胸中残火

アルカナ地方の交流です


「でぇぇぇやぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああッ!!!!!!!!!」
 星願祭が行われているシリスの一角で、女の勇ましい掛け声が響く。同時に人混みの中から成人男性がぶわりと宙へ浮かび、激しく石畳の上に叩きつけられた。
「貴様ァッ、私の財布を返せェッ!!!!!」
「あええ、アカリさま……そのくらいにしておいた方が…」
 強かに背中を打って意識を朦朧とさせる男の横面を引っ叩き、椿柄の浴衣を着た女が鬼の形相で怒鳴りつけるのを、横から青いキマワリ柄の浴衣を着た連れの少女が慌てて彼女を宥めようと声をかけている。その様子を周囲の人間は喧嘩かと思い、見物人の小さな群れができる。
「駄目だ。人の財布を盗む人間にはこれでも足りん。しかもこともあろうに私の財布だ!」
「ほら、人の目もありますから…! ちょっと移動しましょう…!」
「………仕方ない」
 縄張りに入られたゴリランダーさながら荒々しく男の胸倉を掴んで怒鳴りつけていた女…アカリも、連れの少女の言葉を聞くとすぐに怒りを鎮めていく。意外にも主導権は無垢な少女の方にあるようだ。ほら、行くぞとアカリが乱暴に男の腕を捻るように掴んで移動しようとした時、近くで低い男の声が聞こえてくる。
「お前ら、道の真ん中で喧嘩は……って何してんだよ、ルーキー。教官にバレたら厳罰だぞ」
 黒シャツに警備員の装備と腕章を付けた体格の良い褐色の肌の男が呆れたようにやって来た。
「マーク殿、丁度良いところに」
 アカリは安心したようにずいと男をマークと呼んだ褐色の男の前に突き出す。
「私の財布をスリましたので、捕らえました」
「そうだったのか……ご苦労さん『タチモリ巡査殿』。休暇中なのに災難だったな」
「警察官として当然のことをしたまでです。それに、財布が無いとスミレに何も買ってあげられないので」
 人だかりができる前に近くの神社へと移動してから男をマークに引き渡し、取り返した財布の中身を確認しながらアカリは言った。
「スミレ……って、例の薬物事件の―――」
「マーク殿」
 冷ややかに先輩警察官の名を呼ぶアカリの目は険しい。
 それはスミレの父親が薬物使用を始め、様々な犯罪を犯して生涯刑務所から出ることができない上に、実の娘である彼女に性的行為を迫るような異常犯罪者として世間に広く知られしまっていることが原因であるからだ。間接的とはいえ事件の一端に関わったアカリが、誰よりも大切にしている元後輩の前でその話は絶対禁句。大型のポケモンすら威圧するような鋭い眼光で、自分より体格の大きいマークを閉口させる。マークはバツが悪そうな顔の後、アカリの後ろで少し気恥ずかしげに隠れてこちらを見ているスミレに向かって人懐っこい笑みを浮かべた。自身の顔にある大きな十字傷のせいで周囲に怖がられるので常に明るく笑顔でいようとするマークなりの心掛けだ。
「悪ぃ、ゴメンなお嬢ちゃん」
「はい? 祭囃子の音でよく聞こえなかったので…」
「いや、聞いてなきゃそれでいいんだ」
「?」
 一人だけ事情が分からず首を傾げるスミレの頭を撫でて、アカリは穏やかに笑う。
「この人はマーク・バーヒル巡査部長。時々私達の教場……教室に来て、逮捕術や拳銃訓練を見てくれる刑事だ」
「こんばんは……刑事さん」
「おう、こんばんは。刑事って知ってるか? ドラマとかによくいる渋いおっさんが事件を解決するような感じのアレだぜ」
 指を銃に見立てて構えて見せるマークの言葉にスミレの目がきらりと輝く。恐らく「渋いおっさん」の部分に反応しただけだろうとアカリは思った。
「マークさま、刑事の方達は渋いおじさまは沢山いますか?」
「スミレ……」
「ああ、いるぜ。怖い顔したおじさん達が沢山いるから、悪いことすんじゃねぇぞ?」
