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愛嬌が最強

愛嬌というものについて、よく考える。
愛嬌がある人に出くわすと、惚れ惚れしてしまう。
この人みたいになれたらいいな、と思うことも多々ある。

成功している芸能人には、愛嬌がある人が多い。
例えば、僕の尊敬するお笑い芸人の一人、ハライチ澤部さんは類まれなる愛嬌の持ち主である。
本人も「愛嬌だけでここまで来た」と語っており、娘や息子にも「愛嬌は無敵だよ」と教えているらしい。
澤部さん以外にも、愛嬌のある有名人、そしてそれにまつわるエピソードを挙げていきたいところだが、挙げ始めるとそれだけで10万字を軽く超えて手首が腱鞘炎になりそうなので、それはやらない。

ということで、別のやり方で愛嬌について語っていく。

愛嬌といえば、印象的な一節がある。
僕が敬愛する作家・垣根涼介の名作『ワイルド・ソウル』の中に、こんなシーンが出てくる。

最近になって、ようやく衛藤はわかってきた。
人間、何か窮地に陥ったとき、最後に頼りになるものは、それまでの信用でも実績でもない。人間性がいいとか悪いとかいう問題でもない。
最終的には、その本人から滲み出す愛嬌のようなものに、人は手を差し伸べる。

『ワイルド・ソウル 上』垣根涼介(新潮文庫)

あぁ、わかる。
何回読んでも、唸ってしまう。
これを初めて読んだとき、思わず感嘆し、ついメモってしまった。

愛嬌のようなものに、人は惹かれる。
有事の際に助けたくなるのは、より愛嬌のある人間だ。
愛嬌は、人が生き抜く上で、強力な武器になる。


自分には、愛嬌があるか?
どちらかといえば、ある方だとは思う。
人と会えば明るく挨拶するのが習慣だし、人付き合いも比較的好きだ。

でも、飛び切り愛嬌があるかというと、そういうわけではない。
少なくとも、自然と滲み出る天性の愛嬌のようなものは、持ち合わせていない。

僕の知り合いで何人か、天性の愛嬌の持ち主がいる。
その人がいるだけでみんなが明るくなってしまうような、その人のもとに自然とみんなが集まってしまうような、そんな不思議な人種だ。
そういう人たちの愛嬌は、決して真似できるものではない。

凡人にできることは、せいぜい、感じよく振る舞うことだと思う。
これが、愛嬌人間に少しでも近付くために、最低限できることだ。
感じがワルい、表情や声が暗い、挨拶をしない、なんてのはもってのほかだ。

僕は、仕事上では特に、愛嬌のようなものを振り撒く努力をしている。
自分が苦手な相手にも好かれるように全力を尽くす。
好かれている、あるいは、少なくとも嫌われていない、というのが仕事を進める上で有利に働くからだ。

上述の通り、「愛嬌がある」というのは「感じがイイ」というのと近いものがあるが、それに加えて、「可愛げがある」というのも似たようなものだと思う。

僕が入社3年目の頃の上司は、この可愛げなるものを人一倍大事にしていた。
例えば、取引先からの要請にどう対応するか、僕が2つの回答案をもって相談しに行くと、その上司なら、「こっちの返しの方が“可愛げ”があるよね。だから、こっちにしよう」と答える。
その当時の上司の影響で、僕は仕事上の人間関係の構築において可愛げは欠かせないと考えるようになった。

そんなふうに可愛げや愛嬌を語る僕だが、プライベートでは、それを発揮できていないらしい。

以前、嫁から、「キミは優しい。けど、みんなに優しいわけじゃない」と言われたことがある。
優しさと愛嬌はイコールではないが、この文脈で言う優しさは、感じがイイかどうかという意味で使われているので、ほぼ同義と言っていい。

嫁に言わせれば、僕の優しさは、特定の人だけに向けられているらしい。
それは、大いに自覚がある。
プライベートでは、苦手な人に好かれる努力はしていない。
精神衛生上、よろしくないからだ。
嫌いな人に振り向ける愛嬌なんて、持ち合わせていない。
僕は、人が好きだが、同時に、人を突き放してしまうような冷たい一面も持ち合わせていると思う。
だから、『ワイルド・ソウル』に書かれていたような、全身から滲み出るような愛嬌を僕が手にすることはないだろう。

実は、嫁の言葉には続きがあった。
「キミは優しい。けど、みんなに優しいわけじゃない。でも、そこがイイ

なんだ、「そこがイイ」のか。
じゃあ、いいか。

僕の愛嬌は、人を選ぶ。
みんなには好かれないかもしれないが、それはそれでいい。


おわり

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