『マスク』の裏に

 この世界には2種類の人間がいる。
 素顔の人間か、『マスク』を被った人間か。

 目の前の男が顔に手をかける。
 それがぺりぺりと剥がされていくその音とともに、私の中の何かが崩れ落ちていくのを感じた。

 彼も、ただ『マスク』を被った人間だったというだけなのに。


 「うーん」
 目を覚ました私は大きく伸びをした。
 カーテンの隙間からは朝日が差しこんでいる。
 私は布団を脇によせ、起き上がると、洗面所に向かった。
 顔を洗い、それから鏡を見ないようにして日課の"メイク"を始める。
メイクと言っても、ファンデーションやマスカラを使うわけではない。
 『マスク』をつけるのだ。

 二十年ほど前に開発されたというこの『マスク』は、つけた人がそれぞれ理想通りの顔になれるという優れものだ。
 これは顔全体を覆うのだが、フィット感が高く、つけていても何も違和感を憶えないようになっている。
 そして、傍から見ても素顔にしか見えない。
 私は物心ついた頃からこの『マスク』にはまり、より理想に近い『マスク』を買うために必死で働いてきた。

 そして今日は、念願の新しい『マスク』をおろす日だ。
 なぜなら今日は、大好きな初彼氏との初デートなのだから。

 私は学生時代、『マスク』のためにバイトに明け暮れ、彼氏ができたことがなかった。
 しかしこの前、友達に誘われて渋谷にショッピングに出かけたところ、帰りに声をかけられた。
 その声の主はなんと、私の理想の男性だった。
 無造作な茶髪の彼は、遊んでいる感じがなくもなかったが、私に声をかけてきた時の彼は紳士的で、ひと目で恋に落ちた。
 私たちはすぐに連絡先を交換し、飲みに行くことになった。
 翌日も仕事だったため、終電前には帰ったが、彼は積極的でスキンシップが多く、私はかなり惚れこんでしまった。

 そんな彼とのデートに胸を躍らせながら待ち合わせ場所に降り立ったのだが、彼は待ち合わせの午後一時を過ぎても現れなかった。
 何かあったのかなぁ、と不安になりながら時計を何度も見るが、彼はなかなか現れない。
 駅前広場にヒュウ、と風が吹き、私は身震いしてくしゃみを一つした。

 それから一時間ほどして、やっと彼が現れた。
「ごめんごめん」
 そう言って手を合わせる彼はやっぱりタイプで、私は思わず
「いいよ」
と相好を崩して許してしまった。
「ありがと。直子は優しいな」
 言いながら頭をぽんぽんと軽くたたかれ、私の頬の緩みはとどまるところを知らなかった。

 デートは楽しかった。
 遅めのランチに映画、そしてカラオケ。
 そしてディナーに行こうか、となった頃、彼の電話が鳴った。
「あ、ちょっとごめん」
 そうことわって電話に出た彼は、だんだんと気まずそうな表情になっていった。
「あー、だから今から行くって。ごめんって。大丈夫だから」
 少し苛立った様子で電話を切った彼は、
「ごめん、ちょっと急用できたわ。また今度な」
 そう言って手を合わせると、私を軽く抱き寄せ、手を振って去っていった。
 私は抱き寄せられたことで上気した頬をおさえるのに精一杯で、気になったはずの電話の内容については忘れていった。


 彼との初デートから数日が経ったある日、私はまた友達とショッピングに出かけることになった。
 早めに着いた私が駅前で友達を待っていると、
「お待たせ」
「ちょっと、遅いんだけど!」
「ごめんって」
 少し離れたところでひと組の男女が話しているのが見えた。
 微笑ましいな、なんて思いながらその二人を見ていると、あることに気がついた。
 男性の方に、なんだか見覚えがある気がする。
 少し遊んでいる感じの無造作な茶髪に、ひょろ長い体型。
 顔は見たことがないが、『マスク』でいくらでも顔を変えられる世の中では手がかりにはならない。
 そんな男性が手を合わせて謝っているのを見た瞬間、私はピンと来た。
 彼だ。
 どうして、なんで彼が知らない女の人と会っているの?
 そう思う間もなく、彼らは去っていってしまった。
 追いかけようとしたが、足がブルブル震えて動かない。
 私は友達に、体調が悪くなったので帰る、と連絡をして、震える足を引きずりながら帰路についた。


 私はその晩、何事もなかったかのように、彼に連絡をとった。
 そして、とにかくすぐに会う日を決めた。
 彼の文面はいつも通りで、優しくて、今日のことが見間違いだったのではないかと思えてきた。
 それならそれでいい。
 そうであってくれ、と私は強く思った。
 思わず握り合わせていた両手の爪が食いこんで、手に跡がついていた。