「あぅ……悪いことをしないと、会えないんですか?」
「え?」
「あー、ちょっと年上の殿方が好きなのです。あまり気にしないでください」
 スミレの質問に少しだけ固まるマークに慌てて簡単に説明するアカリ。
「まぁ、と言う訳で、マーク殿に窃盗犯を引き渡せたから気を取り直して祭りを散策できるな」
「え、そのままで行くのか?」
「何か問題でも?」
「だってそれ―――、」
 丁度やって来た同業の警備員にスリの男を任せたマークがアカリの足元を指さす。つられてスミレと一緒に視線を落とすと、鮮やかな緋色に染まった草履の鼻緒が。
「見事に切れてんな、ソレ」
「―――道理で歩きにくいと…」
「気づいてなかったのかよ…」
「財布を取り返すので頭がいっぱいでしたので…」
 足を引きずりながら歩くのが不格好だと思ったのか、アカリは躊躇なく草履を脱いで裸足になる。
「アカリさま、足が汚れちゃいますし危ないですよっ」
「構わない、どうせ最後に汚れを洗い落とせばいいじゃないか」
「ダメです! 足元の石を踏んづけたりしたら怪我をします!」
 珍しく引き下がらず、ぐいぐいと手を引くスミレを見てアカリは驚いたように目を見開いた。以前なら意見はしても押し自体は強くなかったのに、いつの間に強く言えるようになったのだろう。自分がいなくても着実にバトルランドで成長している後輩の様子を見て、つい笑みが零れてしまった。
「むー! 何で笑っちゃうんですかー!」
「ふふ、いや、そんな風に押しの強いスミレは初めてだと思って」
「アカリさま、目を離すとすぐどこかで傷を作ってしまいますから……裸足は、ダメです…」
 唇を尖らせ、俯くスミレ。自分を心配しての発言なのだと気づいたアカリは同じ目線になるようにしゃがみ、餅のように柔らかいスミレの頬を両手で包む。むにむにと揉むように触れればスミレはくすぐったそうに下を向き、白い小さな手が世辞にも綺麗とは言えない硬い皮膚に覆われた手をぺちぺちと叩いてきた。
「あい分かった、お前の言う通りにする。まずは草履を直しに行こうか」
「っ、はい!」
 提案を受け入れてくれたとスミレの顔色がぱぁっと明るくなる。そうと決まればまずは草履を直してくれるところを探さねば。
「マーク殿。この辺りに草履の修理を引き受けてくれる店を知りませんか?」
「あー、あるな。そういや。俺の同期の弟が確かそんな店やってた気がする」
 案内するぜ、とマークが親指で出店の方を指しながら申し出る。
「ありがとうございます、マークさま! さ、行きましょうアカリさまっ」
「こらスミレ、そんなに慌てなくても店は逃げたりしないぞ」
 歩き出すマークを追いかけようと、スミレがアカリの手を取って小走りで駆け出す。いつも以上にはしゃぐ彼女にやんわり注意してから少し伸びた深緑の髪を見つめ、アカリは二人と共に多くの出店で賑わう大通りへもう一度繰り出した。

「あったあった、ここだわ」
 案外それは早くに見つかった。簡素に建てられたテントにシンプルなショーケースが特徴的なよくある露店だ。ケースの中には、天然石や綺麗なビーズで作られた色とりどりのアクセサリーが暖色のライトに照らされキラキラと輝いている。光物に普段は興味が無いのだが、祭りの雰囲気故かアカリとスミレは感嘆の声を漏らしてそれらを眺めていた。
「おーい、フブキー。いるか?」
店に近づき、マークが店員らしき派手な装いの青年に声をかける。桜色の髪を結い上げ、ピアスを沢山付けたやんちゃそうな風貌はバトルランドでエリアリーダーを務める師にどことなく似ている。
「あ、マークさん。巡回お疲れ様っス」
「客、連れてきたわ。鼻緒切れちまったって」
「うす、隣のスペースでリペアやってるんでどうぞ。俺は今店番中なんで」
 フブキと呼ばれた青年が「しろへびさーん! リペア一件!」と大声で呼ぶ。
