見出し画像

『高き館の王の書』第二部

 ――異端審問所は混乱していた。ローマに魔女の自首があったのだ。
 それも実体なき魔術師と称され、ここ十数年もの間、歴史の裏で密かに弱き魔女たちを支援してきたという、あの名高きメルリンである。

 西方教会の総本山に侵入した恐るべき破門者に、聖職者たちは俄に騒然となったが、当の魔女本人はおとなしかった。
 教会は彼が崇拝されるのを恐れたとかで、一部の高位聖職者にしか似顔絵が知られていないというメルリンは、それら教会関係者によって本物と確認されるや、捕まった直後のままの格好で、バチカンの法廷に召致された。誰もが、畏怖すべき対象になるべくなら触れたくはないと望んでいたのである。

 幸いにして、危険な装備はないと判断された魔女は、異臭のする肌にぼろを纏い、そこに辛うじて縫い付けられたフードで顔を半ば隠していた。所持品は、荒削りながら小綺麗に加工された黒曜石の御守りたる首飾りと、皮袋に入ったミルクだけだった。
 注目の的となった被告が、縄で両手を縛られて審問所内の中央に立ち、面前の壇上に鎮座した裁判官と相対する。多数の聖職者たちが伝説の魔女の行く末を見定めようと詰め寄せ、二人を囲む座席はたちまち野次馬で氾濫した。

 サン・ピエトロ大聖堂に併設されたルネサンス様式の裁判所は、まだ完成しきっていない建物だった。
 根強い反対意見があるというのに、魔女狩りを推進する勢力は己が目的のため、無理やり建設を推し進めていたのだ。彼らがメルリンをここで断罪し、権威づけようと画策したのである。

 また、奇しくも魔女と同名だった推進派の指導者に因んで、この施設はメルリン裁判所と仮称されていた。

 やがて礼服に身を包んだ二人の高位聖職者が入廷し、裁判官の両隣の席におのおの座った。
 メルリンと自称すること以外、実在するという手掛かりすらなかった偉大な魔女が捕らえられたというので、彼に執着していた重役たちも、裁判を見届けることになっていたのである。

「異例な裁定になりますな」
 上位の聖職者へと、恐縮しながらもそこでようやく法廷の支配者が口をきいた。
 四角い強面の男。有罪者を多く出すことで、すこぶる評判の悪い裁き手である。
「おまえが魔女のメルリンだな」
 続いて自分へともたらされた裁判官の常套句に、拘束された男は首を横に振った。

「いいえ、少なくともあなた方の定義による魔女ではありません」
 それは皮肉でもあった。

 元来、古き魔女は民間の呪い師のようなもので、占いや薬草に通じるくらいの温和な存在だったのだ。
 ところが、魔女狩りのために脚色され、流布された悪しき魔女の偶像は、彼らが行使するとして仮想された黒魔術によって実像を歪められ、逆に、そうした教会に対する反逆行為を公布する結果にもなったのである。

「この期に及んで証言を変更するか」言ったのは、裁判官の左側に座る大司教だった。「口にすべきではないのかもしれんが、できればわたしもこんな真似はしたくないのだ。それでも世情というものがある。尋問を受けることになるが、よいかな?」

 司教服に司教杖。丸顔と垂れた目尻が温厚そうな印象を与える彼は、以前は東方教会の主教であったという。十数年前にある失態を犯し、鞍替えしたと噂される人物だ。

 それでも魔女は臆せずに、大司教を見据えて公言した。
「おれは真の魔女の正体を暴くために参ったのですよ。そしてそれは、あなた方のうちの一人です」

 室内を沈黙が覆い、やおらざわめきへと移行していく。
 裁判官は嵩にかかって罵った。
「異なことを申すな。くだらぬ戯言を聞いている暇はないぞ」
 次いで、彼の右側に座る司教枢機卿が横槍を入れた。
「おもしろそうではありませんか、最後の足掻きを観戦させてもらいましょう」

 階級の証である燃えるような緋い衣装。感情の起伏を見透かせない、のっぺりとした面長の顔。
 彼は特に熱心に魔女狩りに取り組んでいる人物で、二つ隣にいる大司教と共謀して、かつて助祭枢機卿であった頃にはなんらかの計略を企てていたとの噂があった。

 そんな枢機卿を援護するように、大司教も魔女へと抗議する。
「我々のうちの誰かが悪魔と盟約を結んだと? なんの利益があってそのような行為をするというのだ」

「あなた方とて人間ではありませんか」魔女メルリンは語った。「だいたいにおいて人の裁く行いは人の行い、誰しも容疑者になりえます。魔術師にとって、世界各地から教会が没収した神秘的知識とは、喉から手が出るほど欲しいものですからね」

