愛しき日〈◇クゥラ〉

告白の日に出したかったクゥイーの話。
※人の死や戦争の描写があります


 無機質な部屋の中でぼんやりと窓の外を眺めている。設置された簡易テントを除けば乾燥した大地の向こうには瓦礫と化した廃墟同然の町が見えた。窓を閉め切っているせいか部屋の中は消毒液や薬剤の臭いしかなく、外の埃っぽい臭いや砂煙は一切入ってこない。
 こんこんと、不意に後ろの扉からノックの音が聞こえた。ぼんやりとしたまま声だけは厳格そのもので「入れ」と告げると、気弱そうな「……失礼します」という声と共にドアが開く音がする。
「少佐、お加減はいかがですか……?」
「……良いように見えるか?」
 苛立ちを隠さない言葉を飛ばすと、小さく息を呑む音が聞こえた。振り返れば我が愛しの恋人が怯えたウールーのように縮こまって立ったまま一歩も踏み出さずにいる姿があって、腕に抱かれたヤブクロンは「行かないのか」と言いたげに親を見上げている。
「あの、」
「『入れ』と言ったのが聞こえなかったのか? いつまでもそこに突っ立ってるんじゃない」
「は、はい……っ」
 本当、何故こんなひ弱な男を恋人に迎え入れたのか未だに理解できないところがある。しかし、自分自身この男に惹かれてしまっているのは疑いようのない事実で、そこは素直に肯定している。
「何の用だ」
「お見舞い、です」
「見舞い……か」
 よく見えるように顔を向けてやると、不安げに緑色の瞳が揺らいだ。
「見ての通り、ますます醜くなった」
 吐き捨てるように言う。顔の半分は焼け爛れた皮膚を覆い隠す包帯、入院着から覗く手脚も全てが白い包帯にに覆われていて露出している肌は無い。まるでミイラにでもなった気分だ。死体。そう、形があるだけまだマシな死体だ。
「もうここには来るな」
「何故ですか……」
「迷惑だからだ」
「少佐……」
 不安そうな、泣きそうな声。聞いているだけで苛立ってしまう。
「お前にはもっと相応しい女がいるだろう。小柄で愛嬌があって、料理が上手くて掃除をしても物を壊さない、明るくて気立が良くて、何より可愛いらしい……そういう女がお前には合っている」
 私ではなく。その言葉を呑み込む。
「だからもうここには来るな、私のことは忘れろ。お前は本来ここにいるべきではない人間だ。普通に働いて、普通の人間と一緒になって、幸せで平凡な家庭を持って、そして老いて死んでいく。お前がこの場所にいること自体が間違いなんだ」
 その声にもう苛立ちはなく。諭すように淡々と告げる。
「次の任務は最前線の激戦区だ。あそこに行けば死亡リスクは遥かに上がる。いくら後方支援部隊に配属されても、お前みたいな弱い奴が生きて帰ってこれる可能性は限りなく低いんだ」
 だから、だから。思うように動かない指に視線を落として俯いた。
 あの日、空から鉄と火の雨が降ってきた。沢山の人間が肉塊になった。運良く瓦礫の隙間に入って生き残った自分ですら、顔も手脚も身体もめちゃくちゃになった。この手じゃもうメスは握れない。安易に人に触れることも叶わなくなるだろう。軍医として復帰するどころか、二度と元の体には戻れないのは自分が一番よく分かっている。
「……お前にこうなってほしくない」
 掠れた声を絞り出すようにして言う。これは願いだ。行かないでほしいという、今すぐここを出て兵士などではなく一般人として生きてほしいという、酷く傲慢な願い。
 そんなこと、彼が素直に頷く筈もないというのに。
「……少佐、申し訳ありません。いくらあなたの言葉でも、従えません」
 予想通りの答えに落胆することはなかった。
「なら……もう私と一緒にいるな」
「嫌です、絶対に嫌です」
 胸に抱いていたヤブクロンをベッドに置き、細い手が包帯だらけの手の上にそっと置かれる。いつもの優しい温もりに、込み上げるものを必死に抑える。
「僕はずっとあなただけを見てきました。あの日、助けてもらった時から僕の目にはあなたが輝いて見えています。傷を負った今でも、それは変わりません」
 細い両手がぎこちなく、遠慮がちに、指を絡めるように包み込んでくる。その気になれば小枝のようにへし折ってしまえる程の細さしかないのに、それがとても心地よく感じる。
「僕、ずっとあなたと一緒にいたいです。あなたがもし別の誰かを愛してしまっても僕は変わらずあなたを愛し続けますし、別の誰かと一緒にいた方が幸せならば、ちょっと寂しいですけれど……喜んであなたを送り出します」
 猫のような緑色の目が細く笑う。ベッドに上がっていたヤブクロンはいつの間にか私の膝上に上がってすやすやと寝息を立てている。ゴミ捨て場に置かれていたタマゴを彼が拾って孵し、私が名を与えた。言わば二人の子供のようなポケモンの姿に愛しさが込み上げてくる。
 空いた手の指でそっと撫でてやると、ヤブクロンは幸せそうにぷぅと鳴いた。
 ヤブクロンを見つめていると「少佐」と彼がこちらを見て欲しそうに呼ぶ。先程の言葉に少なからずショックを受けているのか、小動物のように潤んだ目をしていた。
「僕、意味もなく突き放されるのは嫌です。あなたが独りぼっちになるのも嫌です。その包帯の下がどんなに酷い顔になってしまっていても、僕の中では少佐が一番なんです」
 真っ直ぐと見つめる瞳に顔が熱を帯びていくのを感じる。この男の言葉はいつもそう、歯が浮くような台詞でも大真面目に言ってのける。嘘偽りも飾り気も無く、心のままに紡いだ言葉がささくれ立った心にスッと染み込んでいく。
「ヴェレーノ少佐。僕はこの任務が終わったら軍を辞めます」
「え……」
「元々、あなたに会うという不純な目的で入った人間なので長くは続かないと思っていましたから……。あなたがいなくなってしまうのなら、僕もここにいる意味が無いので辞めます。あっ、大丈夫ですよ! こう見えて結構貯めてるのでしばらくは生活できます!」
 だから……その……と、今度は彼が顔を赤らめる番だった。もじもじと恥ずかしそうに私の指を両手で握っては離し、握っては離しを繰り返す。まさかとは思うが、この先の言葉が何なのか何となく分かってしまう。それは彼が分かりやすい口説き文句しか言えないのか、単にそれを期待している私がいるのか、あるいは両者なのか。一字一句聞き漏らすまいと耳を傾けると、しんと静まり返った病室の中で小さな息遣いだけが聞こえた。
「少佐、僕の故郷のウィグリドタウンで一緒に暮らしましょう。小さいですけど、二人で考えた家ときのみ畑がもうすぐ出来上がるんです。僕、軍を辞めても一生懸命働きます。あなたが二度と苦しまないように、幸せに沢山笑って生きていけるように、僕があなたを守ります。どんな姿になっても、ずっと、僕はあなたの傍にいます」
 しどろもどろでもはっきりとそう告げると、彼は深く息を吸う。その一呼吸分の時間がまるで永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。不思議な感覚と熱を帯びた瞳と愛しい声と言葉に、次第に目頭が熱くなる。ずっと、その言葉を待ち侘びていたのだと。

