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ピレッティと語り合おう。

2008月2月18日

「わたしはね、マックス・ビルがはじめたウルム造形大学に行きたかったんだよ。準備もしていたんだ。でも閉まってしまったからね、いやあ残念だった。けれど後になって、ディレクターだったトマス・マルドナードがボローニャに教えに来ていたとき、わたしは彼の生徒だったんだ。いい仕事をした人だと思うけど、わたしを夢中にはさせてくれなかったなぁ」

こう語るのが今週の主人公ジャンカルロ・ピレッティです。上の写真の椅子、プリアチェアは世に出て8百万脚以上も売れたといいます。だがデザインした彼自身は、この仕事ではあまりお金を手にすることはできなかったというのですが、その話題は後回しにして、まずは彼の若い頃のデザイン修行の話を聞きましょう。1960年代なかば、彼は25-6歳。

「わたしが結婚した頃はデンマークがデザインの中心だったよ。ユール、ヤコブセン、ヴェグナー、みんなすばらしかった。それで新婚旅行はデンマークにしたんだ。わたしの夢だったんだ。フィンランド人のヴィルカッラもいたね。そこで偶然、ヤコブセンのスタジオで働いていたイタリア人と知り合い、わたしをヤコブセンに紹介してくれたんだ。上の階にヤコブセンがいて、下は所員。結局、2-3週間、見習いをさせてもらったんだ。奥さんはほったらかしてね(笑)。彼女は博物館に行ってたけどね。」

スカンジナビアからもアメリカからも影響なんて受けていない、と言うイタリアのデザイナーも少なくありませんが、 彼は「どこのものであろうと、美しいものであれば芸術作品のようにわたしは近づいていき、無意識のうちの影響をうける。」と話します。というわけで、彼の追っかけもよう(笑)を引き続き聞いてみましょう。

2008年2月19日

「チャールズ・イームズが他の誰よりも抜きん出ていることはすぐ分かったけど、本当にそのすごさを理解するには少し時間がかかったかもしれないな。わたしが彼と実際に知り合ったのはね、カステッリがパリでプリアをプレゼンしたときだった。そのとき、ハーマン・ミラーがアルミニウムグループをプレゼンしたんだね。」とピレッティはイームズとの出会いを思い出します。ポランもイームズを絶賛していますが、彼は自分でも内気だというくらいなので、イームズと近くにいる機会があっても話しかけませんでした。ピレッティはその点積極的でした。

「それから何年かたってピレッティ・コレクションを発表したとき、イームズの奥さんがわたしのことをすごく褒めてくれてね(笑)。彼女が亡くなる数ヶ月前だったな・・・・。わたしは彼のした仕事、全人生、どのように生きてきたのかをよくみてきたけど、学んだことは多かったよ。彼に近い人とも知り合い、イームズのもとで働くようにも勧めてくれたこともあった。すでに結婚してカステッリで働いていたから無理だったけどね。」と話してきて、ネルソンにも言及します。

「ネルソンはハーマン・ミラーの責任者だったわけだが、 彼はイームズの作品をみて、自分より優れていると思ったんだね。それでイームズにデザインを頼んだ、責任者としてね。ブラボーだと思うだろう。ネルソン自身もいくつかデザインしたが、イームズのように記憶に残るものは何も・・・・。イームズは歴史をつくったけど、ネルソンは少しだけ。でもネルソンは賢かった。だからイームズに『おいで』と言えたのだね。」 この部分、才能を存分に発揮する人間と、存分に才能を発揮させるマネージメントのよい関係を示していて、興味深いですね。

このような話をしながら、また時代を遡りスカンジナビアに戻ります。「カイエルホルムとも会ったけど、とても素敵なシェーズロングを作ったね。詩的だった。ユールやヴェグネルとも知り合ったけど、彼らとわたしが違うのは、わたしは生産する数に拘るということだね。木では何十万という数の椅子を作れない。コストが高すぎる。つまりね、わたしは低コストに興味があるんだな」

2008年2月20日

ピレッティは非常に珍しいデザイナーです。自由であることにこだわります。そういうと、「デザイナーは皆、同じじゃないの」との反論が聞こえてきそうです。しかし、彼の会社の仕事の進め方を聞けば、「ああ、なるほど」と思うはずです。なぜなら、彼のデザイン事務所は発注者なしにプロジェクトを進め、そして金型設計と製作まで行い、それらをすべて意中のクライアントにまとめて売るのです。「わたしは、画家や彫刻家と同じように自由でいたいのです」とピレッティは語調を強めます。

「こういう方法をとっているデザイナーは他には知らないね。一時パートナーを組んだエミリオ・アンバースは、わたしの方法を学んだけど、彼がそれを使ってるとは思えない。金型なんて高いものをデザイナーが投資するのはね。わたしは好きで、こうやっているけど。この方法をとっていると、アーティストと同じように自分の好きなことができるんだよ。『見本市出展のためのプロトは準備できたか?』などと人に聞かれるのは嫌だからね。」