「しろへびさん?」
 スミレとアカリが首を傾げる。同時に考えているのは文字通りの白い蛇が蜷局を巻いている場面。フブキが顔を向けた方向を二人で見る。オーダーの呼びかけに先程まで作業台に向かっていた人物がおもむろに振り返った。青いタオルを頭に巻き、長い白髪を高い位置でまとめたその青年の顔に見覚えのあった二人は同時に「あっ」と声を上げる。
「ジル―――」
「しろいおにいさま!」
「ぁえ? オマ……キミ達だったか」
 アカリよりも大きな声で青年を呼んだスミレが、呼び止める間もなく嬉しそうに彼の元へと駆けていく。「何だ、お前ら知り合いだったのか」とマークは笑いながら言い、ぽんとアカリの肩を叩いた。
「じゃあな、俺は巡回が残ってるからもう行くぜ」
「ありがとうございました、マーク殿」
「あ、待ってくださいマークさん」
 店から離れようとしたマークを慌ててフブキが呼び止める。
「あの、うちのチエリを見かけたら連絡欲しいんスけど…」
「は? チエリちゃん迷子なの?」
「まぁ、よくあることなんスけど、人見知り激しいから何かあったらやべーと思って…。本人的には自分は迷子じゃないと思ってるだろうし、多分臨時の迷子センターには行ってないかもしんないッスわ」
「はー……お前らんトコっていつも大事件だな」
「ちょ、からかわないでくださいよ。これでも真剣なんスよ」
「悪ぃ悪ぃ、見かけたら電話するからよ。シダレには言ったのか?」
「いや、まだっス…」
「言ったら血相変えそうだな……分かった、その辺の巡回ルートを探してみるわ」
「うす、お願いします」
 そう言ってマークはボールからワンパチのアレックスを出し、フブキ達に片手を振って人混みの中へと消えて行った。
「貴殿のところのご兄弟が迷子なのか…?」
 マークが去った後、アカリがフブキに尋ねる。
「ああ。妹だよ。丁度アンタんとこの妹みたいな年頃の」
「妹…? ああスミレのことか…」
 どうやら彼には自分達が姉妹か何かだと思っているらしい。しかしこちらの事情は複雑なので会ったばかりの人間に一から説明する訳にもいかない。この中で事情を知っているのは自分ともう一人―――。
「スミレ嬢、元気そうで何よりだ」
「しろいおにいさまもお元気そうで嬉しいです! 花祭の時にお友達になったヌメラ……たちつぼもとっても元気にしてますよ! お昼寝が大好きなんです!」
「……そうか。大切にしてくれているようでワタクシも嬉しい」
 以前、刑務所から脱獄した実の父親から暴行を受けそうになったスミレを己の身を顧みず救ってくれたあの青年も大体の事の顛末を知っている。名をジルニというのだが、彼は未だスミレに本名を告げていないので幼い彼女は「しろいおにいさま」と呼んで慕っている。本名を告げていない理由は個人的な理由があるのだが、それもまた複雑で。またこうして会えるとは全く予想していなかったアカリも非常に驚いていた。
「貴殿の所の妹君、早く見つかるといいな…」
「姉貴達やマークさん達も探してくれてるから、きっと大丈夫だ。ウチの妹、結構人には恵まれるタイプだから。さぁ、アンタはそこに用意した椅子に掛けてくれ。後はしろへびさんに用件言って草履渡せばいいから」
「あの、フブキ殿。しろへびさんとは彼のあだ名か?」
「ん? ポケったーの垢名。ちなみに俺は春雪ってやつ」
「ぽ、ぽけったー? あかめい?」
「知らないのか? スマホのSNSだよ」
「えすえぬえす……スマホはこの間初めて買ったばかりだから全く分からん…」
「へぇ、珍しいな。その年代で…。もしポケったー始めたならどうぞごひいきに」
