Dive;02 登校〈◆古神疾人〉

疾人の初登校話

▼秋日くんをお借りしています


「忘れ物は無い?」
「ないよ」
「ハンカチ持った?」
「うん」
「教科書は?」
「大丈夫」
「何かあったらすぐ連絡するのよ?」
「分かってるよ、もう子供じゃないんだから」
 玄関で靴を履きながら後ろから聞こえてくる心配そうな声に適当に返事を返す。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
 不安げに見送る母の方を振り返り、小さく笑ってから玄関のドアを開けて外へ出る。久しぶりの外の空気に深呼吸すると初夏の草木の匂いがした。
〈Hey Sonic、やっと今日から学校かい?〉
「もうビット、また僕の端末に勝手に入ってきて……」
〈いいじゃねぇか、お前が途中でぶっ倒れないように見張るのもオレの仕事なんだからよ〉
 携帯端末の画面を見ると、表示された意思を持った電子プログラムは偉そうにフンスと鼻を鳴らして腕を組んでいる。
「……まぁ、勝手にすればいいけど、くれぐれも学校の中で僕のことをSonicって呼ばないでよ」
〈Why!? 何でだよ? お前はSonicだろ?〉
現実世界リアルではアバター名で呼ばないんだよ」
〈ふーん……現実世界ってメンドクセーのな〉
「……うん、面倒だよ。色々……」
 学生鞄を持ち直し、通い慣れていない通学路を歩き出す。電脳世界と違って足取りは重く、風のように駆けることのできない両脚で一歩一歩確かめるように目的地へと向かって進む。

 古神疾人こがみ はやと。それが現実世界での彼の名前。電脳世界でソロのバグハンターとして活動している女性型アバターのSonicのリアルボディであり、髪と目の色以外は何もかもが電脳世界とは違っていた。
 何でもない道を歩いても疲れてしまい何度も休憩を取らざるをえない脆弱な体、筋肉も体力も無い、電光のように駆ける脚も持っていない、重力ですら今の自分にとっては煩わしい。疾人にとって生まれ持ったこの体は忌むべきものであった。故に、窮屈で不自由な肉体の檻に閉じ込められた心は電脳世界へと向かった。
 ——あの世界なら好きな自分になれる。どんなに走っても息苦しくも痛くもならない軽い体、羽がついたように走り回れる蹄の脚、縦横無尽に動き回れるしなやかで柔らかい四肢に、痛快なまでにバグを斬り伏せられる強さ。
(ここも電脳世界だったらいいのに……)
 疾人にとってSonicは自分の夢と理想を重ねたアバターだった。
 何度か休憩を経てようやく目的地である校門が見えてくる。周囲は既に多くの生徒達が賑やかに会話しながら歩いている。高校生に進学した疾人にとってこれが初めての登校となる。
「おはよう」
 校門をくぐった時、生徒指導の教師が挨拶をする。対する疾人は——、
「ぁ……え…………お、は…………」
 他者との接触を控えた生活を送ってきた疾人にとって、知らない人間と会話をするどころかまともに挨拶をすることさえ困難なものであった。
「どうした?」
「い、ぃえ…………ぉはょぅ…………ござい、ます…………」
 蚊の鳴くような声で挨拶をすると、そそくさと教師から離れて校舎へと向かった。心臓がどっどっどっと音を立てて暴れている。びっくりした。顔が熱い。苦しくなってきた。
〈Sonic、血圧上がってるぞ。大丈夫か?〉
「だっ、いじょうぶ、だから……静かにして…………」
 腕につけた時計端末から警告音と共にビットの声がした。いつの間に端末から移動してきたんだ。疾人は手首を掴み、時計端末を隠すようにして足を早める。
 校舎へ入ると一年生下駄箱を探した。下駄箱に自分の名前を見つけた時、疾人は少し安心する。自分はこの高校の生徒としてちゃんと存在しているのだと。もっぱら病室でのオンライン授業にしか出ていないので、殆ど学校に来れなかった疾人にとっては自分の足で登校して下駄箱で靴を履き替えるだけでも嬉しいものだった。
「——はぁ、はぁ…………ぅ……」
 一年生の教室がある三階へ向かおうと階段を登ったはいいが、案の定すぐに息が上がってしまい階段脇に蹲ってしまう。通り過ぎる生徒は何事かとこちらに視線を向けるが誰も声をかけてくることはない。いつものことだと疾人は割り切っていたので、手すりに掴まって脚を動かす。一歩、二歩、三歩歩いたところで息苦しさが勝り、胸を押さえてしゃがみ込む。あぁ、嫌だ、こんな体……。皆の視線が怖い、顔を上げられない。
〈ソニ——〉
 疾人の様子に時計端末からビットが何か言おうとした時、上から声が聞こえてくる。
「あの、大丈夫?」
「え……」
「具合悪いの? 保健室すぐそこだけど、立てる?」
 ごく自然に伸ばされた手をじっと見つめ、恐る恐る上を見上げる。黒い髪の男子生徒が心配そうに手を差し出していた。
「い、いい……ですっ、だいじょ、うぶ……っ」
「でも、苦しそうだよ……授業始まるまで時間あるから少し休もう?」
 少年は膝をつくと疾人の腕を自分の肩に回す。
「よっ……と、キミ軽いね……何年生?」
「い、ちねん……です……」
「あ、じゃあボクと同じだ。とりあえず保健室に行こう、顔色悪いみたいだし」
 黒髪の男子生徒に連れられ、疾人は保健室で少し休憩することにした。あの男子生徒は一限目があるので疾人を送り届けたらすぐに保健室を出て行く。初登校日から早くも人の世話になってしまった疾人は、赤の他人に迷惑をかけてしまった罪悪感と思うように動かない自分の体への自己嫌悪に苛まれながらベットへ深々と潜り込んだ。

