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「以前」でも「米」でもなくて

ある日①
あると思っていたそうめんが足りなくて、そばとそうめんを一緒に茹でる。鍋の中にチョコバニラソフトが広がっているのかと思った。ざるに盛ると余計にチョコバニラソフトみたいだった。
食べすすめてしばらくすると、あるはずのない赤や緑、黄色があるような気がしてくる。当然ない、ひやむぎじゃないから入っていない。当たりが入っていない悪どい福引き機をひき続けて、4等と5等みたいな色の麺を食べる。いつもより色があるはずなのに、無い。ない。

ある日②
ちょっとしたミスをする。なんてことない取り返せるミス。一応「間違えた〜」と独り言を溢すと、「気づけてよかったね」と隣にいた人に返される。まばゆいポジティブさにその人の輪郭を捉えられなくなる。こう、物事の受け取り方が、根っこから違う。違いすぎて羨ましさもなかった。なぜだか頭の中に「タウマゼイン(=知的探求の始まりにある驚異)」の文字が頭に浮かぶ(本当は、いつも「タウマイゼン」と「タウゼンマイ」とごちゃついてしまって、すっと出てこないので、「以前」でも「米」でもないやつ、と変な確認の仕方をしている)。

ある日③
著名人の訃報を耳にする。また。自らの未来を閉ざした話を聞くのは、ほんとうに辛く、暗いことだ。それ自体もそうだが、このとき「好きだったから悲しい」という意見を聞くこともまた心が引き裂かれるように感じる。好きじゃなくても、面識がなくても、命が途絶えることへの悲しみを持ちたいと思う。

わたしはいつか無くなる。わたしたちはいつか無くなる。どんなに幸せを積み重ねても、いつかなくなるというのは、よくよく考えると意味がわからない。「あとで絶対ぐちゃぐちゃにするけどドミノ並べておいて」って言われて、誰が並べるだろうか。うーん、並べそうだな。だから生きているのか。

ただ、「いつかなくなる」という絶望が体を貫かないように、幸せさえも鈍く暮らしている。きっとトリプルリーチしてたって真顔だ。ビンゴしないと意味がないから、ビンゴするまでずっと真顔。しかし、きっとビンゴしない予感がする。「〜する」予感ではなく「〜しない」予感というのは語用として気味悪い気もするが、その方がしっくりくる。人生のビンゴしない感。つまり、うつつに生きるわたしたちの多くが抱える、経験と知恵を蓄積しないまま単に歳をとってぼろぼろになるだけの可能性。わたしたちは使い込まれた器ではなく、使い捨てられる紙皿である可能性。
なんだか勝手に嫌な気分になったので、棒アイスを食う。今日は暑い日。


ちょっといい醤油を買います。