傘について歩きながら考えたこと

雨の日に傘をささないなんて、そんなの見窄らしいだろう。思い上がった価値観でいつか誰かがそう言った。傘を逆さにして草木の下においてガサガサする。すると落下してきた虫が捕獲出来たりする。傘の役割なんてそんな優れた捕虫器具だろう。雨の日にそんなことしたら虫が濡れてしまうだろう。だから雨の日こそ傘は無用の長物だ。そんなことも分からないのか愚か者、そう心の中で嘯いてみる。

手軽に冷ややかな目線を浴びたかったら、雨の日に傘をささないで外に出ればいい。そうすれば悪い意味で目立つだろう。そんな人間と歩くのは恥ずかしい。これは土砂降りであればある程いい。
大袈裟に言えばカミュの異邦人で裁判官で人々の害意が注がれる様な、そういう類の視線を味わえる。それで強くなれるかは知らない。人間は成長を信仰するけれども、経験は人を成長させないと個人的には思ってる。例えばお酒。沢山お酒を飲んだらアルコールに強くなるなんて与太話が昭和の時代には信じられていたようだけれども、その実ただ肝臓が壊れていただけだったみたいは話。心は強くならない。悲しみも怒りもただ、元々あった大きな感受性を削り、縮小し、そうして悲しいと感じる心を麻痺させただけではないか?
ならば悲しみは麻酔みたいなもんなのかもね。とか詭弁を一つ並べてみる。

今日歩いていて一瞬だけ雨が降った。大した雨ではなく少しだけ掌で雫を感じる程度の短い雨だった。崩れるか崩れないかの天気の中で、歩いてる街の景色を上の空に、傘不要論を延々と考えていた。

今日の雨は記録に残る大豪雨でもなければ、情景豊かな狐の嫁入りでもない。ただ、なんてことはなく降って、行き交う人に疎まれながら、アスファルトに馴染んでいずれ蒸発していくだけの名前のない雨。もしかしたら古い日本人の感性は無尽蔵なので、適切な言葉が浮かぶかも知れない。ただ知らないし、調べる体力もないので、今日の雨は名前の無い雨と名づけることにする。

傘を買う金すら無かった頃を思うと雨が降る度に濡れていた。その頃の習慣からか、あまり傘に対しては好意的に接してこなかった。別に濡れてしまって風邪を拗らせても別にいい。それで肺の一つでも患って、そこで終わる命ならそれでいい。たかだか雨に濡れた程度で終わるとは思っていないが、当時の尖りきった感性では、大業にそんな無頼感を自分に言い聞かせていた。惨めさや、詫びしさに溺れて仕舞わない様に。傘を持たざる者の期間が長過ぎて、今でも定期的に傘を忘れる。というか天気予報を見る習慣すら最近まで無かったので、基本は運否天賦に委ねてる。傘を持っていったり、撮影時に誰かと同行する時も傘を例に漏れず忘れるので、きっと私と雨の日に歩いた人ほぼ全員に「すみません。傘を忘れました。買ってきます。」と言ってきた気がする。

車とか濡らしたら忍びないし、一緒に歩いてる人が傘をさしてない羞恥に巻き込みたくないしね。

家から出る時点で雨が降ってたら傘は持っていく。けれど後から降られるともう駄目。反対に途中で雨に止まれると、結構な確率で傘を忘れてしまう。これもまた傘に対しての認知の比重が軽過ぎるが故の事故だろう。刹那主義で快楽主義なんだよね基本。エピクロスだってきっと傘をささなかった筈だ。

そもそも「傘」という漢字に着目すると一つの傘の下に人が四人もいるではないか。昨今の密だなんだと騒ぐ風潮に価値観をアップデートできていないではないか。削ぐわないと言いつつ、随分昔に酔っ払いながら傘という漢字は美しいという話をした気もしなくもない。雨模様も心も移ろうのは秋だからということにする。

そもそも人生を立ち返ると、傘に入れてもらう経験が圧倒的に多い気がする。いつだったか仕事帰りに同僚に入れてもらい、配偶者すらいれたことないんだと苦笑いされたことをなんとなく思い出した。傍迷惑な奴だよ全く。

就職活動してた頃、秋葉原での面接帰りの夕立に、知らない人に傘に入れて貰ったことをなんとなく思い出しつつ。駅までの帰り道、面接だったことを話した。受かるといいねなんて言ってもらって。ああ見知らぬ人、受かったよ。でも蹴ったよ。ごめんね。面接官の厚意どころか、知らぬ人の善意も軽々に無碍にして。それを振り返って今更自己嫌悪に陥ったりもしないけれども。選ばれない分と同じくらい選んでこなかったでしょう。僕も貴方もとか正当化する。

振り返ると、冒頭で書いた傘をささないと冷たい視線が注がれるという持論どころか反対に人の優しさに触れてばかりでないか。傘アンチの気分だったんで、徹底的に傘についての批判の立場を取ろうと思考を固定していたのに絆された気分だ。

そんなこんなの理由で、我が家には大量にビニール傘がある。いつも忘れて、どっかで買って、また忘れて、どんどん貯まっていく。しかも平気に置き忘れる癖に、元来の吝嗇な性質もあり折れても忘れなければ持って帰る。そのせいで、傘は沢山あるのに過半数が使い物にならなかったりする。きっと傘も買えなかった頃の自分が見たら、大層怒るだろう。けど大人になるというのは多分そういうことだ。

水溜りを踏まない様に生きてみても、いつの間にか裾が湿ってしまう様に、どんなに傘を差したとて、肩やリュックの端っこがしとやかに濡れてしまうように。雨が降らないから枯れてしまった花もあれば雨に溺れて土から出てきてのたうち回る蚯蚓もいる様に。十全を満たし万難を廃することなど出来やしない。けれど今は傘を買う金がある。全部を濡らさないことは出来ずとも、大事なものくらいは濡らさないで済むこともある。

傘とも雨とも親友の様な距離感では付き合えないが、少しだけ心を開いてみるのも悪くないなという結論に歩きながら至った。いつの間にか名前のない雨は止んでいた。手始めに折れた古い傘を捨てることから始めようと思った。

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