 フブキはそう言って会計の脇に置いていたフリーペーパーをアカリに渡す。内容はよく分からないが、どうやらこの店はハンドメイドアクセサリーを売り、更に今回限定で壊れた物を直してくれる修理業もしているらしい。難しい単語にアカリは眉間に皺を寄せたが、後でスミレに聞いてみようと思って懐にペーパーをしまった。ネットワーク関連なら自分より彼女の方が詳しい。とりあえずはフブキの言う通りに、草履を持ってジルニの元へと向かう。

「あの、」
 嬉しそうにしながらもはにかみながらジルニと話すスミレの隣に行き、話の区切りに入ったところで控え目に話しかけると彼の細めた目が僅かに開く。視線が手に持つ鼻緒の切れた草履に向けられた。
「アカリ嬢、その草履を直せばいいのか?」
「ああ、よろしく頼む」
 スッとジルニの手が伸びてくる。渡せということらしい。大人しく草履を渡すと、彼は無言のまま親指を後ろの椅子に向けた。
「………いや、何か言ってくれ。指をさされただけでは分からん」
「今のワタクシは寡黙だが仕事はきっちりこなす系の店主―――」
「意味不明なことを言うな」
「アッ、ハイ。そこで座って待っていてくれ」
「最初からそう言えばいいのに…」
 呆れながら後ろに並んだ椅子に静かに腰掛けるアカリ。きちんと足を揃え、膝の上に手を置く。
「スミレ、『おにいさま』は仕事中だからこっちへ来るんだ」
「はーい。お仕事頑張ってくださいね、しろいおにいさま!」
「任せろ。ワタクシに直せないものは殆どないからな」
 スミレの激励にジルニは爽やかな表情で返すと、作業台へと向かった。
「アカリさまアカリさまっ、しろいおにいさまにまた会えました…!」
 ジルニの邪魔をしないように小声ながらも興奮を隠しきれない様子のスミレは、アカリの隣に座って足をプラプラさせて言う。
「そうだな、良かったなスミレ」
「はい…っ」
 その様子はまさに感無量。無理もない、スミレにとってはピンチを救ってくれた憧れの王子様でありヒーローと言っても過言ではないのだ。住所も名前も知らないヒーローに再び会えて話をすることは彼女の中では奇跡に近いものを感じているのだろう。
「あ、そうだスミレ」
 アカリは持ってきた巾着の中からモンスターボールを取り出してスイッチを押す。中から現れたラビフットのシャクがようやく外に出られた解放感でストレッチを始めた。
「シャクと一緒に店内を回ってきていいぞ。この店、おにいさま達が作ったアクセサリーを売っているそうだ。作業を見ているのも退屈だろう?」
「い、いえ、私は平気です…!」
「シャクもさっきからボールを揺らしてまで出たがっていたんだ。少しだけでも、な?」
「う……そこまで、言うなら、ちょっとだけ…」
 背を向けるジルニとシャクとアカリを見てから、スミレは少し悩むように唸って承諾してくれる。
「何か欲しいものがあったら遠慮なく言っていいんだぞ」
「でも…」
「今日はお前の我儘をうんと叶えるために帰ってきたんだ、遠慮したらほっぺむにむにするからな」
「あぇ……はい…っ」
 思わず自分の両頬を触りながら、スミレは袖を引っ張って急かすシャクと一緒にフブキのいるショーケースへ向かう。少し強引な理由だったかと反省するアカリに、作業で背を向けていたジルニが振り返らずに声をかけてくる。
「恩にキルリア、アカリ嬢。ワタクシの名前をスミレ嬢に言っていなくて」
「それを言うなら恩に着るでは…? 言っただろう、約定は果たすと。しかし、貴殿も子供の前では役者だな」
 実を言うと先程うっかりバラしかけたのだが、これは言わないでおこうと思って別の話題へと切り替えた。
「役者じゃなく擬態だ。人畜無害な一般人の擬態は社会的に必要だからな」
「擬態か…」
 だが、この擬態はいつまでスミレの前で持つだろうか。花祭で見た衝撃的な光景が蘇る。あんなにベタベタと懐かれているんだ、きっと今日も連れてきている筈…。そわそわと辺りを見回すのを気配で感じ取ったのか、ジルニは付け加えるように言った。
