係もごちゃごちゃしていて、品川駅は品川区になくて港区にあり、目黒駅は品川区にある。

駅弁は沼津で買うものと決り、沼津まではヌマズ食わずで我慢しよう、という洒落も使われた。

このあたりの駅名標は国名の訓みが長いから大変だ。外国人など乗らぬ線だろうけれど、ローマ字を読み終わらないうちに列車の扉が閉るだろう。

※遠江一宮駅

車内放送のあり方については国鉄内部でもいろいろ意見があるらしい。やればうるさいと言われるし、黙っていればサービスが悪いと叱られるからだ。たしかに、マイクに向って喋るのが好きでたまらない、としか思えないうるさい車掌もいるし、いろいろだが、小海線のこの車掌のような簡潔な車内放送ならよいだろう。

このあたりが今回の旅行の中間地点である。最長片道切符の全長は13319.4キロであるから、その半分の6659.7キロ地点は喜多方の西方14.2キロという計算になっている。11時19分にそこを通過した。

千曲川に沿う飯山は水運の便に恵まれ、北信州の物資集散の中心地として栄えていた。鉄道など必要なく、むしろ迷惑なものと人々は考えた。現在の信越本線のルート決定にあたっては飯山経由が最有力であったのに、「陸蒸気の煙で稲が枯れる」「馬方の仕事がなくなる」「汽車の騒音は人間の寿命を縮める」と飯山の人たちは反対した。信越本線は飯山を通らないことになった。

こういう新旧さまざまな屋根を見ていると、家とは「屋根」なのだと改めて思う。

かつて水運にとって代った鉄道輸送は、いまやトラックに座を奪われている。

鬼たちと加悦の里人たちとは仲が良かったというから、あるいは縮緬を取返しに行ったのかもしれない。その大江山の鬼が源頼光に退治されてしまったから、里人たちはがっかりしたことだろう。加悦鉄道の沿線には鬼の石像や遺跡が多いという。

旅と旅行とはちがうという。自己の心を友として異郷をさすらう「旅」は失われ、観光地や温泉場をセットにした「旅行」ばかりが横行するようになったと慨嘆される。その通りだと思うが、そうすると私のやっているのはなんだろう。いつも一人だから「旅」のようではある。一人旅という言葉はあるが、一人旅行とは言わない。団体旅行という言葉はあるが団体の旅などとは言わない。しかし、鉄道一点張りのこんなのを「旅」と称するわけにもいかないだろう。

旅行者らしい姿は見えない。これは通勤通学船なのだ。

本州の終端にきたなと思うのは知っているからだが、このまま進めば海に落ちるだろうことは地理を知らなくても気配でわかる。

駅に停まっても助役と運転士が挨拶を交わして通標を交換するだけで客の姿はない。それでも車掌は扉を開け、懐中時計を見つめる助役の片手が上がると扉を閉め、運転士は出発進行と発声し、ハンドルを引く。ホームの上では、助役が進行方向にまっすぐ右手を伸ばして指差し確認をしている。

だが、思い返してみると、この駅員こそ私の最長片道切符に対して、真正面から対応してくれた唯一の国鉄職員ではなかったか。私はさっぱりした気持で駅舎を出た。

かなり昔の本なのにまだ普通に買えるんだ…それもすごい。

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