砂糖まみれの熱

アルカナ地方の交流です


 セゾンでの会合の後、アカリはエルメスシティに向けてウォーグルを飛ばす。今回本職の多忙で欠席してしまったペラルを訪ねる為だ。アストラからすぐ近いのでものの十分もしない内に広大な花畑が見えてくる。花祭から期間は空いていないので以前訪れた時と変わらない色とりどりの花畑を眼下に、アカリはぼんやり先日のことを思い出す。
 今まで黙っていたことを正直に言いつつも情けなく泣いてしまった自分に、一度だって怒らず優しく涙を拭いてくれた後輩。素直な想いが込められた手紙を読んだ時、ずっと抱いていた決意も固くなった。せめて彼女の前では立派な先輩として巣立っていきたい。それは自分に対する一つのけじめでもあるからだ。
「ジン、ここだ。降ろしてくれ」
 見覚えのある通りまで来た時、ウォーグルの背を軽く叩きながら手綱を引く。すぐにスピードを落としながら降下していき、僅かに砂埃を舞い上げながら地上へと降り立った。
「ありがとう、助かった」
 サッと飛び降りながら嘴と首の下を掻いてやると、気持ちのよさそうな声が上から聞こえる。バトルランドから借りているという立場の彼とも、もうじき別れの時がやって来るので今後は気軽に一緒に飛べなくなる。今の内に一緒にいようという思いが両者にあるからか、普段甘えた声を上げないウォーグルのジンはプライベートでは猫ポケモンのように顔をすり寄せてくる。
「おいおい、来月からはスバルと組むんだからその甘える癖はどうにかするんだぞ」
 などと言いつつ、甘えられている側は満更でもないといった顔で両手で揉むように撫でている。ひとしきり撫でた後はボールに戻し、交代で出したアブソルのスクナヒコナを伴い縁石の花壇に整列して咲くパンジーを眺めながら眼前に見える花屋へ向かって歩き出した。

 目的地へと辿り着くと早速店主がいないか店先を見るが、陽光を浴びて色鮮やかに咲く瑞々しい花々の他には誰もいなかった。花弁や葉に付いた水滴が真新しく光っているので水やりを終えてからそう時間は経っていないところを考えると、店内にいるのではと予想して正面から入っていく。
「ペラル殿、いますか?」
「ペラルの兄貴は今留守にしてるぜ」
 アカリの呼びかけに答えたのは溌溂とした女性の声。今しがたしゃがんでいたのか、ひょっこりとカウンターから顔を出すと見知った顔に「ああ」と声を上げる。
「オドレか」
「あー…確か、マイヤ?」
「一回しか会ってねぇのによう覚えとったな」
「一応、接客を兼ねた仕事だから覚えるのは癖というか……それにペラル殿の店だから従業員の名前くらいは覚えていないと失礼かと思って」
「従業員っていうか本職じゃねぇっていうか……まぁ、オドレも律儀だよなァ。んで、兄貴に一体何の用だ?」
「ちょっと尋ねたいことがあってな。すぐ帰ってくるのか?」
「ああ、ちょっと先生と一緒に配達に回ってるだけだからそんな時間はかからねぇよ」
 とにかく座れよ、と近くにあった椅子を勧めてくるマイヤ。
「喉乾いただろ、アイスティーでいいか?」
「そんな気を遣わなくてもいいぞ」
「茶の一つも出さねぇで待たせるなんざ、それこそ失礼だろうが。いいからそこで待ってろ」
 正直、少しだけ喉が乾いていたのでマイヤの言葉に素直に甘えることにするアカリ。一旦裏手へと引っ込んだ彼女は、程なくして可愛らしい丸みを帯びた二つのコップと透明なティーポットと茶菓子を持って戻ってくる。
「丁度、いい匂いの茶を得意先から貰ったんだってよ」
 既にポットの中ではゆらゆらとティーバッグが水に浮かんでおり、氷の入ったコップに注がれると甘く芳ばしい香りがふわりと漂う。
「レモンはいるか?」
「いや、結構だ。いただきます」
 渡されたコップに口をつけ、半分くらい一口で飲む。上品な甘味が口内に広がる。
「美味いな」
「そいつぁよかった」
 マイヤも自分に注いだ分を一気に飲み干す。彼女の方が自分より喉が渇いていたのだろう、コップから口を離すと満足げに「ぷはぁっ」と息を吐き出していた。
「…今日は一緒じゃねぇのか?」
「スミレのことか? 今日は私個人の用事だ」
 ふとマイヤが店内を見回すように尋ねてくるのですぐに花祭のことを思い出したアカリはそう答えると、向こうは「ふぅん…」と相槌混じりに二杯目のアイスティーをコップに注ぐ。
