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雪の中、懐かしんでたこと

久しぶりに連泊で宿巡る。最終日の朝、雪が降っていた。
日本の最寒記録を持つ町で育った私にとって雪はどうにも原風景に繋がる。特に山岳の植生も相まってか、針葉樹の中に少しだけ広葉樹が混じる景観がどうにも故郷を思い起こさせた。雪の景色を見る度に、そこに懐かしさを感じる事実が何処か寂しかった。懐かしいとは離れて知る感情だから、自分の中で大切にしている領域が少しずつ少しずつ失われてゆくのがただ悲しいと思っていた。けれどもこの日は色々と思い出す中で、懐かしさが消えゆくことに対しての愛おしさを感じた。あまり写真の風景と関係ない文章だけれども、その日歩きながら思い出してたこと、考えてたことを書いてみる。

雪ですっかり帽子被った樹木も好きだけれども、針葉樹に疎らに雪がつもり緑が錯視的に黒く見えだす姿も好き

腐ったみかんという言葉は使い古された台詞でしょうが、実際に言われた経験がある人はそんなに多くはないのじゃないかしら。僕は一度だけ劇場型の先生に言われたことがある。特に傷つきはしなかった。その表現が可笑しくて笑ったらより怒られた記憶がある。ただ今にして思えば中々に慧眼だったとは思う。確かに僕の周りはちょっとズレた人や問題が多かったし、そしてそれは確かに感染する類のものでもあった。腐ったみかんは腐ったみかんで楽しかったし、僕はこの腐ったみかんという呼び名を結構気に入っている。みんなで腐っていこうぜ、くらいに思っていた。そうして今、想い出を想い出として距離を経て振り返れば、確かにあの段ボール箱のみかんは全部腐って傷んでた。外からみたら目も当てられない。もう食材ではなく生ゴミに成り果てた想い出だ。

北海道ではあたりまえにある二重ドアの間の玄関の空間、あの空間が好きだった。友達の家に冬に遊びに行くと、室温と氷点下の外気の妥協点でちょうどいい塩梅に冷やされたみかんが置かれていて、それを拝借し食べながらゲームをするような日常があった。ゲームというものは良いもので、普段あまり関わらない文化圏の人とでも、ゲームが上手いという理由だけで仲良くできた。

あのドアとドアに挟まれた空間は冬だけに特別な意味を持つ空間だった。春が来たら、あの空間の概念はただの玄関に戻り意識の外へと消えてゆく。神様の気紛れか季節外れに時々降る雪よりも、よほど冬かも知れない。

雨が雪に変わる瞬間の情緒とか。春が来るから咲く花や飛び交う蝶もあれば、冬と共に消えゆくものもあるもので、その境界でしか眺められない独特な感覚が好きだった。一夜にして白く塗り替えられるアスファルトに美しさをみては、雪溶けてまたアスファルトの鼠色が顔を覗かせた時には、ようやく自転車に乗れる時期がきたという喜んだ。断片的に触れた旅行の雪国では味わえず、住まなければ生まれない感情。離れた自分にとっては、その感覚がただ懐かしさの中にだけいる。それらは過ぎ去ってしまっていて、失われていき、忘れてゆくものなのだ。連続性の中で質が変化する瞬間だけに伴う魅力というものを信じている。治りかけの傷の痒みの愛おしさとか、忘れかけた夢の残滓が妙に刺さったり、「腐りかけ」が一番美味しいとか言ってみたり。

傷を1つつくると電話をする人がいた。
傷を1つつくっては電話をしてくる人がいた。

そうして血が止まるまで、気持ちが落ち着くまでの時間だけ、愚痴だとか恋愛話だとか、もうちょっと深刻な話とか、そういう取り留めもない話をした。学校では特に関わることもなく、普段何か話すでもなく、ただ傷が出来た時だけ電話越し、それだけの関係。あの謎めいた関係に結構救われていたことを思いだす。

傷跡を残したくてしたあれこれの実験の報告だとかそんなことを話した。そんなことに意味なんてないのに生傷にレモン汁なんかをかけて留めても、痛いだけだったとかそんな取り留めもない報告をしたことをふと思い出す。確か何か笑わせなければって文脈で話した渾身の失敗談だったと思う。あの時、ちゃんと笑ってくれたかはもう思い出せない。どうせならミカン汁にしとけば良かったね。あの頃は消えてゆくものが許せる程の余剰がなかったんだ。

時が止まることはないが、凍ってしまえば時の侵食は緩慢になるだろう。忘れてしまいたいこともあれば、忘れたくないこともある。感情の損耗が悲しい寂しいと思えば、心を標本の様に留めたいという気持ちは増すばかり。撮るという行為の一因にも、そういった失われゆく主観と記憶に対しての「消えないで」と願う気持ちが確かに居る。

思い出を留めようとして、例えば「想い出」を標本に出来たとて展翅して乾燥させればやがて乾き色褪せていくだろうし、触ればボロボロに崩れてしまう。エタノールやホルマリンに漬けてみても色素は失われるだろう。触れないし嗅いでみたとて、もう残るのは悲しい薬剤の香りだけ。アクリルに封入すれば多少は色を留めれはするが、やはりもう触れないショーケースの向こうの世界に想い出は行ってしまう。凍らせることが出来たなら、溶かした時に想い出にまた触れる。さりとて、冷凍庫の暗がりに想い出を置きざることは何か悲しくて、だからあの二重ドアの内側の空間で春になるまでほんの少しだけ繋ぎ止めて、春がきたら風化し腐ってゆく想い出があればいい。

この景色にとても郷愁を感じた。地元に乱立するアイヌ語由来の変な名前の川が変な名前だと意識し始めたのは内地にでてきてからだった。

霜焼けに指が腫れては水道水が温かくておかしくて笑ったり、窓の外で屋根から雪崩れ落ちる雪のゴォゴォとした音と揺れや一瞬暗くなる教室が好きだったこと。夜中のセイコーマートの暗い感じが何故か好きだったり、バスの曇った窓に指先で名前書いて切り取った恋慕だとか、指切り誓って雪に書いた相合傘が吹雪でまたたくまに消えてしまって笑ったり、溶けてしまう雪だるまが寂しい日があれば、雪だるまをスコップでかち割りたい日もあったこと。わやという言葉の圧倒的な利便性も、適当に掘り進んだアナグマの巣穴の様なそれを誇らしげにかまくらと呼んだ日も、学校は嫌いだけれどもスキー授業だけは楽しかったこと、そこで調子を乗って友達と二人遭難しかけたこと。運動にたけた親友が何故かスキーだけど下手くそで面白かったこととか、下手にストーブに近づいて溶け出したスキージャケットの悪臭とか、夜中の除雪車両に紛らわされる寂しさも、まっすぐに歩けなくてよく笑われた足跡も、哀れんで哀れまれた日々が懐かしさに変わり消えてしまうこと、消えてゆくから美しいのだと、ようやく、なんとなく分かりかけている。腐ったみかんよ、春と輪廻しろ。そんな色々、考えたこと。

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