「……ようするに、異端審問所に魔女がいれば、そうした物品を正当な理由をつけて容易く収集できるというわけか」
「ならば魔女のメルリン、証拠はあるのか」
 裁判官に指摘されて、魔女メルリンは頷いた。
「あります。あれは修行に出ていたおれが、ある夜、帰宅したときのことでした」

 彼が目にしたのは、深紅の池に横たわる家族たちだった。
 けれども正確な記憶には、失われたもうひとつの影が潜んでいた。
 黒檀の柄の短刀アサメイを手にした男である。そいつだけが生き生きとして血の海の中央に立ち、周りにメルリンの愛する者たちが倒れていたのだ。
 魔術師は悲鳴を上げて家族たちを抱き起こそうとしたが、望みは叶わなかった。
 闇に浮かぶおぼろげな灯火を直視してしまったからだ。

 侵入者に生えた三つ目の腕首、切り落とされ、生気を失った死人の手が、拳から人差し指をつき立てるオブジェ。絞首刑に処せられた人間の手首を素材とする禍々しき魔術道具、〝栄光の手〟だ。
 脂肪を燃焼させて灯る魔術的な火は、通常の液体や方法では消せず、ぞっとするような材料による特製の軟膏で防御しない限りは、目撃した者を金縛りに遭わせることができる。

 硬直して震えるメルリンをよそに、男はまだ息のある娘の髪をつかんで顔を上げさせ、白い喉に刃を突きつけて脅迫した。

 ――放置すればいずれ死ぬ。貴様がこうした窮地を脱する魔術を発明したのは調査済みだ。大いなる悪魔を自由にしかねないがために、恐れ戦いて破棄しようとしたことも。それを作製せよ。家族の御霊を繋ぎとめるのだ、と。

 こうしてメルリンは魔術書を創らされ、賊の乗ってきた魔女の箒で大海を臨む崖に連行されて、そいつが儀式を試行する一部始終を見せつけられたのである。

「家族を実験台にして彼は術の効能を試し、用済みとなったおれを海へ突き落としたのです。ですが、魔術書には細工を施しておきました。製本の間、犯人に見張られていたのでたいしたことはできませんでしたが」
「どうやったのだ?」
 興味深げに裁判官が尋ねた。

「マンドラゴラの隣に置いていた銀貨を仕込んだのです。民話に着想を得た魔術でして、貨幣はなくしても帰ってくるようになる。娘の遊び道具として作ったのですが、それを表紙の月齢の紋章の裏に編み込んでおきました。
 加えて、家を出るときに転んだふりをして、用心のために玄関に制作途上であったゲッシュを応用した結界を仕上げたのです。もっと急いで完成させていれば家族を守護できたのに、おれが未熟であったばかりに……」
 深い嘆きを湛えながら告解したメルリンは、そこでぼそりと付言した。
「ただこうした行動は、予期せぬ事態をも引き起こしましたが」

「どういうことだ」
 不機嫌そうに裁判官が首を捻りつつ問うと、メルリンは返答した。

「魔術書は一時的に陰府を惑わし微少に洩れさせた悪魔の力で怪我や病を治療するだけで、それ以上の効能はないはずでした……」
 メルリンが言い淀むと、待ちきれなくなったように枢機卿が一蹴した。
「よくできた挿話だが、どうでもいいな。我々が聴きたいのは、君ら魔女による悪魔との係わりの実態だ」

 メルリンは、一呼吸おいてから発言した。
「いいでしょう。では、おれを魔女として名指ししてみてください」

 すると枢機卿は青ざめて、隣席の二人に断った。
「わ、我は遠慮しておく。後はお二方に裁判の続行をお任せしたい」

「あれ? なぜ仰らないのですか」
 メルリンがふざけた調子で訝しがる。

「なぜあなた方が、いちいち〝魔女のメルリン〟と回りくどい呼称をするのか。理由は簡単です。そちらの枢機卿の姓もメルリンだからですよ。彼が、おれを魔女として名指しできないわけをお教えしましょう。――怖いのです。一言一句同じでなくとも、類似した台詞を吐くのが」
 屋内の空気が張り詰めていくのは、聴衆も肌でわかるほどだった。
「悪魔との契約においては、たとえば特定の文言を発声するまでを期限として、魂と引き換えに異能を会得したりもします。おれは絶壁から転落した際に頭を打って記憶を失っていましたが、十数年前の事件の折、思い出すことができたのです。彼らが締結した言霊を」

