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雑草

ある日①
暖かくなってきてさすがに庭が荒れ始めたから除草剤を撒いた。数日も経てば草の色がなくなって、カラカラになった。

庭でパクチーや唐辛子を育てるのが目標だ。七輪で焼き鳥とかもしちゃいたいな。うきうき。

ある日②
強制収容所での話を読む。身体を清潔にすることが、人を労働力として”長持ち”させるためのスローガンとして掲げられた。しかし、多くの人はある時点で、自分に清潔に保つことをすっかり諦めてしまう。清潔にすることは健康と生存を保つことなのだから、絶望した人間には必要がないというふうに。

わたしは毎日お風呂に入って、清潔な服に着替える。清潔さについては、外に出た服でベッドには飛び込めない程度には気を張っている。温泉に入って「生き返る〜」と言ってしまうのは、清潔さと生きる意思との重なりを感じているからかもしれない。ああ、生きているなぁ。

ある日③
イチョウ並木が切り倒されようとしている。約750本もの木がビルに変わる。建設に伴って植樹が進められ、従来よりも緑は増えると説明されているが、成木と若木は違うし、何よりも慈しまれてきた年月がこの伐採をそう簡単に受け入れさせない。

あるいは、これは「未来につないでいく」ことだと説明される。

わたしが日々歩く道は、木々を倒し草花を掘り返し黒い砂利が敷かれている。現在は、そのいつかの日からみた、未来としての現在だ。家も、職場も、お気に入りのパン屋さんも、わたしが知る由もない日に拓かれた場所だ。だからイチョウの木々も拓くのだ。よりより暮らしのために、まだ見ぬ未来のために。

わたしたちはたやすく排除される。街は絶えず発展していく。発展しなければ衰退するだけだと揺さぶられる。これはいらないと決められると、簡単に越えにくい線を飛び越えてくるのだ。

ある日④
知らぬ草を排して、見知る草を育てようとする姿勢について考える。庭をきれいにしたいと願っているが、きれいとは何か?整理された状態とは?

とくに、除草剤で一気に枯らすことの暴力さをはっきりと自覚したい。一本一本抜かず、対象をよく見ず、空間として削り取ろうとしている。イチョウ並木を立たせたままにしたい傍らで、草本を踏み躙るのだ。物言わぬ草を取り除くわたしは、市民の声を聞かない為政者とどこが違うだろうか。

わたしたちはたやすく排除する。綺麗でなくてはならない。潔癖でなければ落ち着かない。これはいらないと決めると、簡単に越えにくい線を飛び越えられるのだ。

ある日⑤
意見が合わない人がいる。仲良くなりたい人がいる。
わたしたちは分断する。わたしたちには境界線がある。

対話が大事だと言われるのは、こうした分断を埋めようとしているからだろうか。分断を埋めようとして一方が排除されるなら、分かり合えないままそれぞれで暮らしていくことはできないだろうか。

ちょっといい醤油を買います。