〈わたし〉のいない世界は尊い――ファンタジーとしてのBL世界

私は、「作品やカップリングは自分と切り離して鑑賞するのが望ましい」という考え方の持ち主です。

もっと言うと、「物語を消費するうえで〈自分〉を意識する人」に対して強い反発心を持っています。それの代表的なもの(にみえるもの)として挙げたのが『百合男子』的な考え、「我思う、ゆえに百合あり、しかしそこに我、必要なし」。私にとって、この考え方は「自分」が強すぎるように見えました。「そこに百合あり」ではダメなのか、そんなに自分が主体になりたいのかと思っていました。

その嫌悪感と反発心について、「気持ち悪い」で思考を終えるのではなく、「なぜ私はこれを気持ち悪いと感じるんだろう?」と考えた結果が前回のnoteです。「当たり前」と思っていた「作品やカップリングは自分と切り離して鑑賞するのが望ましい」という感覚を疑ってかかると、『百合男子』的な考えは比較的容易に理解できるのでした。

「男性的」「女性的」な言い方が自分で書いていてもしっくりこず、もっといい言葉を考えたのですが、おそらくそれは「肉体性」なのかなと今は思います。

多くの腐女子が、二次元の作品やカップリングを楽しむときに、自分の「精神性」が投影されることはあっても、「(女としての)肉体性」を視野に入れないように気を付けているような印象があります。

このあいだからじんわりと感じている女オタク内の反発に関しても、「肉体性」を投影する可能性があるかどうか、は非常に大きなポイントです。


ここからはさらに印象論になってしまうのですが、腐女子の世界では、「自身から切り離されているものが尊い」という感覚があるように思います。「〈わたし〉がいない世界を、〈わたし〉がいないからこそ楽しめる」といったような。

この感覚は、どちらかというと私よりもう少し上の世代のものかもしれません(私は平成2年生まれです)。たとえば、非常に強く印象に残っている「人生の一時期を救ってくれる可能性がある性的ファンタジー(主にBL)について」というtogetterを紹介したい。

〈「女」としての身体性でしか異性に求められない、自分の性が汚い、と感じたとき、BL、とくに二次創作の、『戦いやスポーツ等の場で強い信頼関係で結ばれている「対等な」人間同士が恋愛的な意味でも繋がり合える』『男とか女とかじゃなくお前が好き』というファンタジーが救いに思えた日もあった〉

〈「女という一生ついてまわる性」に対する閉塞感とか、自分の中でそれを処理できない鬱屈、若いならではの潔癖症を発揮して女なんて汚い、周囲の恋愛してる人たちがまたドロドロしててもう最悪!みたいになっているときに、ある種の救いとして、BLとか801の物語がとても綺麗なものに見えた。〉

これはまとめ内のuriYamamoto(@negimiso)さんの発言。このように、BLを「自分が関与しないからこそ安心して受け入れられるファンタジー」とする感覚は、個人差はあれど存在していると思います。

この考え方からすると、せっかく自分から切り離したファンタジーを、また自分と接続しなおす行為は「ありえない」ものに感じます。自分と創作物を切り離して鑑賞することのある種の正しさは、このようなところからも来ているのではないでしょうか。


さて、そうやって肉体性を排除することを意識的にせよ無意識的にせよ行っていると、必然的に「女性の肉体性」と接続する可能性のある言葉は口にしにくくなります。それが「攻に犯されたい」です。

もちろん、腐女子の多くは、本当に「攻に犯されたい」欲望を持っていないのだと思います。というわけでほかに適切な例を考えた時に、露骨なものとしては「BLエロ小説のあとがきで『これは私の体験談です』と言われたときの気持ち」というものが思いついたのですが、それはちょっとずれますかね。ずれますね。

腐女子のなかでは、「BLカプのふたりをみまもりたい」「壁になりたい」「モブになりたい」という発言は許されます。ただし、「受や攻の元彼女になりたい」「攻/受にキスされたい」という発言はけっこう批判が起きるのではないでしょうか。それは、(女としての)肉体が作品世界とリンクすることへの忌避感のように思えます。

ちなみに、BLにおいて、攻はどちらかといえば男性的な役割を、受は女性的役割を、少なくとも性行為描写のうえでは担当していることが多いと思います。

そのため、〈わたし〉の受への愛情は「女性的な存在へ向かうもの」に見えやすく、攻への愛情は「男性的な存在へ向かうもの」に見えやすい。多くの腐女子は異性愛者なので、攻(男性的なもの)に向けられる性愛の矢印は〈女性的な〈わたし〉→男性的な攻〉であり、ヘテロセクシャル的なにおいを連想しやすく、比較的攻への愛情はストレートに口にしづらい、もしくは持ちにくい傾向がありそうです。

(↑この辺わかりづらいので、もっと適切な表現を探しています)

では、受への愛情はどうなのか? 受はBL世界で、女性的なものであるので、愛情の表明の構図は〈女性的な〈わたし〉→女性的な受〉です。もしくは、さきほどの図が逆転して、〈男性的な〈わたし〉→女性的な受〉にもなるかもしれません。

私はこれまで長いことインターネットにふれてきて、多くの腐女子が男性的な単語を使って受けへの愛着を表すのを見てきました。それは「犯したい」という言葉がもっとも象徴的です。

かといって、受を犯すのは本当は〈わたし〉ではない。〈わたし〉の精神性を持ち、〈わたし〉の肉体性を持たない誰かです(ペニバンつけて掘りたい系腐女子ももちろんいますが、まだまだ少数派なのではないか)。もっと言えば、〈わたし〉の肉体性が単語の中に投影されないからこそ、「犯したい」という言葉を使うことができる。

(女性が欲望を表現する単語がまだまだ少なく、男性から借りてくるしかないという考え方もできます。もしかしたらそちらのほうが自然かも…)


〈わたし〉がいない世界は、〈わたし〉がいないからこそ尊く、〈わたし〉を救う。

この感覚は、私が反発を抱いていた『百合男子』的な考え方とは、似ているけれど複雑な形でずれています。だからこそ、わかるようでわかりにくい。

私は長い間、男女の間には違いはないのだと思いたがっていました(だからこそ、『百合男子』的考え方を理解するのに、自分の「腐女子的」な考え方を使おうとしていました)。けれど最近、やはり対称性はないんじゃないか、という思いになっています。

そんなこと当たり前なのかもしれない。ですが、様々な対称性のなさについて考えると、なんだかどんどんつらくなっていきます。

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編集・ライター。現在はアイティメディアという会社で「ねとらぼGirlSide」というメディアを担当しています。好きなものは少女革命ウテナと麻雀。noteでは「よく暮らすこと」「Webメディアの話」を書いていきたいと思っています。
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