 とうとう待ちに待った、彼と会う日がやってきた。
 前の晩、なかなか眠りにつけなかったから、目の下の隈がひどい気がする。
 そんな顔を隠すように、私はしっかりとマスクをつけ、鏡を見た。
 にっと笑ってみせる、という想像をするだけで、鏡の中の自分は不敵な笑みを浮かべていた。
 大丈夫。
 私は自分に言い聞かせるように頷くと、家を出た。

 彼が指定した待ち合わせ場所である、人気のない公園に着くと、彼はまだ来ていなかった。
 波立つ心を落ち着かせるように深呼吸をしながら彼を待つ。
 何分が経っただろうか。
 彼がやってきた時、私の手は汗をびっしょりとかいていた。
「お待たせ、ごめんごめん」
 そう言って手を合わせる彼の姿に、私の疑いは確信に変わった。
「あのさ、この前の日曜日、どこで何してた?」
「えっと…何してたっけなぁ」
 彼はあらぬ方を見て呟いた。
「渋谷にいたでしょ」
「えっ!?見てたの!?」
 私の言葉に対する反応が、全てを物語っていた。
「あの女の人、誰なの?」
 私が詰めよると、彼は一瞬驚いた表情になり、そして……鼻で笑った。
「はっ。お前、一丁前に俺の一番の彼女気取ってんの?」
「えっ?」
 聞き返すと、彼はやれやれといった様子で、
「あのさぁ……お前みたいなのが俺の一番手になれると思ってんの? 遊びに決まってるだろ」
「遊び……?」
「そうだよ。つーかさ、男は浮気する生き物なんだよ? いくつも顔を持っていて当たり前だろ」
 私はショックで言葉も出なかった。
 そんな私に追い討ちをかけるかのように、彼は自分の顔に手をかけた。
「もうこの顔もいらねーな」
 ぺりぺりと剥がされていくその音とともに、私の中の何かが崩れていくのが感じられた。

 整っていたはずの彼の顔――いや、『マスク』は、ひらひらと地面に落ちた。
 本当の顔に、醜く下卑た笑みを浮かべた彼は、呆然とする私に背を向けて去っていった。


 ヒュウゥ……。
 冷たい風が体をさらっていく。
 思わず身震いしてくしゃみをした時、私は立ち上がった。
 もう何も考えられなかった。
 私はそのまま公園を出て近くにあったホームセンターに行き、買い物を済ませてまた公園に戻ってきた。
 そうして、その公園で最も太い木の丈夫そうな枝に、手に持っていたそれをかけ、輪を作る。
 作業のように黙々と輪に頭を通そうとした時だった。
「何やってるんですか!?」
 その声にハッとすると、私は自分の手にしていたものに気がついた。
 ロープだった。
「ちょっと!」
 体が固まり動かなくなってしまった私のそばに来た声の主は、ロープから手を離させると、私をベンチに促した。
「どうかしたんですか」
 そう言いながら私の背中を優しくさすってくれる。
「何かあったなら聞きますから」
 その時、感情を失っていた私の目から、ぽろりと一粒の雫がこぼれおちた。
「うっ……ぐっ……」
 そうして、うめき声とともに、堰を切ったように涙が溢れだした。
 その人は何も言わずに、私の背中をたださすっていた。

 しばらくして落ち着いてきた頃、私は俯いたまま、ぼそぼそとその人に感謝を伝えた。
「ありがとうございます……」
「いえいえ」
 その人の慈愛に満ちた声を聞いた時、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
 私は立ち上がると、そそくさと逃げるようにその場を去った。
「あっ、……」
 その人は止めなかった。私の止めないでほしいという気持ちをわかっているかのように。


 次の日は日曜日だった。
 私は布団から起き上がることができず、ただぼーっと過ごした。
 頭に何度も、茶髪の男の仮面の下の顔が浮かび、涙が出てきた。そのたびに死にたくなったが、その気持ちを抑えるように、公園で出会った男性の声が思い出された。
 私はぎゅっと目を閉じると、その声を噛み締めるようにして眠りについた。


 また朝が来た。
 仕事に行かなければならない。
 私はどうにか起き上がると、だらだらと準備をし、家を出た。
 仕事はまったく捗らず、上司に注意されても上の空だった。
 何も考えられず、定時になった途端にすぐパソコンの電源を落とす。
 すたすたと会社を出る私に呆れたのか、誰も何も言わなかった。

