見出し画像

大人だから|もっとやれます

『「大人だから」ってどんな気持ちで言っているの?』
友だちからLINEが届く。雑談にしては気軽な質問ではないけれど、相談にしては切迫感がないので、とりあえず返事を保留にしてお風呂に入る。


脱衣所で振り返る。
正直、こんな質問をされるまで誰かの印象に残るほど「大人だから」と発していることを自覚していなかったし、そんなんだからこんな質問をされてもその友だちの前で、具体的にどんな場面で「大人だから」と言っているのかがわからなかった。けれども、わたしが「大人だから」と言いそうだという認識はある。無自覚だが、それは自嘲と呼べるかもしれない。


頭を洗いながら考える。
大人ってなんだろうか。幼稚園児だったころ、眠くないのに早く寝かされては「早く大人になりたい」と思ったものだ。わたしは大人になれたのだろうか。高校を卒業するくらいのころ、漠然とした将来の不安から「大人になりたくない」と友だちと愚痴をこぼしていた覚えがある。わたしは大人になってしまったのだろうか。

姉は(わたしからみて)義兄と甥と1匹の猫とともに、実家から数駅ぶん海に向かったところに住んでいる(海の方向に向かっているだけで、別に海がみえる場所ではない)。わたしは数ヶ月に1度そこに訪れては姉と近況を話し込む。姉が最近話すのは専ら甥のことで、保育園のことだとかを忙しなく伝えてくれる。子どものことを計らっている人はとっても大人にみえる。それはなぜだろうか。

ここ最近の甥は、愛車(アンパンマンの手押し車)でダイニングテーブルの下を周回している。シナぷしゅを身体を揺らし声をあげながら観ては、おやつに芋をたべ、牛乳を飲む。子どもだな、と思う。かわいいな、とも思う。どんな風に育てたらいいんだろ、と姉がポツリと言う。大人だな、と思う。それはなぜだろうか。

高校生のころのわたしは、大人とは自己矛盾を克服しているものだと無垢に信じていた。大学進学や職業選択なんかは、自分のこれまでの人生を基にこれからの歩みを理由づける機会になっていて、そうして自己矛盾を取り去れるのだ、となぜか信じていた(そしてとても怖気づいていた)。
だから、スナックに足繁く通ってそれを社会貢献だと言い張るのは、ある面でとても大人な姿だと思う。たとえそれが他人に理解されなくても、自分がした行動に自分できちっと理由づけができるなんて大人だ。「スナックに行くやつなんて、、」と他人を見下げながら自分はスナックに通う、そういうやつこそ大人じゃないと、当時のわたしなら主張するだろう。それは間違いだろうか。


湯船に浸かりながら思い出す。
あるとき、「大人だから」といえば、それは「先送りにせずに対処する」ことを指している。目の前で起こっている問題ややらなくてはいけない作業を後回しにせずに取り組みます、なぜなら十分に大人なのでという決意表明である。ちなみに、多くの場合は部屋の掃除機がけや皿洗いなどである。(わたしはちっぽけなことを、こうやって仰々しくしてしまうきらいがあり、しかもそれをユーモアだと思っている節があるのでさらにタチが悪い。)

またあるとき、「大人だから」といえば、それは「波風を立てないことを優先する」ことを指している。明らかに問題があるけれど、それ/それらへの怒りをコントロールして発散せずその場を凌ごうとする言い訳である。ちなみに、その場を凌ぐというのはしばしば何もしないことを意味している。

こうやって、大人であることを都合よく使えるくらい、わたしは成長した。成り果てたのは、かつてわたしが糾弾した自己矛盾を抱えたやつだった。大人は問題に取り組むもので、一方で大人は問題を先送りにする。背反する主張を同時に宿して、わたしはどんな気持ちで「大人だから」と言っていたのだろうか。いや、なんの気持ちもないのだろう。もう大人という単語になんの憧れも抱かず、なんの恐れもなく、都合よく使っているのだから。



熊谷晋一郎さんは「自立は、依存先を増やすこと」だと言う。それをどんなに疑ってみせても人間はそもそもいろんなものに依存しているのだと、これまでの人生を以て痛いほど感じている。「依存先」のことを「頼れるもの」と置き換えてもメッセージはそう変わらないだろう。依存していないつもりなのに。経済的に自立しているし、家事もそれなりにこなせるのに。あのころ思っていた大人とは似ても似つかない姿で、何かに依存しながら暮らしている。
しかし、大人とは自己矛盾なく生きていくことだと信じていたわたしには想像つかないかもしれないが、こんな暮らしのことを良かったとさえ思っている。依存できるような出会いに満ちていることが幸せだと思い、また誰かにもたれかかられる肩の重さにさえ心地よいと感じている。もしそうでなければ、すっかり孤独で、そうしてまで自分の人生が存在するべきなのかという矛盾を(誰かにとって)最悪のかたちで解決してしまっていたかもしれない。



すっかり湯船のお湯が冷めてしまった。慌てて髪と身体を拭いてお風呂からあがる。
一息ついてスマホを手に取る。画面にはまだ『「大人だから」ってどんな気持ちで言っているの?』とある。わたしは十分に遠慮して、自分が考えたことをボトルの表示通りに割ったカルピスくらいに薄めて返事をする。わたしは、ここ数年の喋りすぎるわたしを十分に反省しているので、ちゃんと薄められた、しかもコップ小さめ。反省していなかったら、原液をそのままジョッキに注ぐような愚行をしていただろう。わたしは過去の自分を克服することができる、大人だから。
友だちから返信がくると「パンドラの箱開けちゃった」とある。おいおい舐めるなよ……この箱は二重底なんだぜ…………と臨戦態勢をとっては、すぐにまた反省する。これでも喋りすぎなんだ。もう水みたいなカルピスを差し出すほかないのか。むしろ原液を一滴だけ垂らすみたいなほうがいいのか。適切な量のコミュニケーションってなんだってこんなに難しいんだろうか。わっかんないな。大人なのに。

ちょっといい醤油を買います。