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鈍感

ある日①
D2021×CLP「ガザで一体何が起きているか ーー民族浄化とは何か」を観る。

今、そもそも何が起きているのか、私たちが具体的に何ができるのか、をわかりやすく知ることができます。これは、名刺交換の方法やネクタイの結び方よりも、もっともっと知っておかなければいけない常識だと思います。

わたしたちがSNSで娯楽を得ているとき、同じ世界、同じ時間で、同じ手軽さで、無辜の市民の命が奪われている。圧された女性たちが、未来ある子どもが、殺されている。大きな暴力の前に自分が無力に感じるけれど、わたしたちには、今すぐにできることがある。どうか、あらゆる生命が途方もない暴力から守られますように。わたしたちは幸せだ。けれどその幸せが、世界に存在する理不尽と不正義をとことん無視できる特権だということを自覚したい。


ある日②
ここにも対話はない。洗って開かれた牛乳パックが、資源として回収されるはずの日に忘れられて2週間以上放置されていても、キッチンは静かだ。トイレットペーパーの芯がトイレに放置されていても、リビングは静かだ。

家のなかに突如即席で現れたゴミステーションを無言で片付けていたり、中身が少し入ったまま濯がれずに捨てられたコンビニコーヒーのカップを拾い上げて洗ったりするとき、強烈な怒りが生まれるのを感じる。怒りは声にならず、塊のため息として出てくる。静かな家の空気が少しだけ震えて、またすぐに静かになる。

共同生活は、自分の生活と他人の生活の積集合だと思っている。誰かと誰かの生活が重なっているところ。重なっているところ、というのは「みんなの」生活ではなく、「自分のでも他人のでもある」生活で、だから自分がやらなくちゃいけない。

他人が捨てたゴミが、当然捨てられますよね、みたいな顔をしてこっちをみているので、見捨てずにきちんと捨てる。そこにあったゴミがなくなったことになんの違和感もなく、また新しいゴミがこちらをみている。この世は本当にずるい。自分にかけられた他人のエネルギーをとことん無視できる鈍感さを備えた人が幸せなのだ。

ちょっといい醤油を買います。