ピレッティはリスクをとる側に回ったことによって自由を獲得したのです。たくさんのオフィス家具をデザインしてきた彼ですが、いわゆるオフィスシステムには関心がいきません。あくまでも椅子が彼の興味の中心です。コンピュターがビジネス空間で普及したからといって、それじゃあ全体のシステムをどうこうしようと考えるのではなく、その時に必要な椅子はどうか?という発想をするのです。実際、PCを載せる小さなテーブルがついた椅子を彼は開発し、マイクロソフトが上客になりました。

大量生産されるためのルートをいつも追っている。それがピレッティです。 「わたしは椅子を作って死んでいくのだろう。でもわたしが唯一の人間じゃあない。トネーだってたくさんの椅子を作った(笑)。それが美しかった。まだ生産中だよ。1800年代半ばの作品でまだ生産しているものはない。つまりそれだけ完璧ってことだ。」

2008年2月21日

さてグルリと散歩したところで、大ヒット作であるプリアを開発した頃を話題にしましょう。まず若き日の思いから・・・・。美術学校で面接をしたカステッリに誘われた彼は、アルジェリアで政府関係施設のインテリアデザインをすることになりました。が、「わたしはインテリアデザイナーになりたいのではなく、インダストリアルデザイナーとしてモノをデザインしたいのだ。」と宣言して途中でイタリアに戻ってしまいます。それでカステッリは、午前中は教職、午後は「スペースと給料をあげるから自由に好きなことをやれ」という提案をしたのです。

そこで彼はアルミニウムについて勉強をはじめます。カステッリは家具メーカーではなく、その頃はいわゆる内装業者だったので、社内に木に精通している人はいましたが、アルミの材質や鋳造のことを知る人が誰もいません。独学でアルミニウムに関する知識をえながら、アルミで作るモノを構想していました。コストが安く、光沢があり、クロムのように有害ではない。それがアルミでした。それと同時にプラスチックのことも研究しました。このようにして、アルミとプラスチックの技術が融合した椅子をデザインしていったのです。

ただ、このプリアの開発以前に、彼はいくつかの椅子をデザインしており、そのなかにはアルミと木が融合した椅子もあります。カステッリで即プリアを作り始めたわけではないのです。が、この経過は早送りして(笑)プリアにいきましょう。

彼ははじめから透明の椅子を考えたのではありません。最初は構造をどうするかに集中したのです。折りたたみ椅子、その要となる部分。横にあるノブのところですね。そして座面を透明にしたことによって、ストラクチャーがきれいにみえるのですが、この透明素材はチェリドールというバイエルで眼鏡のために開発中だった素材を使うことになりました。

この椅子をカステッリは「オフィス用ではなく家庭用だ」と評します。たいしてピレッティは「この椅子は色々なシーンで使われるはずで、何々用とかかわらずに生産すべきだ」と主張しました。ビジネスとしての見通しがどれほど正確であったかは別として、ピレッティ自身、この製品の使われ方に関してかなり具体的なイメージをもっていたと思わせるエピソードです。

2008年2月22日

1970年代の前半、ロンドンであるテストが行われました。そのテスト結果を雑誌で読んだピレッティは、ひとつの確信をいだきます。そのテストとは、10脚の折りたたみ椅子を並べ、10人のデザイナーに実際に座ってもらい心地よさを判断してもらうというものでした。一回目は目隠し。二回目は目隠しなし。10脚のうちの一つはプリアです。

一回目の目隠しテストにおいてプリアは5位か6位でした。しかし、二回目のテストでプリアは1位だったのです。「・・・・ということは、選ぶのは目であって、必ずしも座りごこちではないということになるね。第一印象は外見にある。このタイプの椅子は、他の用途の椅子とは違い、座りごごちは優先されない補助的なものだ。 長時間座るものではない。よって外観で選ばれたのです。これはすごいことだよ。」とピレッティはあらたな視点を獲得した経緯を語ります。

彼はこの頃、正確にいうと1972年、 12年間在籍したカステッリを離れます。ロイヤリティ契約もまともになく、自分の努力にみあった報酬が得られていないという不満もありましたが、彼自身の思考の自由が奪われているという感覚が耐えがたかったのでしょう。その後もカステッリのためにデザインをしていますが、彼の立場が違います。

「イームズのエクスプリントという作品を見たときには興奮して、すぐ買おうと思った。わたしには芸術作品と同じだからね。ヴェグネルの椅子もたくさんもっているけど、彫刻品として買ったんだ。こういう風にわたしにはベースとなる規律のようなものがある。 こういう作品が土台になっているんだよ。アートとしての完璧さがないと、わたしは買わないんだ。」

ピレッティは美術学校で学んだデザイナーで椅子も彫刻のひとつと考えているのです。実際、彼はいまも彫刻の制作を続けています。 人によって世界ってこんなに見え方が違うんだ、ピレッティの語りはそういうことを思わせてくれる、そして実に気取りがない。写真でみるように、本当にいい男という表現がピッタリの人物です。

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