「安心しろ、ロヴァージュはボールの中で休んでいる。稀にバトルを挑む者もいるから、今は休憩しているのだ」
「いや、別に私はジュラルドンが苦手な訳では……ないぞ…」
 こればっかりは自信が無い。未だにジュラルドンを見ると一瞬だけ身構えてしまうのは事実である。
「むしろ、あの光景を見てよくドン引きしなかったなオマエ」
「バトルランドには色んなトレーナーが来ていたからな。ある程度は慣れている……しかし、あれは…どちらかと言うと………」
 言いかけて、言葉が見つからずに口ごもる。次第に顔が熱くなるのを感じた。何を思い出しているんだ自分は。ポケモンがまるで恋人同士のように人に戯れついて見えたなどと、口が裂けても言えない。他の表現が見つからず答えあぐねていると、ジルニが怪訝そうな顔で振り返ってアカリの顔を見る。所々照明で暗いが、ぼんやりと顔が赤くなっていたのは分かったらしい。
「おいアカリ嬢、何故赤面する? もしやそういうのに耐性の無いむっ―――」
「むっつりじゃない。殴るぞ」
「いや自分から墓穴掘ってね????」
「いいから…っ、作業に戻れっ…!」
「ふっ、あくしろよってか。というか、これ挿げ替えしないと無理だぞ?」
「分かっている。新しい鼻緒はあるのか?」
「なるべく色が近いのを選ぶ。もう暗いから目立たない筈だ。その代わり少し値は張るぞ」
「手持ちは多めに持ってきた。直せんものは殆ど無いのだろう? ならば、値段に恥じない腕前を見せてもらおうか」
 さっきの仕返しと言わんばかりに挑発的にアカリが言うと、ジルニの目が吊り上がった。
「ほぅ、ワタクシの性能を試すか? ワタクシの技術力は53万…」
「訳の分からんことを言うな、早くしろ」
「分かったから圧かけるなオマエ。コレ意外と繊細な作業なんだからな」

 それから互いは口を利かず黙々と作業に打ち込み、それを静かに見つめて待っていた。ジュラルドンの色合いをした髪が時々揺れるのを眺めていたアカリはふと思い出す。実家にいた頃、よくこうして後ろから父親が紙に文字を書き綴っていた後ろ姿をじっと眺めていた。何故、今になってそれを思い出したのかは分からない。記憶の中の父親とジルニの背中は広さも大きさも骨格からして全く違う。自分の周囲にいる男性の大半が大柄で体格が恵まれてい者ばかりだったのもあってか、彼の後ろ姿が女の自分から見ても綺麗で、しかし男にしては細く頼りなさげに見えた。
 だが、そんな身体で彼はスミレを守ってくれた。武器を持った相手に殺されるかもしれないのに、恐怖をものともしない屈強な精神に敬意を示した。
 なのに会う度、次第にこの男は臆病な人間なのではないかという疑念を抱きつつもあった。巧妙に被った化けの皮が剥がれていくように。人を、社会を遠ざけるような言葉で自分の身を守っているように見えた。
 あの時自分が言った「卑下するな」や「感謝していることを忘れないで」という言葉を、目の前で唸っている男はどう捉えたのだろう。重荷に感じ取っていないだろうか、迷惑に思っていないだろうか。
 記憶の中に深紅の花が見える。あの花はあの後どうなったのだろう。
「あの…」
 言いかけて口を噤む。ジルニは作業に集中していてアカリの小さな声に気づいていない。それで良いと思った。この質問はまた彼の心に負荷をかけるのでは、と瞬時に不安が過ったからだ。どうせ短く儚い命の中でしか咲けない、あれはそういうものだからこそ美しいと感じる命だ。花祭から月日が経った今ではとうに首も落ち切っている。それでいいのだ。長く形には残らずとも、自分の胸の奥には確かに感謝の気持ちが残っているだけで充分だと。じわりと胸が締め付けられるように痛んだ。
「ジルニ殿…?」