「ところで、さっき言っていた『先生』って?」
「え? あー……」
「何だ、言いづらいことなら無理に言わなくていいぞ」
「んー…まぁ、先生は先生だ。俺様の」
 それだけ言ってマイヤは黙ってコップに視線を落とす。
「先生……習い事でもやっているのか」
「あ、ああ。そういうことにしといてくれや」
 僅かに視線を逸らしたマイヤを見て、アカリは追及するのを止めた。はぐらかし方がわざとらしいと言えばそうなので若干気にはなるものの、あまり聞いては気を悪くさせてしまうと思ったからだ。花祭でのことも含め少し変わっているところを抜かせば彼女は少し不器用なだけで、悪いことをするような人間には見えないという印象がアカリの中にはあった。
 その証拠に、今マイヤが「食うか?」と差し出してきたポフィンをスクナがふんふんと匂いを嗅いだだけで頬張っている。自分以外の人間を殆ど近づけさせない、ましてや他人から食べ物を貰うことなどあり得ない彼女があっさり他者の手から菓子を貰った。アカリは内心驚きつつも、マイヤはポケモンを大切にする人間なのだと感じ取ってじっと顔を見つめた。
「なんだよ、俺様の顔をジロジロ見て」
「いや……ふふ、何でもない」
「あ? 笑っといて何でもねぇってこたぁねぇだろ」
「お前は良い奴だと思っただけだ。スクナがあまり警戒していない」
「は? んだよ、そんなこそばゆいこと言いやがって…」
 良い奴だ、という言葉にくすぐったさを感じたのか、マイヤは若干頬を赤らめながらアカリから顔を背ける。
「そうだ、こんなの知ってっか!?」
「何だこれは?」
 無理矢理話題を逸らそうと言い出したことなのか、マイヤがポットの脇にあるファンシーな花柄の丸い箱を指さす。
「コイツはなァ、花を砂糖漬けにしたヤツなんだぜ。ちゃんと食えるし、面白い食感で菓子みてぇに甘いんだよ」
「へぇ…そんなものまであるのか」
「更によ、コイツをこの中に落とすとどうなると思う?」
 まるで手品でも披露するかのように楽しげに笑うマイヤ。蓋を開けて包み紙を取った中には砂糖が塗されたピンク色の花弁が詰まっている。その一つを摘み上げ、そっと自分のコップに落とす。
「あ、色が…少し濃くなった?」
「紅茶だと分かりづれぇけど、水とかソーダ水とかに入れると綺麗な色になるんだぜ」
「これ、何の花だ?」
 アカリも思わず砂糖漬けを一つ摘まんで自分のコップに落とすと、アイスティーの色がほんのり濃く色づいた。試しに一口飲んでみると薔薇の香りが鼻を抜け、甘くて上品な風味が増している。
「食用バラだ。他にも食用花……エディブルフラワーっつぅんだけどよ、そういうのでも作れるんだよ」
「いいな、これ。売ってないのか?」
「ああ、あるぜ。そこの棚に見本が置いてあるからよ」
 マイヤが指さした方を見て、早速立ち上がって見に行く。
「さっきのバラは、これだな……あ、こっちの箱も可愛い…へぇ、スミレの花でもできるのか…!」
「オドレ、可愛いモン好きなんか?」
「ぬ……」
 砂糖漬けの華やかさや可愛らしいデザインの箱につい人目を気にせず舞い上がってしまった姿見てマイヤが尋ねると、今度はアカリが僅かに顔を赤らめて下を向いた。
「変、だよな……やっぱり。私みたいな奴がこういう趣味だと…」
「そんなことねぇって。俺様だって可愛いモンとか好きだし」
「でも、お前は小柄だし可愛らしい顔立ちだから……私は、ほら、見た目とか真逆でイメージが…な……」
「だから変じゃねぇって。てかさり気なく俺様のこと可愛いとか言ってんじゃねぇ! 服が可愛いってんなら分かるけどよ…!」
「何故怒る…! 目が大きくて小鼻がスッとしていてふわっとした小柄なサイズじゃないか!!」
「それほぼ限りなくストレートにチビって言ってんだろ!!」
「捉え方の問題だッ! とにかくお前は可愛い! 自信を持てッ!!!」
「だぁーーーうるせぇッ!!! 違うっつってるだろッ!!!! あと、結局それ買うのか買わねぇのかッ!?!?!?」
「買う!!! バラとスミレの砂糖漬けを一つずつッ!!!!!」
「おう、毎度ありィッ!!!!!」
 花屋に似つかわしくないボリュームの声で会話する二人を見て、スクナは呆れたように鼻を鳴らして残った茶菓子を独り占めした。