「僕が帰ってきたら、結婚してください。そして、この先も同じ時間を一緒に過ごしてください」

 目の前には穏やかな笑みがあった。これから死地へ赴く人間とは思えないぐらい、優しい笑顔だった。
「……イーサン」
 答えなんてとうに決まっている。言わなくても分かりきった答えすら出てこなくて、愛しい名前を涙声で呼ぶのが精一杯で。
 こんなにも幸せなことがあっていいのだろうか。人生で最も幸福とも言える瞬間を私なんかが味わっていいのだろうか。もし、それが許されるのなら、こんな私を愛してくれるというのなら、捻くれ者で臆病で多くの人間に汚された私なんかを好いていてくれるなら。

「──キスして、イーサン」
「はい」
 絡んだ指がするりと解かれ、両頬に手を添えられる。潤んだ目が真っ直ぐ見つめてきて、穏やかで幸せに笑んだ後、そっと唇を押し当てた。
「もっと」
「はい」
 先程よりも長く、柔らかい温もりが触れてくる。唇の先でちょっと啄んでやると驚きながらも彼が離れることはなかった。目を開ければ自然に唇が離れ、額をくっつけ合ってはまた目を閉じる。ゆっくりと時間が流れる感覚が、頭から爪先までじんわりと広がる心地よさが、長く、長く、続いて欲しいと心の底から願った。
「もっと欲しい」
「はい」
 今の私はどんな顔をしているのだろうか。愛する人と家族になれることを喜んで笑っているのか、愛する人が死地へ赴くことを悲しんでいるのか、愛する人が戻ってくるという約束に僅かな希望を見出して期待を寄せているのか、そんなことすら考えられない程の幸福感に浸りながら、愛する人と唇を触れ合わせることへの悦びに静かに涙を流していた。
「…………あい、してる……」

 これが最初で最後のプロポーズであったこと。
 これが最後のキスであったこと。

 人生で最も幸福と言える瞬間はいつかと聞かれたら、クゥラ・ヴェレーノはきっとそれらを語るのだろう。
 ──二度と戻らない愛しき日のことを。あの死地から肉片となって戻ってきた恋人、イーサン・モンドとの思い出のことを。忘れないように、身体中に残った無数の傷跡のごとく心に刻み込むように語るのだろう。

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