 気づくと、唸り声が大きくなってきたような感覚がする。思考の海から戻って顔を上げると、丸まった背中を更に小さくしているジルニがいた。小刻みに貧乏ゆすりをしたり酷く前屈みになったりと、落ち着きがない。そっと椅子から立ち上がる。邪魔をしてはいけないと無意識に音を立てずに近づく。全く気付かれる様子が無い。作業台を覗き込むと、鼻緒の挿げ替えは進んでいるのだが作業者であるジルニの顔が真っ青だった。ただ事ではないと気づく。
「ジルニ殿…!」
「え、」
 声を抑えながら尋ねると、ジルニはようやくアカリの声を認識したようでぼんやりとした顔でこちらを見た。
「…何でもない。作業が終わるまで椅子に―――」
「青ざめた顔で馬鹿なことを…!」
 やや力を込めて背中をさするとびくりと背中が跳ねた。
「やめろ、構うな…!」
「少し黙れ、大人しくしていろ」
 ジルニの制止を無視してしばらく背中をさする。
「不調ならば無理しなくてもいい。プロは己の体調管理も万全にしてこそだぞ。戻すなら袋とか要るか? それとも腹が減っているのか? 喉は乾いてないか? 何か口に入れるか? 近くで見ると貴殿は細いな、ちゃんと食べているのか? 睡眠もしっかりとっているのか?」
「ええい、オマエはワタクシの母親か!?」
「そんなデカい息子はいない! 私を何歳だと思っているんだ!?」
「知らん! ワタクシは作業に戻るぞ!」
 その言葉にアカリは背中をさするのを止めると、椅子を一つ持ってきてジルニの横にドンと置いて座る。
「オイオイオイ、勝手に移動するなし」
「また具合が悪くなったらマズいだろう。この仕事が終わるまで見ているぞ」
「いらんてマジで。真横にいられると集中できんだろ」
「なら早く確実に終わらせてくれ。それとも今から休憩するか?」
 腕を組んでどっかり居座るアカリは梃でも動きそうにない。ジルニは溜め息交じりに諦めて作業台へと向かう。
「………本当は、落ち着くまでずっと背中をさすっていたいが、手元が狂うと危ない」
「…何故、そんなに世話を焼こうとする……?」
「…スミレをずっと見てきたから。放っておけないんだ……そういう顔をされると。貴殿にとってはお節介かと思われそうだが」
「………ワタクシが、そう見えたのか?」
 アカリは何も答えなかった。ジルニが横を見ると、彼女はじっと作業の様子を見つめている。
 答えなかったのではなく、答えられなかった。何故背中をさすったのか、アカリ自身もよく分かっていなかった。ただ、ジルニが苦しんでいる様子を見ていられなかった。先の行動など何も考えていない。体が自然と動いてしまっていた。
 今まで感じたことのないようなざわつき、散り残った火がいつまでもいつまでも燻り続けているような疼きに酷く違和感を覚え、戸惑いにも似た焦燥に不安を胸に覚えながら手を当てる。これを語源化するにも適切な単語が見つからない。
 これは一体何だ。不安で、苦しくて、痛くて、怖くて、熱い。じわりじわりと侵食してくるそれにぼんやりと思考が鈍りそうになる。思考は鈍るのに妙に緊張して手のひらにじっとりと汗をかいた。こんな手では背中をもうさすれない。気づかれないようにちらちらとジルニの顔色を盗み見て、これ以上彼の容体が悪くならないことを祈りながら作業が終わるのを待つことしかできない自分に、何故だか少しだけ腹が立つ。
 心配だった。自分が警察官だからではない。これは大切な存在を守ってくれた英雄に感謝し、羨望し、少しだけ憧れている自分の本心が、彼の身を案じていた。
「……なぁ、頼む。貴殿も約束してくれ。苦しいのなら、辛いのなら、声を上げてくれ。頼ってくれ。私でなくても、他の信頼できる仲間でも、いいから…」
 力になりたい。救けたい。聞こえるかどうかも分からない消え入るような声で、アカリは行き場の無い不可解な感情を拳に込めるように強く握り締めた。

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