「じゃあ、ちょっくら在庫見てくっから、適当に店眺めて待っててくれや」
 幾分か落ち着いたマイヤは、アイスティーを飲んで一息ついているアカリに言ってから再び裏手へと引っ込んでいく。注文の品を取って戻ってくるまでの間、アカリは店内を見回したりコップを揺らすように回しては中のアイスティーが波打つ様子を眺めていた。茶菓子はすっかりスクナに食われてしまっているので、空の皿だけが目の前に残っている。
「どの花も綺麗だな……ペラル殿がいかに愛情を持って世話をしているかがよく分かる」
 店内に置かれた色とりどりの花を眺めていた時、店の隅にいた大きな白い花がゆらりと動いた。よく見るとそれはポケモンで、赤と青の薔薇を両手に持っている。
「あれはロズレイド……全然気づかなかった…」
 ロズレイドは優雅な足取りでこちらへ近づいてくる。床に寝そべっているスクナに恭しくお辞儀をし、手に持っていた一輪の花を差し出してきた。
「この仕草、絶対ペラル殿のポケモンだな」
 見ただけであっさりと主の予想に見当がついたアカリはそう呟く。対するスクナはロズレイドの差し出した花をもしゃりと食べてしまったが、向こうは困ったように両手を上げて首を振っただけで終わった。
「スクナ、さっきのエディブルフラワーとやらか分からないんだから、むやみに花を食うな。腹を下しても知らんぞ」
 スクナにそう言ってからカウンターの方を見ると、レジの脇に置いてある分厚い本が目に入る。
「あれは…」
 確か、花祭に来た時にマイヤが一生懸命睨めっこをしていた植物の図鑑だ。スミレと一緒に来店した時にざっくりとした注文にも関わらずちゃんと花言葉を調べてくれて、人に渡す花の花言葉をしっかり教えてくれた。
 そういえば。ふとアカリの脳裏に白い長髪の人物が過る。間違えて彼にあげてしまった赤い椿の花言葉は何だったのだろう。元々自分の部屋に飾りたくて買ったものだから、花言葉は聞かなかった。知ったところで自分には関係ないと思っていたからだ。それ以前にあの花は昔から好きだったという単純な理由もあり、知ったところで意味もないものだと感じていた。
 しかし、それを間違えて人にあげてしまった。いくら気が動転していたからとはいえ、渡す花を間違えるなどありえない。今思い出しても赤面ものだ。以降それとなく気にしないようにしたり、スミレや自分の周囲のごたごたに奔走する内にすっかり忘れてしまったが、目の前の分厚い本を見たら再び思い出してしまった。
「……」
 別れ際、自分は彼に『感謝をしていることを忘れないでほしい』と言った言葉が蘇ると、急に胸の内に罪悪感が圧し掛かってきた。人には忘れるなと言っておいて自分はすっかり忘れてしまうなど、なんて薄情な人間だろうと自嘲する。
 いつまた会えるかも分からない人ではあるが、せめて自分がしたことは全部知って覚えていた方がいい。ざわざわと波立つ心とは裏腹に、興味本位で動く指が自然と図鑑のページを捲っていた。
「……これか」
 索引から遡った目当てのページは溜め息が出る程美しい椿の写真が沢山あった。自分が買った赤い椿、スミレにあげた白い椿、買ってはいないが綺麗だと思うピンク色の椿や乙女椿、侘助など様々な椿が写真付きで細かな説明文が載っている。勿論、花言葉も。
「む…種類によっても花言葉が違うのか……」
 『誇り』『控え目な優しさ』は椿全般を指す花言葉。白い椿は以前マイヤに教えてもらった『完全なる美しさ』『申し分ない魅力』『至上の愛らしさ』。愛らしいという点ではスミレに対する印象がそれだったので、彼女にはぴったりだったと改めてアカリは笑みを浮かべて頷いた。
「ぬ…ピンクは買わなくて正解だったな……もし花言葉の知識があれば、確実に誤解される…私は引かれてしまわれても構わないが…いや、やっぱり駄目だ二度と会わせる顔が無いし一生の恥だ……」
 いや、そもそも間違えて渡してしまう方がどうかしているのだと自分を叱りつつも、肝心の赤い椿の欄に視線を移す。
「えーと…『控え目な素晴らしさ』……『気取らない優美さ』…『謙虚な美徳』……うん、これなら問題ない、むしろジルニ殿っぽい気もするな。何事にも控えめで独特の美徳を持っていたし…独特の、美学……?」
 ふと、ジュラルドンから受けていた熱烈な愛情表現の光景が一瞬だけ頭を過った。
