『sunny day's seeker.』

ふっとした瞬間に深く歯車が噛み合わなくなる。大抵は、少しの感傷を吐くことで言葉に昇華すると、少しだけ自分の口から漏れ出る心が綺麗な物の様に錯覚して、心が安定する。それでも、ふっと蓄積したものが堰を切ると、それは濁流の様に溢れてしまう。

自分の口から漏れ出る言葉の醜悪性・加害性がとても嫌いだ。
言葉と思考が暗がりに向き、自分の中の卑屈に押し込めた心の闇が噴出すると、その時不意に全て否定の言葉に染まってしまう。楽しかったこと、悲しかったこと、それら全ては単色の憎悪に飲み込まれてしまう。そういう瞬間が本当に寂しい。己は己の弱さで、己の想い出すらも汚してく。大きすぎる感情が、そういう時はとても忌まわしいものに思えてしまう。それはちょうど削り過ぎた鉛筆が容易く折れてしまう様に、先鋭化されていて、脆くて、扱い辛い感情だ。

自分は鄙びたものや、廃墟の様なものが好きだ。また過酷な地域での暮らしを眺めるのが好きだ。ではなぜという原点に問いを向ける。諸行無常に浸りたいから、手向けられた深緑が弔花の様で心を掻きむしるから、それとも棄てられた日々に対する憐憫と同調の念から。きっと全部が正解だけれども、本質的に求めているのは、どれも違う。

そこを捨てざるを得ない、離れざるを得ない事情、そこに伴う悲劇性・不幸な文脈というベールの向こう側、確かにあった、暖かい日々の気配に、胸が締め付けられるのだ。

人は弱い生き物だから、きっと大きい悲しみを俯瞰的に見た時、輪郭を辿ってしまい、そこにある悲劇性を見ようとしてしまう。勿論、離れてしまった、失われてしまった、或いは虐げられたり、そういう日々に悲しみはあるだろう。けれども、その悲しみの中でも、きっと楽しい日々があったことが、その瞬間に触れた時、本当に美しいものに触れた気持ちになる。

それは丁度、大きすぎる負の感情で、
私が私の中の過去を「全」否定してしまった時に、不意にそれでも楽しかった日々、一握の救いを思いだす瞬間に相似を感じている。

世に出すつもりはないが、自分は、個人である文脈の歴史を調べ尋ね歩いている。それは「良くない」とされる歴史がある地域。昔、とある「世間でよくない歴史」の文脈で語られる家を訪ねた時のことを思いだす。ご本人方とのお約束で、そちらの写真も場所も公開することはないが、そこに住まわれた方と話した時、その人が語る想い出に悲壮さは感じなかった。昔の想い出、その中にあった辛さと楽しさを、遠い日を懐かしむ様に語ってくれた。それはなんと美しくて、けれども確かに失われた日々なんだろうと、私は思った。負であること、それはもうそうなったから仕方ない。
過去は変えられない。けれども負であったとしても、そこに量としては恵まれた中に比べて少なかったのかも知れない。それでもほんの僅かでも、一滴でも優しさはあっただろう。
その個人史に満ちた中にある宝物こそが、私が見たい「本当に美しい花」なんだと、そう改めて思った。

フィラメントが切れてしまった電球もいつか誰かを照らしたでしょう。
泥まみれになった人形はいつか誰かの友達だったろう。その人形を買い与えた誰かから誰かに向けた気持ちは確かな愛情だろう。険しい山奥の暮らしの中でも笑顔はあったろう。結果論悲劇で終わった物語の中にも、コメディパートはあっただろう。くたびれた靴は、歩んだ道の大きさで、

手向けられた花は、
そこに誰かが眠っている事実を示すのと同時に、
そこに手向けた誰かが居る事実であることを忘れない様に。

どんなに悲しい人生を持つ人にも、どうか静かに眠れる夜があって欲しい。
全てのみ込んでしまう闇が、一時涙を隠してくれる瞬間がある様に。許せないことがあったとして、その許せなさが許せたことまで食い潰して仕舞わない様に。

ambergrisというひと昔前のバンドの『晴れた日の探求者』と題された曲がとても好きで、その曲では死別という喪失に対して「悲しむ」ではなく「懐かしむ」様に在りたいね、という趣旨の曲だった。久しぶりにそちらを聞きながら、この文章を書いている。

青丹は殴られて出来た青痣が、いつか何もなくなり治ってしまうことが悲しくて付けた名前だけれども、それでも残った傷痕を、それがいつか過程であり、消えてしまった傷痕を、脳がもう忘れてしまっても、その瞬間に抱いた一つ一つの感情もたとえ消えたとしても、確かに自分とあったことを。

いつか振り返り、全否定ではなく、その時々の解像度で
懐かしめるように、そういう心でありたいなと、
そんなことをずっと考えてた。色を足していく様に。


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