「ほう、なんと?」

「普段ならば絶対に口外することのないものです。〝この我、メルリンこそが魔女である〟と」

 裁判官に訊かれて回答したメルリンに、観客はどっと笑声を浴びせかけた。
「わははははっ。まさかそれを自白だとして、枢機卿を魔女呼ばわりするわけではあるまいな」
 裁判官が嘲笑うと、大司教も苦笑いで同調した。
「ふむ、仰ってみてくれませんかなメルリン枢機卿。もちろん魔女扱いなどしませんから」
 挑むような態度で、裁判官は付け加える。
「では、それで何事もなければ貴様の妄想も終演だな」

「如何いたしますかな、メルリン枢機卿」
 半笑いのまま大司教が上半身を傾けて、枢機卿の顔を覗く。
 魔女のメルリンはそこで異変に気付いた。メルリン枢機卿の唇が、微かに動いていたのである。

「……九つの天に帰れ……偉大なるアルファの命により……」

「なんと仰いました?」
 不吉な囁きは大司教の耳にも届き、彼は思わず問い直した。
「……退去せよ……退去せよ」
 その場にさほど不自然ではない文句に、メルリン枢機卿が声量を大きくする。それが耳に届いた大司教が、釈然としない様子ながらも魔女メルリンに言い渡した。
「聞いたか、枢機卿は下がれと――」

「みんな伏せろ!」
 魔女が警告した刹那だった。

「イョ ザティ ザティ アバティ!」
 宣告しながら悠然と直立したメルリン枢機卿は、袖口から小瓶を取り出し、足元に叩きつけたのだ。

 ガラスの割れる音。
 突風のようなものが、魔女メルリンを襲った。身体が軽々と持ち上げられ、数歩ぶんも後方に吹き飛ばされる。

 〝小瓶の悪魔〟だ。契約によらず悪魔を瓶に捕獲して、解放を条件に使役するという。

 何者かが魔女メルリンの脇を掠め、遠ざかっていく。

 なんとか上体を起こした魔女は、フードが脱げていた。彼は、額に傷のある青年だった。不幸中の幸いか、さっきの衝撃で腕の縛めも解けている。
 魔女メルリンが審問所内を見回すと、彼以外の全員が、血の気の失せた顔で痙攣していた。

「栄光の手か!」

 通常ならば、日没以降でなくては行使できない魔術である。魔女のメルリンは、枢機卿が未だに蠅の王の威を借りていると直感した。

「心配は要りません、じきに解けます」

 被害者たちを励まし、彼は枢機卿を追った。

 朝霧に噎ぶ路地を疾走する破戒僧と、それを追尾する魔女が、静寂の風景に足音を反響させていく。
 壮麗な建築物の羅列を舞台に繰り広げられる、異端者と聖職者の追走劇。天使、聖人、イエス、イエス、マリア……。
 サン・ピエトロ寺院で、サンタンジェロ城で、それらの頂、あるいは建物の内陣から、聖像たちが俯瞰している。

「ザティ アバティ!」

 サンタンジェロ橋の袂に差し掛かったとき、メルリン枢機卿のしゃがれ声が聞こえた。
 ――小瓶の悪魔。
 だがもはや、魔女は焦らなかった。命令の詳細は不明でも、あの呪術で捕獲できるのはせいぜい低級悪魔だ。方法が容易であるが故に、相応な効果しか期待できないのである。

 すかさず魔女のメルリンは首飾りの紐を千切り、アミュレットを正面に投げた。
 瞬時に鉱石は身代わりとなって砕け散り、破片から目を庇うように腕を翳しながら、彼は止まらずに突進する。が、霧散した切片の雨を抜けて顔から腕をどけた途端、目睫に突き出された栄光の手が視野に入った。

 たちまち全身をわななかせ、魔女のメルリンが蹲る。

 術の成功を確信した枢機卿のメルリンは足を止め、口の端を限界まで吊り上げた狼のような笑顔でにじり寄ってきた。
「どうした。英国屈指の魔術師の名が泣くぞ、メルリン。いや、エリファス・ジェシー・ブラウン」