「あれは……うん…色々と……」
 あれ以来、ジュラルドンに対する認識ががらりと変わってしまったという意味でも強烈な人物だった。彼のそういう部分を辛うじて知らないスミレからは非常に慕われているのだが、自分もあれを知ってしまったのは単なる「事故」だと思っている。
 けれどそれ程ポケモンから情熱的な愛情を受ける彼も、マイヤのように悪い人間ではないのだと思っているのもまた事実であり、やたら卑屈気味になっていた会話からその純粋過ぎた愛情故に周囲からの理解は得難かったのだろうと感覚的に察していた。
 とりあえず赤い椿の花言葉が誤解を受ける内容でないことに安心したところで本を閉じようとしたが、ページの下の方にまだ花言葉の続きがあることに気づいて思わず手を止める。
「地方によって意味が僅かに違ってくる…?」
 ほんの豆知識のような小さなコラムだった。特に覚える必要のない小さな欄に書かれた文面を指でなぞるように読み進めていく。アルカナ地方ではそうメジャーではないのだが、カロスやガラルといった他地方ではまた違う意味合いとなるらしく、文章を追っていく内にアカリの目が点になった。同時にどっと冷や汗が出る。
「は…? 待て……これはどういう…いや、違う………意味の捉え方がかなり違うぞ…何だこれは…」
 ぶつぶつと独り言を零し始める主を不審に思ったのか、床で寝そべっていたスクナが起き上がって図鑑を覗き込むようにカウンターに掴まって立ち上がる。
「え、うん……多分、違う…筈だ……。はっ、たかが人間が植物について象徴的な言葉を当てはめただけのものだ…特に気にすることでもない…」
 手が震えた。一瞬、読まなければよかったなどと後悔の念が押し寄せるが、それはあまりにも虫が良過ぎやしないかと責める自分がいる。慌てふためこうが何をしようが、過ぎてしまった出来事はもう巻き戻せない。いっそのこと花を捨ててくれないかと望む自分もいれば、折角買った花が可哀想だからせめて自然に枯れ落ちるまでそっとしておいてほしいと願う自分もいる。
 妙な考えが頭にチラつくせいか、さっきから心臓が耳元で鳴っているように喧しい。左胸から飛び出してくるのではないかというくらい大きく跳ねている。落ち着け自分と言い聞かせるも効果などなく、どうかこの意味だけは知ってほしくないと届くか分からない願いを強く念じた。
 花言葉の意味をどう解釈していいのかと思考を目まぐるしく回転させていた時、賑やかな足音が聞こえてきたので慌てて図鑑を閉じようと手を伸ばす。勢い余って弾き飛ばされた分厚い書物は落下し、足の小指に直撃した。


 アカリが注文したバラとスミレの砂糖漬けの在庫を業務用の冷蔵庫から取り出し、両腕に抱えると勝手に扉が閉まった。それを見たマイヤは視線を下に向けて笑う。
「おう、ありがとなビスク」
 少し色褪せた布の下から影のような手を伸ばして冷蔵庫の扉を閉めたのは最近手持ちに加わったミミッキュのビスクドール。礼を言われて嬉しくなったのか、ビスクドールはちまちまと歩いていって店へと戻る扉を開けてマイヤを見ている。
「助かるぜ、後で菓子とかやっからな」
 客を待たせまいといつもよりドタバタと大きな足音を響かせて走っていると、店側からゴトン!と何かが落ちる音と短い悲鳴が聞こえてきた。
「おい、何の音だよ!?」
 まさか悪戯好きのポケモンが商品をひっくり返したのか? と想像しながら声をかけると、レジ側のカウンターで呻き声を漏らして蹲っているアカリの姿が見えた。
「オドレ、何しとんじゃ…」
 全く予想していなかった客の姿にマイヤは訝しげに持ってきた商品を一旦カウンターに置いてアカリの元へと近づく。
「いや、大丈夫だ…すまない……」
 足を押さえながら自分から後退る姿にマイヤの中にふと疑念が湧く。長い期間ではないものの探偵の助手をやっているせいか、すぐに周囲を見て状況を推理しようと頭を回し始めていた。まず自分から遠ざかろうと蹲ったまま後退するという不自然な格好を始めたアカリ、次に呆れた顔で素知らぬ顔をするスクナ、床に落ちた分厚い植物図鑑。多分これがアカリの足か何かに落ちてしまったのだろうと考えると、不自然な格好の理由に説明がつく。しかし何故逃げる素振りを見せる? 何か自分に不利益になるようなことでもやらかしたのか?