 「あれ、この前の」
 声が聞こえてハッとした。
 私はいつの間にか、吸い寄せられるようにあの公園のベンチに座っていた。
 顔を上げると、そこにはにこにこと優しく笑う男性が立っていた。
「お疲れ様です。隣、いいですか?」
 その声は、頭の中で何度も反芻したものだった。
 私が頷くと、男性はそっと、私の隣に腰かけた。
 なんだかほっとする。その時、
 ぽたり。
 膝に置いた鞄の上に、雫が落ちた。
 それに驚く間もなく、
 ぽた。ぽたぽたっ。
 私の目からは涙が溢れだした。
 思わず隣の男性を窺うと、彼は心配そうに、でも柔らかな笑みは消さずに、私を見つめていた。
 私はまた恥ずかしくなって公園を飛び出した。

 次の日も、そのまた次の日も、私は定時で職場を出ては公園のベンチに座った。
 男性は毎日同じ時間に通りかかると、優しく私に声をかけてくれた。
 私は何も語らなかったが、男性はにこにこしながらそばにいてくれた。
 お互い何も口にしなくとも、そこにはあたたかな時間が流れていた。

 そんな日が続いたある日のことだった。
 私がいつものようにベンチに座っていると、空からぽつ、ぽつり、と冷たい雫が降ってきた。
 今日は帰ろうかな、そう思って立ち上がると、いつもの男性が走ってやってきた。
「よかった、間に合った!」
 そう言ってベンチの脇に立ち止まると、男性は膝に手をつき、はあ、はあ、と肩で息をしながら私を見上げた。
「雨ですし、どこかカフェでも入りませんか?」
 一瞬、心が跳ねた。けれど、期待に膨らんだ気持ちは、すぐに薄暗い靄に包まれてしぼみはじめた。
 私は答えに逡巡した。
 黙っている私に対し、男性は困ったように笑って
「やっぱり、嫌、ですかね……」
と呟いた。
 私はバッと顔を上げ、
「違います!」
 思わず叫んでいた。
 面食らった表情の男性が私を見つめる。
「あっ……えっと……」
 ぽつり、ぽつりとわずかに降る雨が2人の沈黙を埋める。
 私は、ここまできたら、と意を決して、うつむきかけていた顔を上げた。
「実は……」
 気がつくと、今までのことを語り出していた。
 途中から雫がいくつも頬を伝っていたが、雨なのか涙なのかはよくわからなかった。
 男性は静かに私の話を聞いていた。
「……だから、もう誰も信じられないんです」
 私が話し終えると、男性は小さく
「そっか」
と呟いた。
 そしておもむろに自らの顔に手をかけた。
 それがぺりぺりと剥がされていくその音とともに、私の中の何かが崩れ落ちていくような気がした。
 再び絶望の淵に陥るのではないかという不安で、手が、足が、ガクガクと震えた。

 はらり、と『マスク』が地面に落ちた。
 何にも覆われていない彼の顔は……悲しそうな微笑みを浮かべていた。
 『マスク』をつけていた時と、ほとんど変わらなかったのだ。
 違うところといえば、少し頬がこけ、自信なさげな様子といったところだろうか。
「突然『マスク』を外してしまって、すみません」
 男性はぽりぽりと頭をかいた。
「僕は本当は、とってもネガティブで弱い人間です。でも……あなたに少しでも元気を出してもらいたくて、強い人間を演じていました。……こんな僕では、信じられませんか」
 まっすぐに私を見つめる男性の目は、今までにたくさん感じてきたであろう憂いを帯びていた。
 私はぐっと心が熱くなるのを感じた。大粒の涙が溢れ出す。
「私……っ」
 涙に邪魔されながらも、私は自分の顔に手をかけてマスクを剥がす。
「自分が嫌いで……みんなに愛されない自分が嫌いで! 素敵な『マスク』をつければ誰かに愛されるって信じて生きてきたの」
 私がうつむき加減で『マスク』を剥がす様子を、男性はじっと私を見守っているようだ。
「でも私、今、素顔のあなたを見て気づいた。『マスク』なんてなくても素敵な人は素敵なんだって。私のために素顔をさらけ出してくれたあなたは、とっても強いと思う」
 私は息を一つ吸った。
「私、素顔のあなたを愛したいし、あなたに素顔の私を愛してほしい。こんな私でも、愛してくれる……?」
 恐る恐る顔を上げた。相手の表情を見るのが怖い。だけど、私は……
「えっ?」
 次の瞬間、私は抱きしめられていた。
「顔なんて関係ない。素顔を、素の心を見せてくれてありがとう。僕は君が好きだ。」
 また、頬に雫が伝った。しかし、今度はあたたかなものだった。
 溢れるものを抑えるように空を見上げると、いつの間にか雨は止んでいた。
 美しいオレンジ色の夕日が、涙でぐちゃぐちゃの、まったく美しくない素顔の私たちを照らしていた。

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