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私は、なぜ憤っていたのでしょうか。 島本理生著 『ファーストラヴ』


「環菜が、え、と上目遣いになると、無意識に媚びた目つきになった。いつから身についたものだろうか。」

さりげなく織り交ぜられた文章でした。物語全体を揺るがすほどの影響力を持つ場面ではなかったと思います。
それでも私の気持ちが真壁由紀から少しずつ離れていったのは後から見直せばこの言葉からではないかと思います。


島本理生著  『ファーストラヴ』

アナウンサー志望の女子大生がキー局の二次試験直後、父親を刺殺した事件が物語の中で取り上げられています。
注目されたのは逮捕後の台詞
『動機はそちらで見つけてください』
この物語を一人称視点で支える真壁由紀は臨床心理士の立場から、被告の女子大生 聖山環菜の半生を執筆するため本人とその周囲の人物に関わっていきます。

聖山環菜自身の姿が初めて描写されたのは拘置所内の面会室でした。
執筆を依頼されている真壁由紀ですが、二つ返事で引き受けたわけではありませんでした。裁判に影響が出るのは避けたいという想いもあり、当事者の気持ちを最優先に考えたいからと書かれています。
真壁由紀から執筆の話が出た際、聖山環菜は『そのほうがいいなら』本にしてもいいと思っている、と答えました。
違和感がありました。
ただ、小さな違和感でした。文字を追っていた目がつるりと上滑りしたような、追うべき文章を見逃してしまったような感覚が少しあっただけでした。
その時はさほど気に留めずに読み進めていきました。
読み終えた今なら、その違和感の正体がわかるように思います。
彼女は、自身を題材にした執筆、嫌な言い方をすれば自身の思考や人間関係を「殺人事件の容疑者」のものとして晒す残酷な執筆を許すかどうかの決断を第三者へ委ねました。
本来、『そのほうがいい』かどうか決めるのは聖山環菜であり、少なくとも真壁由紀との信頼関係が築かれていない現段階では大変気分の悪い提案ではないかと思うのですが、彼女はその決断を『そのほうがいい』と決めつけてくれるような自分以外の誰かに委ねたのでした。

「KY」という言葉が流行したのはもう随分と昔のことのように感じます。
空気が、読めない。頭の音をとって「KY」と呼んでいました。
私達は空気が読めない、つまり周囲の状況から逸脱した行動をとる人に対して「KY」と呼称を付けて笑いました。
当時は自分達が、空気を読まず行動する人たちを笑う側だと疑いませんでした。でもきっと、周囲に合わせることなく行動する人を「KY」と名前をつけて笑うことで、私達は自身に「空気を読むこと」を課してきたのでした。
気付けば空気を読むことが身体に染みついていました。
本当はどうしたいのかなんて考えるよりも先に、どう行動することで喜ばれるのかをよく知っている私達はその空気に沿って行動しました。

聖山環菜にも似た気配を感じました。
彼女の父親は画家でした。父親は、自身の教え子が絵を描くためのモデルとして娘を使いました。娘は幼いころから、衣服を一切纏わない男性と寄り添い絵のモデルとして長時間動くことを禁止されました。そして男性ばかりの教え子からの視線に長時間晒されていました。聖山環菜自身は衣服を着用しており、また彼女の視界に直接男性の裸体が入らないよう考慮されていたようですが、傍から見れば異常なその状況を、異常であると気付かせることのできる人物はその場にいませんでした。
ある日父親から家を追い出された聖山環菜は、道端でうずくまっていたところをある男性に声をかけられます。家に帰ることのできなかった彼女は男性の家へ逃げ、その後関係を持ったそうです。男性は当時の彼女の様子を振り返り、抵抗したり逃げる気配がまったくなかった、誘っているとしか思えなかったと話しています。
父親の教え子だった男性も、道端で声をかけた男性も、当時の彼女のことを知る男性は口を揃えてこう言います。
「早熟している」「大人っぽい」
嘘ではなかったのでしょう。彼女は、傍から見ればそう見えたのでしょう。そう見られるよう、行動したのではないかと思います。それを彼らが望んでいると感じたから。空気を読んだのでしょう。

彼女は、自身の身を守るために、または愛されるために空気を読み行動しました。成熟した女性として周囲から見られれば、その視線に答えるよう振る舞いました。まだ幼い、小学生の頃の話です。


私はこの物語を一人称で語る真壁由紀という人物が苦手です。同時に、真壁由紀を苦手だと思う自分はおかしいのではないかとも思います。真壁由紀は、嫌われるべき存在として書かれていないからです。彼女は聖山環菜を救うため、彼女が父親を殺した本人も気づいていない動機を探るため奮闘します。物語によっては、読者に嫌われそうな言動を繰り返すような人物が登場することがありますが、真壁由紀はそうではありませんでした。普通の母親でした。私は真壁由紀を恐ろしく感じました。その恐ろしさは世間と対峙するときに生じるそれによく似ていました。

暴いてほしくなかったんだと思います。
父親には絵のモデルを強要され、母親は助けてくれない。
家を追い出されて逃げ込んだ先、出会った男性に求められたのは身体だけで恋愛なんかではなかった。
それは本当の愛なのか。
それは本当にあなたが求めていたことなのか。

もうやめてくれ。それ以上言わないでくれ。
気付けば心の中で叫んでいました。
真壁由紀が振り下ろした言葉は、そのまま私に刺さっていました。
たとえそれがまだ少女と呼べる年頃の女性だったとして、たとえそれが殺人事件の容疑者だったとして、彼女の中身をこじ開けて取り上げて一つ一つ並べたてるような真似をするのは許されることですか。
私には、人前に裸を晒すのとあまり違いのないことのように思えました。

裁判での彼女は堂々としていました。
それを見て、一人取り残されたようでした。
私が真壁由紀に嫌悪感を抱いたのは、聖山環菜が弱い存在だと勝手に解釈したからだったのでしょうか。
彼女は真壁由紀のことを「私の心に向き合ってもらえた」と話しています。
彼女がそう思うなら、それでよかったのでしょう。
私が抱いた感情は、ただの幻想だったのでしょう。


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