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すごいめがねと目に映るもののはなし

15才のときに、コンタクト生活をはじめた。
それから25年、ソフトレンズ→ハードレンズと、
コンタクトレンズありきの、
あたりまえの生活をしてきた。

朝起きると、まずコンタクト入れ、
夜お風呂に入る前にコンタクトを外す。
その日々の繰り返し。

それが、あるときから、
光やその反射が眩しくて眩しくて、
どうにも困った状況になった。
目の疲労も、頭痛もひどかった。

それでも、めがねという選択肢は浮かばなかった。

でも40才を迎えたとき、
ふいに、
もっと自分のこと・からだを、大切に扱わなくては、
と思いはじめた。

そしたら、すごいめがね屋さんの情報がやってきた。

どうやら、人生観すら変わってしまうこともあるらしい、そのめがね。
しかも、
余分な労力や負荷で、うまく使えていなかった脳が、
本来のちからを発揮し、仕事もはかどるらしい。

気になる!!
知りたがりのわたしのリサーチが始まった。
そしたら、なんと、とても身近に、
そのめがねの愛用者が3人もいた!!!

県外のそのめがね屋さんにわざわざ赴いてまで、
そのめがねを愛用しているひとたち。

みんな一様にして、「とてもよい」とのこと。
そのめがね屋さんを選ぶだけの意味があると。

そのめがね屋さんの先代の店主(とよふくさん)がおっしゃったという、
わたしが衝撃を受けたことば。

「生きるってのは、距離感なんですよ。
 身近な人が、自分とどのくらいの距離にいるか。
 世界の中で、ものがどこにあるか。
 周りと、世界との距離感がわかって、
 はじめて人は安心できる。
 喜怒哀楽も距離から生まれる。
 世界と自分の距離感がわからないから、
 情報を得ることばかり集中すると
 ますます遠近感がなくなって辛くなる。不安になる。
 感受性は目とつながっているんですよ。
 コンタクトレンズをずっと使っていると、距離間がわからなくなって、
 無理やりな目と脳の使い方になるから、
 ますますおかしくなる。まともに世界をみられなくなる。」


思い立ったらすぐ行動したくなるわたしは、
とにかく、まずは、コンタクト人生に突然の終止符を打ち、
とりあえず持っていた古いめがねで生活をはじめた。

そしてさらなるリサーチ(アナログに聴き取り調査)。
そうしたら、都内にあるめがね屋さん(ドイツマイスター眼鏡院さん)が、
ドイツのめがね屋さんの資格を持っている方で、
とよふくさんと同様に両眼で検査し(日本は片眼ずつの検査が主流)、
めがねを作ってくれるとのこと。

友人の勧めもあり、ひとまず行ってみた。
場所が近いに越したことはない。
流れに乗るままに、そこでめがねを作ることになった。

とっても個性的な関西人のマスター(?)に圧倒されつつ、
あれこれ検査し、質問され、答え、
「いつもまぶしかったでしょ?」と指摘され、驚き、
牛乳瓶の底のような分厚いガラスレンズの入った検査めがねをかける。
「これでちょっと外を見てきてください」と言われ、
慣れない視界のおぼつかない足取りで、よろりよろりと、店の入口まで歩く。
重いガラスドアを開けて、晴れた外苑前の街路樹をふと見上げてみると。

!!!!!!!!

なんと衝撃的な!!
街路樹の葉っぱが、立体的に見える!
こちらに迫ってくるような、個の主張。
葉っぱの一枚一枚が、微妙に異なる美しい緑色をしている。
生きている。

あぁ......
わたしがこれまで見ていたものは、いったいなんだったのだろう…
わたしは何を見てきたのだろう。

木々の緑は、こんなに生き生きしていたんだ。
葉っぱは一枚一枚、違ったんだ。

わたしは、2次元の世界にいたのかもしれない。
大げさでなくて、そう思った。
すべてが、べたんとしていた。
そのべたんとしたものを、認識していた。
それを認識できていると思っていた。
見えてる、わかった、と思っていた。


めがねができあがってきてからの、
それからのわたしの人生は、
確かに変化した思う。
とにかく、美しい。
すべてが。
目に映るものが。
それだけでも、生きている喜びに溢れ、感謝に溢れる。

もちろん、裸眼でその体験をできることが何よりなのだと思うけれども、
それが叶わなくなったわたしのいまには、
これが最善で、最高の生きるギフトなのだと思う。




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