「オドレ、何で逃げる?」
「別に、逃げている訳では…」
「俺様が近づくと後退るだろうが」
「いや、何もやましいことはしていない…!」
 マイヤのストレートな質問にあらぬ誤解をされているのではと思ったのか、アカリの声色に焦りが含まれる。先生ならばここですかさず追及するか、あえて逃がして後で真相を手繰り寄せるか、と考えたが、そんなじわじわと獲物を追い込むようなやり口を不得手とするマイヤは心の思ったままに動く。
「その足、痛むか? これ分厚いし重―――」
 重いからな、と言いながら床に落ちた図鑑を拾おうとしたマイヤよりも早く、驚くべき瞬発力を見せたアカリの手がバンッ!と叩くように図鑑を押さえた。
「うぉ!? 何すんだよ! びっくりするじゃねぇ……か?」
 少し驚いて手を引っ込めながら文句を言うマイヤだが、その途中で語気が弱くなっていく。
 ―――真っ赤だった。唇を噛むようにぎゅっと結び、子供のように頬を膨らませ、目が若干潤んでいる。熟したマトマの実のような、怒りで膨れ上がったオクタンのような色で染まっている。無言のまま図鑑から手を離そうとしないアカリを見て、マイヤがその豹変ぶりに思わず大丈夫かと声をかけそうになったが喉のところで呑み込んでしまった。
「本当に足をぶつけた、だけだよな…?」
 図鑑を押さえた彼女の手が震えた。ああ、それじゃ逆効果だろう。何でこんな事実を認めさせるようなことを言ってしまうんだ。
 自分が席を外した空白の時間、戻って来た時に鳴った落下音、慌てて蹲って顔を見せず、図鑑を拾おうとすると取られまいと気が動転したかのように手で押さえてくる。本当に足に本を落として痛かっただけならすぐに顔を上げる筈だ。こんなあからさまな状況を見れば、自然と「何をしていたのか」が組み上がってしまうではないか。これは立派な職業病だ。
 そして同時に思い出す。自分もついこの間やらかしたばかりで、今の状況を想像するには十分なものだ。違うかもしれないのに。また顔が少し熱くなる。気にしないようにしていたのに。アカリが「似た経験」をしている確証などどこにも無いだろうに。
 すぐさま熱を払うように頭を振って、無粋な考えを追い出した。
「とにかく、怪我してねぇんなら図鑑返せ。な?」
「……中、見ないよな?」
「んだよ、見られて困るモンでも入れたのか?」
「い、いや……そうではないんだ…すまない」
 図鑑を取り返そうと手を伸ばすと、アカリが困ったように見上げてくる。若干涙目になっているような気がしたが、そこまで追及する程無神経でも鬼でもないので何も言わずに図鑑が戻ってくるのを待った。
 重い沈黙が訪れる。気まずい。その時だった。
「ただいま、マイヤちゃん。留守番ありがとうね」
 沈黙を破るように朗らかな声が店内に響いた。

「ペラルの兄貴……」
「ペラル殿……」
 人当たりの良い笑みを浮かべてこちらを見るペラルに、アカリとマイヤは複雑そうな表情で互いを見合う。
「マ、マイヤ、頼んだ奴の会計済ませたい。ペラル殿も戻って来たし、用事を済ませたら帰る」
「お、おう。ブツはもう用意してあるぜ。そういや兄貴、先生は?」
 レジに戻って商品を袋に入れながらマイヤが尋ねる。もう随分手慣れた作業になっているのか、スムーズに会計が終わった。
「ちょっと夕飯の買い出しを頼んだんだ。すぐ帰ってくるよ」
「ふーん。あ、そうだ。アカリが兄貴に用事あるんだってよ」
「え、まさかデートのお誘いかい?」
「何をどうしたらそんな考えになるのですか?」
