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VTuberはリアルなのか・フィクションなのか ~どちらでもない"VTuberという存在"であるということ~

3ヶ月ほど前から、VTuber沼にハマっています。
今まではいわゆる企業勢のVTuberさんの切り抜きをちょこちょこ見てる程度だったのですが、個人勢の六原小森さん推しになりました。

で、ライブ配信に参加したりメンバーシップ登録したり、いわゆるファンとしての活動を始めるうちに、ある疑問・悩みが生じました。
「配信者(中の人)を好きになっているのか、六原小森というキャラクター(フィクション)を好きになっているのか、自分でも分からねえ…」
「リアルでもキャラクターでもないなら、いちファンとしてはどう接すればいいんだ?」

現実の姿が見れないので生身のアイドルや芸能人のような存在ではない。
しかし配信者は確かに存在しており"人格"もあるため架空のキャラクターでもない。
このジレンマ、自分だけじゃなくVTuberにハマった人は通過儀礼なんでしょうか?

その一助として『VTuberの哲学』を読みました。

著書では同じように「VTuberは単にリアルともいえず、単にフィクショナルとも言えない独特な性質を有している」と定義され、深堀されていました。
だいぶ自分の中で腑に落ちる部分、言語化できた部分がありましたので記していきます。

【前置き】
あくまで一個人の考えになります。
昔からのV好きには「今さら何言ってんの」という話だったり、そもそも「自分にとってVとはこういうものだ!」という考え方が無数にあると思いますので、全くそれを否定するものではありません。

【VTuberの特徴①:リアルでもフィクションでもないが、どちらの要素も兼ね備えている】
VTuberという存在を傍から見ていたときは「まあ2次元のキャラクターみたいなものかな」と最初は"フィクション寄り"で考えていました。
しかし実際に配信を見ていくうち、キャラクターを演じているだけでなく配信者(中の人)の存在=人格すなわち”リアル寄り”の要素も感じ取ることができるのです。
ここに自分の中で認識の齟齬が生じ、リアルなのか、キャラクター(フィクション)なのか、どちらか一方に定義すべきと試みました。

その中で出た結論が、 "リアルでもフィクションでもないが、その要素の両方を持つ別のハイブリッドな存在=VTuberという存在である"ということです。
『VTuberの哲学』でも「制度的存在者」として定義されています。少なくとも、リアルでもフィクションでもない別の存在という考え方は同じでした。

まず、VTuberとリアルについて。
例えば配信の中で競馬場に行ったという話があれば、
VTuberの配信者(中の人)が競馬場に行った = VTuberが競馬場に行った
と同義であり、配信者のリアルでの行動がVTuberという存在に対しても情報追加されたことになります。

次に、VTuberとフィクションについて。
例えば六原小森さんであれば「自分にまつわる過去・ルーツの話」として Project NO.6 という小説企画を公表しています。
https://kakuyomu.jp/works/16817330668128208912
これを実在の人間が語るのであれば、事実ではなくフィクションのため、決してその人の実際の出来事ではありません。
しかし、架空のキャラクターという要素を持つVTuberにとってはフィクションも実際に起きた出来事として扱うことができるのです。
配信者が現実で行なった事実と同様の扱いで、VTuberという存在に対して情報が追加されることになります。

VTuberはリアルの情報もフィクションの情報も取り込むことができるというハイブリッドな点が、他にはない存在・未知の体験として自分が感じ入ったところになります。
まだ肌感覚として掴み切れていないのが正直なところではありますが、理論・理屈としては自分の中で納得できました。

上記については「配信者がVTuberに対して取った行動」を例えに挙げましたが。
もうひとつ特徴的だと思ったのが「VTuberと視聴者との関わり方」についてです。

【VTuberの特徴②:視聴者の行動によって変化しうる】
現在、多くのVTuberがライブ配信を主として行なっています。
ライブなので、大まかなプロットはあってもその場のアドリブで内容はどうとでも変わります。
VTuberは架空のキャラクターという要素もあるため、ライブ配信とはフィクション寄りの表現をすれば「筋書きのない物語のひとつ」です。

自分がライブ配信でコメントをした際、配信者がそのネタをもとに話を広げてくれたことがありました。具体的にはラジオ投稿みたいなやつです。
これは「自分の動きによって物語が動いた」ということで、衝撃的な体験に感じました。
現実であれば単なる会話誘導であり当たり前のことすぎて何の感動もありません。フィクション(ゲームやアニメのストーリーなど)であればそもそも視聴者には手の届かないものです。
VTuberという存在においてはこれが手の届く範囲にあり、配信者が立てていた筋書き=物語に視聴者も干渉できると言い換えることができます。

変化についてもう少し踏み込んで、VTuberのキャラ付け・アイデンティについて言及します。
例えば六原小森さんは"ミステリアスクールというキャラ付け"を名言しています。しかし、視聴者は誰もそうは思っていません。

こんなおもしれー女がミステリアスクールなわけないだろ。

配信中でも視聴者が事あるごとにツッコむ現象が発生しており、
ミステリアスクール → ミステリアスクール(?)
へキャラ付けが変容しているのは間違いないでしょう。

これはすなわち視聴者がVTuberを変化させることができるということであり、少なくとも配信者だけで成り立つ現象ではなく、視聴者という他者の観測・干渉あってこその現象です。
そもそもアイデンティティは他者からの応答がなくては成立しないものなので、VTuberは顕著に視聴者に影響される存在であると言ってよいでしょう。

「ファンネーム」という文化が根付いていることも、上記の裏付けと言えます。
ラジオでいえばリスナーのことをラジオネームで呼ぶやつですね。こんなにVTuberと視聴者は近い距離感なんだ、と驚きました。

とはいえ、この距離感には最初は戸惑いも大きかったです。視聴者としては能動的な活動を求められます。
毎日X(Twitter)かYoutubeで活動状況を確認し、ライブ配信の決められた時刻に参加しようとなれば、仕事も家事も終わらせて待機しないといけない。「いつのまにかVTuberが自分の日常に入り込んできている」という感覚がありました。
もちろんそれは嫌なわけではなく、傍から見ればガチ恋勢と言えるハマり方。今は適度な距離感を掴めるようになったかな、と思ってますが…
少なくとも、家庭も持ってる社会人がガチで追おうとしたら1~2人が限界ですね。

【最後に。】
以上、新米のVTuber分析でした。
VTuberを理解するうえでの考え方のひとつとして、言語化の助けになれば幸いです。というか『VTuberの哲学』を読みましょう。

また、ここまで読んでくれるような方は筆者の過去(ゲームレビューのサイトしてたりプロジェクタのあるオタク部屋作ったりエロゲタワー建てたり)を知ってると思うので。
私も認める「おもしれー女」であるところの六原小森さん、オススメしておきます。
3/31 に1周年を迎えていますのでこれからの方でもまだまだ間に合います!



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