「……そいつは、……おまえから与えられた、……偽りの名だ」
 一流の魔術師だけあってか、金縛りに遭いながらも彼は話せるらしかった。

 魔女メルリンの正体は、まさしくアルフォンスだった。
 故郷での一件のあと、十数年もの歳月をかけた調査で一連の事件の首謀者を突き止め、ようやくここまで漕ぎ着けたのである。それでも当時の姿から老いを感じさせない彼は、不敵に続けた。
「枢機卿よ、偽教皇カドゥルスの残党らしいな。没収した魔術書を研究するうちに、飽くなき欲望に憑依されたか? 今や己の力量を満すことだけに興味があるようだな、メルリン」

「力を求めるのは貴様とて同類のはず。でなければ何ゆえ、魔術師などを志す?」

「あらゆる学問と同じこと。おまえが濁った眼差しで魔術を眺めているだけだろう。他者も同様の視点だなどと決め付けるな」
 枢機卿の侮蔑に反論しつつアルフォンスは面を上げ、威嚇するような目線で相手を射抜いた。

 金縛り状態のはずなのに可能とした動作に、メルリンは油断していたと悟った。
 次の瞬間、魔術師は憮然として立ち上がったのだ。
 枢機卿が逡巡する暇もなく、アルフォンスが皮袋を放る。
 袋が空中で踊り、乳白色の液体が撒き散らされると、栄光の手は光源を失った。おぞましき炎は、ミルクによってのみ消火されるのだ。

 震駭して強張るメルリンをアルフォンスが突き飛ばす。枢機卿の身体は反転し、地面に叩きつけられた。
「……おのれ」メルリンは悔しそうに呻いた。「軟膏を塗っていたのか」

 枢機卿が指摘したように、栄光の手から身を守る薬をアルフォンスは事前に塗布していたのである。彼の体臭はそのためだった。

「さあ、これまでだ。出頭するがいい」
「ごめんだな。くだらぬ裁判に掛けられるなど……」

 凄むアルフォンスに対し、メルリンは拒絶で応じた。
 周囲は、騒動に引き寄せられてきた幾人もの教会関係者たちに取り囲まれつつある。もう、逃げ場がないのだ。

「しかと聞くがいい」
 暗色の建造群から覗く寒空に、大声が高く轟いた。メルリンは膝立ちとなって上空を仰視し、せめてもの抵抗か、最大限の誇りをもって宣言したのだった。

「この我、メルリンこそが魔女である!」

 紅い閃光が瞬いた。
 メルリン枢機卿の身体は燃え上がり、寿命もまた、蝋燭のように揺らめきだしたのだ。
 枢機卿の証明である緋色の衣はまさに火炎となり、瞬時に巨大な火達磨となった。雄叫びを上げる物体と化したそれが、石畳を転げまわる。
 生き物の焼ける臭気を纏い、聖域の一角を照らし尽した頃になって、ようやく火車は停止した。皮肉にも、メルリン枢機卿による裁きで火刑に処せられた、魔女や異端者たちを彷彿とさせる最期だった。

 まもなくしてアルフォンスも苦しげに唸ると、剣を携えた天使像の立つ橋の欄干にもたれ掛かった。人々が驚いて歩み寄り、彼の身体を支える。
 術者の死去によって栄光の手の効能がなくなり、身動きができるようになった裁判官たちも駆けつけてきた。

「……すまなかったな、魔女のメルリン。おまえが正しかったようだ」
 乱れた呼吸の合間を縫って、裁判官が謝罪した。

「魔女狩りの廃止について検討を」アルフォンスが朦朧としながらも懇願する。「もう一度、考慮してみてください。……詳しい説明をする余裕はありませんが、おれの寿命は枢機卿の魔術で維持されていました。彼が死んだことで、命が尽きようとしているのです」

 集結していた人々が、はっと息を呑んだ。

 崖から転落した日、アルフォンスは落命していたのだった。
 アルラウネの魔法で『高き館の王の書』がブラウン家に戻されそうになり、ゲッシュで封鎖された屋敷に入れなくなることを恐れたメルリンは、書が手元を離れる寸前にそれを使用し、アルフォンスを亡骸に反魂させたのである。
 製作者の意図を超越してベルゼブブさえ復活させた魔術書は、やはりアルフォンスが予期していなかった、死者をも蘇らせる効力まで発揮したのだった。彼の老化が止まっていたのも、そのためだったのだ。

 裁判官は、慣れない冗談を交えてアルフォンスを元気づけた。
「枢機卿は魔女狩り推進派の筆頭だった。あの裁判所の建設も中止されるだろう。わたしは暇になってしまうがな」