「もう、真面目だなぁ。冗談だよ、キミが来た用件は分かってるから。ちょっと裏で話そうか」
 財布を鞄にしまうのを待っていたペラルが、軽く手招きして店を出る。
「じゃあ、元気でな。マイヤ」
「おう、オドレもな。そっちのアブソルも」
 簡単な別れの挨拶を済ませ、カウンター越しにスクナの頭をがしがしと撫でるマイヤ。それが終わるのを待ってから、アカリはスクナを連れてペラルの後を追って店を出た。

 店の裏手にある細い路地に入ってすぐ、ペラルは振り返って軽く腕を組む。
「ここなら大丈夫かな」
 ロズレイドに見張り役を頼み、ペラルの顔つきが真面目になる。
「あの件だよね、アヤさんだったっけ」
「はい」
「あれから、アカリちゃんから預かった写真のコピーを見て色々記憶を手繰り寄せてみたんだ」
 ポケットから折りたたんだ画質が少し荒い母娘連れの写真を取り出し、ペラルは話を続ける。
「あれは僕が花屋を初めて少し経った時かな…丁度六年くらい前で……。古い記憶だから自信がないんだけれども…」
「何でも構いません。分かることなら」
「うん。強い雨が降っていた時だったかな…酷い土砂降りでね。遠くで雷が鳴ってたから早めに店を閉めちゃおうかと考えていた時、この写真によく似た女性が来店してきたと思うんだ。でも、すごく顔が窶れていたし、まるで……何か思い詰めているような雰囲気だった…僕はいつもみたいに接客しようとしたんだけど、少し壁が厚くてあんまり案内できなかったな…」
「それで、その後どうなったのですか?」
 顎に手を当てて記憶を辿るように目を閉じているペラルに、アカリが一字一句聞き漏らすまいと近づく。
「その後はね、結局何も買わずに帰っちゃったかな…」
「そう、ですか…」
「受け答えも暗く沈んだ感じだったし、花を見て傷心を癒やしに来たのかなぁって思ったけど、何となく違ったみたいで…。あんまり手掛かりになるような話じゃなくてごめんね」
「そんなことないです…! こうして僅かでも手掛かりが手に入るだけでもありがたいので…!」
 眉尻を下げて謝るペラルにアカリは慌てて礼を言いながら思案する。六年前というと、スミレが置き去りに遭う以前の話……つまり父親のショウブが事件を起こした時期と重なっているかもしれない。スミレの母親が何故ペラルの花屋を訪れたのかは分からないが、当時の行動経路が少しずつ見えてきたのは僥倖だと思う。後は‪明朝‬向かうマギシティでできる限り手掛かりを追えれば…。
「―――アカリちゃん」
「はい」
「さっきマイヤちゃんと仲良さげにしてたっぽいけど、何か楽しい話題でも見つけたかい?」
「……いえ、別に。仲が良いという訳でも…」
 先程マイヤに見られた失態を思い出し、思わず顔を背ける。わざとなのか、それとも天然なのか。何気ない様子で尋ねるペラルの真意が読めない。どうしても嘘がつけない性分故に心臓が跳ね上がり、引いてきた熱がまた徐々に顔に集まってくるのを感じる。気にし過ぎでは? たかが花言葉に惑わされるなど、自分らしくもない。タチモリ・アカリはそんな夢見がちな少女みたく浮ついた人間ではなかった筈だ。
「…情報、ありがとうございました、ペラル殿。私はこれで失礼致します」
 これ以上追及されることを恐れたアカリは、一度もペラルの顔を見ることなく一礼して立ち去っていく。
「……僕、何か変なこと言っちゃったかな…?」
 早歩きで忙しなく揺れる長い黒髪を眺めながら、ペラルは小首を傾げて独り言ちた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?