 ——昼。何とか三限目の授業に出られるまで回復したはいいが、休み時間や昼休みの教室の喧騒に少し疲労を感じた疾人は一人屋上で昼食を食べていた。クラスメイト達はモニター越しのアバターでなく初めて見る疾人にチラチラと興味を示したような視線を向けるが、誰も話しかけてくることはない。いつものことだ。疾人にとってはそんな期待は既に諦めに変わっていたので、特に傷つくことはなかった。
 巾着に入った弁当を取り出し、そっと蓋を開けた。母が張り切って弁当を作っていたのが伝わってくる、疾人の好物が沢山入っていた。
〈Sonicの弁当、栄養バランスいいじゃねぇか〜。お袋さん、お前の弁当作れるのが嬉しかったんだな!〉
「でも作り過ぎだよ母さん……食べ切れるかなぁ……」
〈あーぁ、オレが現実世界に行けたら手伝ってやれるのに〉
「ビットはAIだからどの道食べられないよ」
〈チェッ、Sonicは情緒ってのが分かってないゼ。こーゆーのは一緒に食うからいいんだよ〉
 時計端末越しに疾人の弁当をスキャンしたビットが電光文字の口を尖らせて拗ねる。
「それよりビット、僕のこと学校ではSonicって呼ばないでって言ったじゃないか……もし誰かに聞かれたらどうするんだよ……」
〈Why? SonicはSonicだろ? なんで正体隠すワケ?〉
「…………僕がSonicだったら、なんだか……がっかりするじゃん……」
 電脳世界では性別も動きも何もかも違う。それまで電脳世界でのスピード競技に多く参加していた為にその辺では少しだけ名の通ったアバターだったが、バグハントを始めてからはそれ以外でも着実に名が広がってきている。
 ソロでバグと戦うハンター。無口で誰とも群れることのない孤高のアバター。電光のように駆け、颯爽とバグを狩る者。見てくれだけはかっこいいアバターだといいなという希望がある。しかし本当は、口下手で友達の少ない人間であることを言い出せないだけの臆病者だ。もし現実の自分を知られたら、幻滅されるに決まっている。疾人はそう信じて疑わなかった。彼には自分に対して劣等感しかない。
 少しずつ、だが着実に有名になっていく感覚がこそばゆくてなるべく他のアバターがいないエリアを選んでバグハントをするようにはなったが、無数に存在するアバターの中でもしSonicのことを知る者が近くにいたら……もしそれが病弱で入退院を繰り返すひ弱な少年だと知られてしまったら……。
(あぁ嫌だ……考えたくもない)
 人の視線が怖い。人と話すのが怖い。人から期待されたり幻滅されたりするのが怖い。こんな自分は嫌だとずっと思い続けているのに変えられる努力もしない。できないと思っている。自分の殻に篭ればとりあえずは傷つくことはない。だからSonicというアバターも古神疾人という人間も、本当の意味で気を許せるような友人は誰一人としていない。