「……塗油を持ってきてくれ」
 身近にいた聖職者へと、大司教が命じた。小さく笑った魔女の様相に臨終が近いことを察知し、せめて終油の秘跡を授けようというのだ。
「まさか、あのとき東西統一の壮図を発案したメルリン枢機卿が魔女とは。いつまでも老いを感じない人ではあったが、リフカとエリファスが帰還しなかったわけだ」

 哀れみ深い眼差しをアルフォンスに注ぎながら、大司教は嘆いていた。よもや、アルフォンスこそがエリファスであったとは思うまい。当時、東方教会に属していた彼は、西方教会のエリファスとは面識がなかったのだから。
 みなに見守られながらも、アルフォンスは薄れゆく意識の片隅で、望郷の地に想いを馳せていた。

 すでに、あの事変からだいぶ時が流れた。娘は成長して遠方に嫁ぎ、召使も自身の故郷で隠居している。妻は病死したが、眠るように安らかに逝った。
 たとえ術が解けようとも、彼らは健康な状態に癒されただけであって、現在では影響下にないだろう。完全なるこの世ならざる所業によって命脈を保ってきた己だけが、魔力の消失に呼応して人生の幕を閉じるのだ。

 ふと、雲を掻き分けて舞い降りる陽光に、暗い街角が美麗に染めだされた。
 幻惑か神威のなせる光景か、天堂の園で、殉教者の魂と契合せんとする天使の一団が迎えている。
 列の先頭で穏やかな面差しで待っているのは、悠久の愛妻ロレインだった。

 アルフォンスは願っていた。
 いつか祝福されるであろうと信じたい現し世の、未来に伸びる明るき軌跡になりたいものだ、と。
 そして約束の日への追懐を胸に抱きながら、彼は満足げな顔付きで、眠りについたのである。

 ――十数年前。アルフォンスの家をあとにしたリフカは、無人の丘陵の只中で立ち止まった。

 一切の生命が押し黙り、夕焼けの天上は俄に掻き曇って、真夜中の色へと変貌していく。
 魔術書を見詰めていた目が切れ長に吊り上がると、リフカは口が裂けるような笑みで書巻の表面に指を這わせた。
 月の刻印は破れ、ターレル銀貨が拳に握り締められる。間髪を容れずにそれは塵へと変じ、さらさらと零れて大地へ還った。
 そこで彼女は満足げに、大気を震撼させるような声で言ったのだ。

「『高き館の王の書』、このベルゼブブが確かに貰い受けた」

 もはやリフカの瞳は、人ならざる色に輝いていた。

 そこにあった銀貨こそが、書の効力を増大させて死人をも生き返らせ、彼を解放し、且つ、縛めてきた要因でもあった。

 イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダが、報酬として祭司長から受け取った対価である。
 後にユダはこれを悔い、銀貨を神殿に投げ捨て、首を吊って自殺したとされる。もう誰も知らない言い伝えによれば、イエスはこの弟子をも深い慈悲で憐れみ、捨てられた硬貨は聖遺物〝ユダの銀貨〟になったという。
 そうして長い年月のうちに人の手から手に渡り、実態が忘れられ、錬金術師が変成させ、単なる呪物とされた頃に、それとはわからずにアルフォンスが入手したのだった。

 これが偶然にも、魔術書を完全なものとする効果をもたらしたのである。
 イエスに命令されてベルゼブブを捕縛している冥府は、銀貨を通じて流れ込むキリストの威光から、彼に悪魔の解放を要求されたと錯覚するのだった。

 リフカ、否、ベルゼブブは、ゆったりと歩きだした。絶望は彼に付き従い、闇のなかにあってもいっそう濃い巨大な影を、あらゆる災いのように引きずって。
 悪魔の大公の表皮に触れるおよそ一気圧の膜は、不気味な歪曲を具現させた。異質な才能によって、どこか遠いところに飛翔しようとしているのだ。

 そこで唐突に、ベルゼブブは静止した。周辺の不穏な空気も和らいでいく。
 足元に視線を落とした彼は、土を掻き分ける線を跨いだのを察知した。注視すれば、そいつはベルゼブブを覆わんとばかりに半円を描いている。

 悪魔がその意味を解するよりも早く、路肩の茂みから女が飛び出した。手刀で残りの半円を描きベルゼブブを囲むと、勢い余って土煙を上げながら転倒する。
 構成されたのは簡易な魔法円だった。魔術的に、外界と内陣を分かつ境界としての意味がある。

