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ニーバーの祈り

ニーバーの祈りをご存知だろうか?

わたしが初めて、この祈りのことばを耳にしたのは、
サウスダコタ州にある、シャイアンリバーリザベーションでのことだった。
そこは、ネイティブアメリカン、ラコタ族の居留区だった。

数々の運命のいたずらとご縁と天の采配のもと、
生まれて初めてその地を訪れたわたしは、
やはり生まれて初めて「スェットロッジセレモニー」と呼ばれる、
子宮回帰、生まれ変わりの儀式に参加した。

その儀式の中で、参加者から出る数々の祈りのひとつに、
このニーバーの祈りがあった。

その祈りはとても印象的で、
高温サウナのようなセレモニー内で、
わたしの朦朧とする意識の中でも、
何か大きなかたまりとして覚えていた。

そして、セレモニーを終えてしばらくのち、
すべてが落ち着きと平常を取り戻したときに、
そのことばを、今一度、聞き直し、書き留めた。

衝撃だった。
そのひとつひとつのことばが。
わたし自身のことを言われているようだった。
そして、それは、そのどれをとってみても、
まだそのときのわたしには、
成し得ていない、大きな課題のように響いた。


O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

             Reinhold Niebuhr

ニーバーの祈り

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー


今日、あることで、またこの祈りを思い出した。

こころの奥底から、
魂の奥底から、
涙にならない、熱い何かが溢れてきた。

これから歩みゆく日々。
個人が、わたしが、どう在るか。
それに尽きるのだと思う。

何かを変えようと思ったり、
変わらないことに憤ったり、
気づかせようとしたり、
もどかしさを感じたり、
自分にも他人にも地団駄を踏んだりするのではなく、

今、わたしの目の前。
そのことにわたしがどう在るか。

それに尽きるだと思う。
それが、わたしがわたしで在ることなのだと思う。

わたしが選び創り楽しむ世界。
魂の奥底がふるえる。




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