「……あ、キミ」
「え……?」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、朝に見た顔がそこにいた。
「キミもここで食べるの?」
「あっ……えっと……」
「あ、違うんだ! 退いてほしいって意味で聞いたんじゃないんだよ、キミもこの場所が好きなのかなって思って……」
「……は、はい……」
 屋上が好きかと聞かれたのでよく考えずに頷いたが、実はそんなに好きでもない。静かな場所を探してやって来たのがたまたまこの場所であっただけで、別に特別好きという訳でもなく。そんなことも疾人は言えず、ただ頷いただけであった。
「そっかぁ。ボクもこの場所が好きなんだ。風の音とか鳥の声とかよく聞こえるし、色んな音がここに届くんだ」
 男子生徒は「隣、いい?」と疾人に尋ねる。対する疾人は内心慌てて連続で頷き、男子生徒がすぐ隣に座るのを目を丸くして見ていた。
「わぁ、美味しそうだね!」
「あ……でも、沢山だから……ちょっと、食べ切れなくて……」
「そうなの? じゃあ少し貰ってもいい? 弁当家に忘れてきちゃってさ、購買でこれしか買えなかったんだ」
 男子生徒が手に持っていた焼きそばパンを見せると、疾人は「ど、どうぞ……」と弁当箱を差し出した。
「ありがとう! キミ、優しいんだね」
「う、いや……そんなこと……」
 ——そんなことない。ただどうしたらいいのか分からないだけ。疾人の気持ちを知ってかしらずか、男子生徒は弁当の卵焼きを摘んで口に入れると「おいひい!」と笑う。
「キミも食べなよ、キミの弁当なんだから」
「う、は、はい……」
 そう言われて疾人も弁当のご飯を少しずつ口に運んだ。同年代の子と会話をする経験が少ない疾人のしどろもどろな対応でも彼は嫌な顔一つせずに聞いてくれ、疾人が答えやすいように尋ねたり促したりしてくれる。
 ——この人の方が優しいんだ。自分の中の緊張感が幾分か和らぐのを感じ、疾人は水筒の麦茶を少し飲んだ。
「そうだ、まだ自己紹介していなかったね。ボクは泉谷秋日、キミは?」
「ぁ……はや、と……古神、疾人…………」
「古神くんか。もしかしてうちのクラスの一番端の席かな? ずっとモニターでオンライン授業受けてるの」
「は、い……今日、初めて……登校して……」
「そっかぁ、外泊許可が降りたから学校に来てみたかったんだね」
 秋日の言葉に疾人はこくこくと頷く。
「ずっとネットのアバターしか見たことなかったからどんな子なんだろうって思ってたけど、会えて嬉しいよ」
「ご、ごめんなさい……もっと、体が丈夫だったら……いいんだけど……」
「謝ることないよ。キミは頑張って自分の脚で学校まで来たじゃないか、本当は送り迎えしてもらってもいいと思うのに」
「……両親、忙しくて……迷惑、かけられないから……」
 けれどもこうして秋日の世話になってしまった。そう思うとますます胸が苦しくなる。誰にも迷惑をかけずに生きられたらよかったのに。そう思っていると、秋日は柔らかい笑みを浮かべている。
「古神くんは優しいね。両親のこともちゃんと考えていて」
「ううん……そんなこと、ない、です……」
 本当は言い出せないだけ。負い目を感じているだけ。理由をつけて卑屈な自分を守っているだけ。優しいのは泉谷さんの方だよ。そう言いたいのに疾人の口はもごもごと言葉を紡げずにいる。それでも秋日は怒ることなく疾人に話しかけ続ける。
「古神くん、遠慮しなくてもいいんだよ。遠慮しないでって言われても難しいかもしれないけど、ボクはキミと話して、キミと仲良くなりたいなって感じたよ」
「え……」
「駄目……かな? ちょっと性急過ぎたかもね、あはは」
 ごめんね、と秋日が口にした時、疾人は胸の内が別の苦しさに襲われるのを感じた。違う、違うんだ、謝らないで。思わず立ち上がりそうな勢いで秋日の方へ向くが、急に動いたせいで息が乱れる。
「ちっ、ちが……ぁ、うっ!」
「古神くん!?」
 前のめりに倒れかけると丁度そこには秋日がいて、疾人をしっかり受け止める。
「大丈夫かい古神くん!」
「はぁっ……はぁ…………あ、あの……あの……あのあの……っ」
 口できない自分が嫌だった。ビットのように思ったことを口にできない自分が嫌だった。何より嫌だったのは、自分なんかと仲良くなりたいと言ってくれた秋日に謝罪の言葉を言わせてしまったことだ。
 息を乱し、胸を押さえ、涙で視界が滲む中、疾人の目はしっかりと秋日を捉えていた。
「…………あ、り、がと……う……」
 これが精一杯。僕の精一杯の気持ち。今はこれだけしか言えないけれど、ありがとう泉谷さん。僕を心配してくれて、大丈夫って尋ねてくれて、仲良くなりたいって言ってくれて……。もっと言えるようになるから……沢山、喋れるようになるから、また僕と話してほしいな……。
 ——ありがとう。
 この間、ビットの身体面への警告アラームは一度も鳴らなかった。

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