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今年の初めころだっただろうか。
娘が「教会に行ってみたい」と言い出した。

きっかけは、本の中に出てきた「洗礼式」の様子。

わたし自身、高校生のときにアメリカでホームステイを1年ほどしていたことがあり、
そのときに、数えるほどだが、教会へ足を運んだことがある。

司祭さんから語られる話の内容は、
もちろん全て英語だったし、
理解には程遠かったが、
あたたかで、
参列している人たちの愛に満ち溢れている様子、
静謐な空間はとても好きだった。

しかしながら、
宗教のはなし、となると、
いろいろ考えるところもある。

周りのひとたちに相談し、
でも、娘の発言が一過性のものではない、と
親のわたしは感じることができたので、
学校の学びと所縁のあるところへ
まずは行ってみることにした。

折しも、参加を決めたその日は、
同じ学校に通う少年の「洗礼式」だった。
ほんの15分ほどの、
しかし、厳かで、まっすぐで、あたたかなその空間を
親子で体験することとなった。

なんとも言葉には表現しがたいものを感じて、得て、
会場となっている小さな集会場を後にした。

ガラスの扉を押して外へ出て、
娘の言葉。
目をきっらきらさせて、
少し頰を高揚させて、
満面の笑顔で、
「すっごい楽しかったーーー!」と言った。

わたしは正直、びっくりして目が点になった…。
式の間も前後も、
終始、ゆったり静かな時間の流れで、
初めて目にする光景に、
初めて聞く言葉の数々。(日本語であっても)
緊張していた娘はひと言も発さなかったし、
執り行われている行為のひとつひとつの意味もわからず、ただただ、その空間にいた、
という時間だったから。

「え⁈
 あ…。どの、あたりが…?」
愚問とはわかっていたが、わたしは尋ねてみた。

すると娘は言った。
「あのドアを入った瞬間から、
 ドアを出るまでのぜーーーんぶ!!」

もうため息しかなかった。
娘の中で、
なにかとなにかが、ぱちんと合ったのだ。

水を得た魚、とは、
まさしくこのような状態を言うのだろう。

もうそれは、
親のわたしが理解できるレベルのものではなく、
目に見えて表せられるものでもなく、
「そうである」としか言えないものなのだと思った。

娘との、月に一回、
日曜学校、日曜礼拝という
新しい日常が始まった。
そして、それは確実に、
わたしの学びへとつながることも、
こころのどこかで、確信しているわたしがいた。

日々、自分が見たり感じたりしている
自分が信じているものを
そうである、と確かめられる場所とひと。

誰もがそれを探し求めているのかもしれない。



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