海を聞きたい

例えば、目の前にいる男のコップが割れている。危ないよと声をかける。けれども、あまりに人と話さないせいで声は小さく届かない。その人は怪訝な顔をして、それからそこに水を注ぐ。すぐにこぼれだして服が濡れてしまう。慌ててグラスを持つ手が滑り床に落ちて硝子のコップは粉々に割れてしまう。すぐに店員が駆け寄って事情を男に訊ねる。あいつが話かけてきたせいだ、と男は言う。店内中の冷たい視線が注がれる。

そんなに見られても、感情を向けれられても、僕の心も割れている。
向けられた感情も何処かにこぼれていく。
ただ、少しだけほんのりと居心地の悪さだけ残して流れてく。

某日、某所、某海岸にて。
その日、僕は疲れていた。連日の詰めに詰め込んだ予定による身体的な疲労は勿論あったが、例の幼少の日から続いてきた躁鬱の躁が切れて、鬱の気が強くなったからだ。それは丁度充電が切れる様な感覚だと思う。そんな訳で旅先で予め決めていた予定を無視して、海を歩くことにした。荒涼とした、うら寂しい、そんな形容詞を孕む10月の冷えた海風を聴きたかった。鬱の時、昔は歩けなかった。何事も慣れだ。診断書がでて、治らないと諦めて、それからもう長い長い月日は流れてしまった。正直にいうと心が健康だった期間の方が人生の比重としては短いから、もうこの感情は竹馬の友の様なものだろう。だとしたら、全く以て嫌な友達だ。

ぽつらぽつらとある廃屋を眺めながら、芒やらが風にはためくなか、黙りこくって色々なことを考えていた。何時だって後悔は先に立たないものではあるが、それでももう少し上手く生きられなかったのかとか、そういうこと。
僕は廃屋というものを好む。そのことについては今までも散々書いてきたし、何故を矛盾なく語れる程、簡単な感情でもない。置き去りにされた、残された、それらに伴う寂寥感。その寂寥感の中に、一握の様に残る暖かさの残滓。もう僕の生まれ育った家もないのだろう。それでいい。ただ時々所属なき虚しさに耐えられない時が来る。

斃れた漁師小屋と、積まれた浮き。時を経れば、一瞬で分からなくなるくらいに姿を変えてしまう刹那的なもの。それは、過去の感情を、場面を上手く思い出せなくなることにも似て、もう僕は僕が何者であったかも時々分からなくなる。

海に出てみると、何羽かの海鳥と、海外からの漂流物が野放図に置かれていた。漢字だから中国だろうか。何処でも良い。何処からかとにかく流れ着いたのだろう。

錆びた門。その先には空白と海。何がそこにあったのかは調べる気になれなかった。空白はいい。なんでも入れられるから。そう嘯いてみる。強がってみる。浅はかに浅瀬から。

どうせ、一番の夢は叶わない世界だ。
どうせ、人は孤独だろう。
何時か崩れる迄、或いは崩される迄、心は治らなくていい。
それでも、病んでても、せめてコップが割れてる人には、
割れてるよと、消えそうな声でも、そう言える人間でありたい。
そんな、心まで、鬱の波が攫っていってしまわないように、海を聞いた。

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