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2800年前の船をつくる。

2008年1月28日
イタリアのアドリア海沿いにノヴィラーラという街があります。小さな中世の城郭都市です。古いものを今にあわせないといけません。したがって、いかにして外観で歴史を維持し、塀の内側で現代を語るか。これが建築家の仕事の醍醐味の一つになります。これまで何度もお邪魔したことがありますが、この正月明けにも滞在したお宅が以下です。

およそ500年前にできたこの家の壁にもたくさんの歴史がつまっていました(いや、「います」という表現が正しいかも)。フレスコ画、馬つなぎの留め金具、パン焼き炉の穴・・・・そしてファシスト時代のピストル! それもドイツ製です。戦時中、ドイツ兵の宿舎になったことがあり、ファシスト党の党員だった当時の家主が記念にもらったものです。

なぜ、壁に隠したかって? 政権が崩壊した後にファシスト狩りがはじまりました。「こらぁ、お前、ファシスト党員だったんだろう。このピストルがいい証拠だ」と睨まれるのが怖く、旧家主が壁に隠したのです。それを40数年後、新家主が発見。悪いことはできません・・・・。

上左の写真は門のレベルから一段下がった庭に降りる階段です。この庭の下には、幅90センチ、高さ2メートルの洞穴があります。中世の街では珍しくない網の目状の地下道が、ここにもあります。近くの大聖堂までリンクしているのではと聞くと、もうワクワクしますねぇ。

今週の話は、このノヴィラーラを舞台に展開します。 2800年前、ここは海賊の基地だったと考えた人がいるんですよ。それも髭もじゃの考古学者(あっ、ヤコブ・ビルさん、失礼!)ではなく、アメリカズカップに出場するヨットを作った人が、そう言ったのです。

2008年1月29日

1983年、アメリカズカップにイタリアチームが初参加し、なんと一挙に3位に入りました。アッズーラという名前の船です。これを実際に作ったのがマルコ・コバウ。最速を争うレースで生き抜いてきた人ですね。

こういう世界は、まあ、自動車のF1レースでご存知のように、神経をピリピリとさせるわけですが、戦いの後は美女やシャンパンが似合うようなイメージがあります。僕の勝手な想像かもしれませんが・・・まあ、クルーはどうか分からないけど。そういうところに、こういう船をもってくるとどう思いますか? 下の写真です。

「えっ!!」とびっくりしますよね。「なんなんだ、これは。バイキングの船か??」って。違います。これは2800年前に航海した船です。バイキングは7-8世紀以降ですから、この船はそれより1500年以上は古く、まだローマ時代にもなっていない時代です。実は、これはマルコ・コバウが建造した船です。でも、どうして、彼はこの船を作ったのでしょう・・・・。

2008年1月30日

1800年代の後半に発見された石版レリーフがあります。そこに描かれていた船をみて、「これは戦いに使われた船ではないか?」という好奇心が芽生えた。それがマルコ・コバウだったのです。「それでは、その時代の船を実際に作ってみようじゃないか」と思ったのですが、この絵をそのまま題材に船を作ろうとはしませんでした。

エンジニアの彼は、当時の船に関するさまざまな資料を読み込み、そして設計図をひいたのです。できあがった図面を上の写真の絵に重ね合わせると、なんと一致したのですねぇ。すごい。「アーティストが描く絵なんて信用できるかい!」とはっきりは言いませんでしたが(笑)、エンジニアの心意気です。

使われた木材は現在のノヴィラーラ周辺にはない木です。もっと高度のある場所の木です。しかし、2800年前の気象条件を考えると、 理論的に問題ない・・・・こういうアプローチを色々とやっていくわけですよ。ここで実に興味深いのはお金の出所です。彼が引き出してきたのはEUです。が、実験考古学という名目ではない。それは意外なカテゴリーでした。

2008年1月31日

少年院を出て社会復帰を待つ若者たちが集まるセンターがあります。その彼らが社会体験を積むための予算がEUにありました。コバウはこのお金を獲得したのです。造船現場には、彼らの汗する姿がみられました。それもイタリアの若者だけではありません。アイルランドやフランスからもきました。この体験プログラムはEUのなかでの交流をも促すものでした。船を作り航海に出るのはとても面白かったらしく、若者たちは「次の船はいつ作るの?」と聞いたそうです。

彼らはプロジェクトを終えると全員無事に就職先が決まったといいます。ハッピーエンドですね。さて、それでは航海にでた場所を確認してみましょう。下は地中海(左)とアドリア海(右)に挟まれたイタリア半島です。

ノヴィラーラはアドリア海沿い、ヴェネツィアの南に位置します。まっすぐ東にいくとクロアチア、クロアチアからそのまま南にいくとギリシャです。 ここの海流は反時計回りです。南から現在のヴェネツィアに航海するなら、当然ながら、この旧ユーゴスラヴィアに沿って北上していくのがいいに決まっています。でも交易の歴史を調べると、どうも違うんですよ。

南から北上しながらノヴィラーラの対岸でカクッと曲がって、西、つまりノヴィラーラの近くまできてヴェネツィアに向かっていたことが分かったのです。どうしてなんでしょう・・・。

2008年2月1日

ノヴィラーラの埋葬地から、この時代の鉄の剣や琥珀の首飾りが出てきました。鉄器時代にちょうど移行している最中に貴重な鉄を子孫に譲渡しなかったのはどうして? 琥珀もアルプスの北側でしか入手できないものでした。そういうものを土の中に埋めるのは、よっぽど経済的に余裕があったのだろうと想像できます。

まず、クロアチアの近海でカクッとノヴィラーラに交易船が曲がったのは、あそこに海賊が多かったから、それを避けるためだったろう。すると海賊は黙ってみているわけはなく、挟み撃ちを考えるだろう。そのための基地がノヴィラーラだったのではないか。その頃、海面は現在より3メートル高く、ノヴィラーラは海から眺めると威容な城砦にもみえたはず。そうコバウは考えたのです。

上は現在のノヴィラーラからアドリア海を眺めたところです。2800年前は、海が眼前にまできていたはずです。惜しげもなく鉄や琥珀を土の下に埋めたのも、海賊ゆえの行為だったのではないかということなのですが、「あれは戦うための船だったのではないか?」という疑問が、こうして回答を導いてきてくれたわけです。つまり、戦うとは、海賊が戦うという意味だったのですね。

実はコバウの自宅も、この近くです。そして対岸のクロアチアにも家があります。まさしく海賊と同じ位置でアドリア海を眺めているわけです(笑)。


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