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ブローデル『地中海世界』-夜明け

放射性炭素年代測定法によれば、現ヨルダンのエリコでは紀元前7000年頃には集団定住生活が行われ、およそ2千人が住んでいた。これが原始都市の最初とされるが、古代文明の最初として表舞台に出てくるのは、チグリス河とユーフラテス河に囲まれたかのメソポタミアである。

メソポタミアは地中海の外にあるが、そう極端に離れているわけではなく、周縁といえる。この地域が地中海文明が目を覚ます発火点であった。だが、メソポタミアにあった水上輸送が、山地と平地の資源再配分に寄与し、都市間を一つの塊にしたのは確かだが、これが地中海世界の夜明けにどれだけ貢献したのかは不明である。一方、ナイル河を擁したエジプトと交流をした現在のシリア・レバノンにいたフェニキア人の「海洋民族性」が地中海の幕開けを促したといえる。

即ち、紀元前2000年に生じた2つの海洋圏(レバノン沿岸とエーゲ海)が舞台になり、この地域で盛んな交易が進展するのだった。さらに具体的にいえば、レバノン沿岸、クレタ島、エジプトに囲まれたゾーンである。だが、そうした経緯があったにも関わらず、紀元前1200年頃、この地中海東部は歴史上の「振り出し」に戻り、自らのサバイバルに集中するしかなかった。没落の理由はよく分からないが、この地域が製鉄技術とアルファベットという2つのイノベーションを後の世に残した記録は残っている。

再び光が戻るのは紀元前800年頃、フェニキア人が地中海の西部に乗り出し、彼らが覇者となった時期である。フェニキア人は自分たちを守り、交易をする地理的条件には恵まれていたが、食糧を確保するには商工業によって他の地域と交易をするしかなかった。毛織物や貝の殻からとれた染料の評価の高さが彼らの交易を支えた。その後、エトルリア人やギリシャ人との競合状態に巻き込まれ、エジプトに築いたカルタゴが(近代の欧州にとっての)「アメリカ」のように拠点になると共に、本拠地の弱体化の一途をたどる。

物々交換を貫いたカルタゴは地中海の東西を結ぶ要にあって莫大な富を築いたが、紀元前500年頃にはギリシャの経済圏に優越性がでてくる。それはギリシャの扱う装飾品との相対的評価の結果ともいえるが、カルタゴが貨幣の導入を渋っていたからとも想像できる。またカルタゴのその経済的世界観と宗教生活のあまりのアンバランスが、紀元前146年のローマ人の手によってカルタゴが徹底して破壊される遠因となった可能性はある。

<本章で分かったこと>

フェニキア人やエトルリア人など、かつてそうとうな文明をもっていたが、現代の歴史家の視野にはなかなか入りにくい人たちがいる。どちらも、その実績が後の勢力によって「消去」されたからである。消去には消去をする人たちの強烈な論理があり、その強烈な論理が歴史に「生存」した文明の論理として説明される傾向にある。しかし、消去される側の存在感ある論理や習慣が周辺の人たちに恐怖心を招いたことも十分に想像できる。欧州に長く伝えられる文化は「恐怖心」の抑制が効いてきた、と言えないだろうか?


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