「貴様、まだ生きていたのか」

 忌々しげにベルゼブブが言い放った相手は、彼そっくりな容貌の女性。

 ――即ち本物のリフカだった。

 ただ、人間のほうのカソックやヴェールの脱げた黒髪は血に染まっていた。修道女に成り代わろうとしたベルゼブブに襲撃され、瀕死の重傷を負いながらも辛うじて立っている状態だ。

「ふ、ふふ。してやったりよ、退けサタン!」
 叫んだリフカは、ボトルに満たされた聖水をベルゼブブにぶちまけて、十字架を突きつけた。怪我の痛みに崩れそうになりながらも膝を立ててなんとか体勢を整え、聖母の祈りを唱えだす。

「憑けぬのならばと殺したつもりだったが。そのふざけた性格を真似るのに苦労したというのに、まだ面倒をかけるか。慣れないことを軽々しくすべきではないぞ、尼僧よ」
 ベルゼブブが警告した直後、リフカは砂塵を伴って弾き飛ばされた。
「相手の技量を見誤った策は、あらゆるものの浪費に終わるだけだ。こんなもので我を拘束できるはずがなかろう」

 嘲りながら、ベルゼブブが優雅に両腕を広げた。
 彼を包囲する魔法円から、円柱状の陽炎が立ち上る。寸分の間も置かず、稲光のようなものを渦巻かせながら、それらは粉々に飛散した。
 一歩、悪魔が踏みだす。さらなる一歩で、境界を越えようとする。

「この者の四肢と、首と口を青銅で縛りあげるがよい」
 やにわに投げ掛けられた声が、蠅の王を束縛した。魔法円が、たちまち絶大な効力を取り戻していく。

「……おのれ、勘付いたか!」
 憎悪の形相でベルゼブブが見返った先には、アルフォンスがいた。司祭であった頃に授与された十字架を翳しながら、彼はゆっくりと接近してくる。

「一緒に過ごした時間はそれなりに楽しかったのにな、残念だ。おまえも、怒りや憎しみを撒き散らさずに済む静かな住処に、帰ったほうがいい」
 魔術師は、詠唱を進行させた。
「……冥府よ、主の御言葉を忘れたか。あの方は言われた。〝我が第二の来臨の時まで、その者をしっかりとらえておくがよい〟と」

 魔法円で復活した光線が昇天し、天空の遥か彼方まで貫いた。
 憤怒を滾らせた眼光にアルフォンスを捕捉して、ベルゼブブは『高き館の王の書』をつかんだまま、自らを溶かす光彩にもがいている。

「これで終いではないぞ!」
 蠅の本性が、陰影の移ろう狭間に覗いていた。
「『高き館の王の書』は頂戴しておこう。忘却する人間がいかに愚行を繰り返すか、身をもって学ぶがいい。また、悟るがいい。我らなくとも汚れた足跡を晦冥に葬り、自分たちが消し去った悪しき轍を何度も踏むのが、汝ら人類であるということを! 我が名で誤称されるあの神が、人間たちによって貶められたように! おまえたち魔術師が、偽りの罪業を被せられたように!!」
 断末魔の咆哮を轟かせて、ベルゼブブは魔術書ごと粉砕した。

 ごく短い沈黙のあと、そよ風が吹き、天が晴れ渡ると、平穏な夕暮れが戻りだす。
「歩んでいる限りは進んでいるさ。おれは明るき方角への道筋となってみせるよ、リフカ。いや、ベルゼブブ」
 日常の景観から隔絶された、超自然の片鱗である魔法円を墓標に見立てて、アルフォンスは複雑な心情で、そっと語りかけていた。

「……あなたが、ジェシー・ブラウンかしら」
 息も絶え絶えにリフカが尋ねてきたので、アルフォンスは彼女に駆け寄り、何度も頷いてやった。
「空想と違うわ。どんなおばさんかと思ったら、いい男じゃないの。やっぱり簡単に人は計れないものね。ましてや噂だけじゃ……」
 自嘲にも似た笑みを湛えて、死に際の修道女は瞳を潤ませながら、細腕で縋り付くように頼んだのだった。
「お願い、伝えてほしいの。西方教会のエリファスに。魔女狩りという蛮行に終止符を打ってと」

「ああ、任せてくれ。おれが必ず伝える」
 そうアルフォンスが明言して微笑み掛けると、リフカは安堵に満ちた表情で、息を引き取ったのだった。

 ――魔女狩りがいかにして発生し、いかにして終息に向かったのか。その全容は、未だ判然としていない。

〈完〉


#創作大賞2024
#ミステリー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?