見出し画像

決めても

ある日①
ビールが苦手なのにビアバーに入ってしまったばっかりに、苦手なものをジンジャーエールで割って飲むことにした。やっぱりさっきの餃子屋さんでレモンサワーを飲んだら良かったかもしれない。こういうささやかな選択のミスが多い。どちらかで迷ってやっと買ったパンが期待より美味しくなかったとか、水筒にお湯を入れてきたけど昼間は意外と暑いんかい、とか。もう数十年生きているというのに、間違いが多すぎるのではないだろうか。

ある日②
人生は選択の連続だ、とある人がいった。あたかも、だから自分の人生は自分で切り拓くべきだし、不満があっても全て自己責任だ、と後に続くような強い主張だった。わたしはこれまでの人生をとっさに振り返って、昨晩食べたアイスのことを思い出した。本当は今日食べるべきだったんじゃないかと疑ってみた。

人生はなるようになるさ、とある人がいった。春にしては暑い日差しのなかでも、きっちり厚手のカーディガンを羽織っていて、当然暑そうに顔を顰めていた。わたしはこれまでの人生をとっさに振り返って、雨に濡れて帰った日を思い出した。ちょっとくらい濡れたって風邪はひかなかったなと回顧してみた。

ある日③
人を慰める、という大きな壁が立ちはだかる。わたしはこういうとき、相手の苦しみを寄り添いつつ、その苦しみをある面では否定するという「正しい優しさ」を発揮したいと切に望んでいる。今まで問題解決と共感との正しいバランスを見極めるのに、それはそれは間違えてきたのだ。ただ、相手の側に立って相手のためだけを考えたい傍らで、「正しくない優しさ」で恥をかきたくないという自己保身による逡巡があって、そういう自分が恥ずかしくもある。

目の前で、口早く、かつ詳細に人間関係の悩みが吐露されていく。愚痴かと思えば怒りが飛び出してきて、そうかと思えば寂しそうに落ち込んでいく。いろんな感情がコロコロと出てくるのは、本人の必死さに比べてずいぶんと滑稽だ。そういう振る舞いをみていると、この人は落ち込みこそすれ、悲しみに足を取られない人なんだなと改めて実感する。

わたしにとっては目の前の友人しか面識がないので、無条件に友人の肩を持つことができる(いや、遠くの相手だって手を差し伸べられるわけなのだが…)。しかし、わたしができることといえば、少し前に運ばれてきたピクルスとオムレツを取り分けながら、耳を傾け、ちょうどいいタイミングで頷くことだ。

友人にわたしの慰めなど必要がない。どう慰めようかなどと気構えていったのは杞憂に終わった。ただ、ほっとしているのは、友人の悲しみが軽かったのからか、わたしの優しさを試されなかったからか、今となってはわからなくなってしまった。

ある日④
待ち合わせの約束に遅れられたから、少し街をぶらぶらして待つ。花屋を見つけたので気まぐれで遅れた友人にプレゼントした。相手からすれば、15分遅れたから小さな花束を受け取っているんだと想像すると、花束が刺青にすら思える。

この時間に着くために、この電車に乗って、そのためにはこの時間に家を出て、だからこの時間にはごはんを食べ終わって、それならこの時間には起きなくちゃ、だったらこの時間には寝よう。状況は違えど、人生はこうやってルーブ・ゴールドバーグ・マシン(いわゆるピタゴラ装置)のように、ささやかな選択を積み上げていく。いつ装置への評価を下すかで、それまでの選択たちの全てを蹴りつけることも、全てを掬いとることもできる。ボールがレールを外れたそのときに失敗としてもいいし、その先でたまたまビンとぶつかったときに出したかわいい音を聞けて、成功としてもいい。ただ生きていれば、それまでの全てを肯定できる可能性をもつのだ。生きていればこそ。

ちょっといい醤油を買います。