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カブールのその

 宮内悠介『カブールの園』を読んだ。

 以下感想

 アメリカの大地あるいは街に漂っている亡霊が憑依して書いている、僕の宮内悠介のイメージ。でもこの人アジアを放浪してたんだよねって思ってたら、子供の頃はニューヨークに住んでたってサ。なるほど。いろんな亡霊が憑依しているから実態は不明で、宮内悠介という概念がフィクションなんじゃないかと思える。
 解説にも書いてあったけど、英語と日本語の間で揺れる感情を書けたのは作者のそんな生い立ちによるものが大きいだろうと思う。その感覚に気づいて、きちんと言葉にして物語に落とし込めるのはやはり才能であるなぁ。そういうふうに育たなければそういう感情の存在に気づきもしないだろう。逆に、全然そんな環境じゃないのに、描いてしまえたらそれはとんでもない才能だろうけど。

 表題作、『カブールの園』
 日系であるがゆえに持つ過去、苦悩、葛藤があり、日系であることに縛られず生きてきたはずの主人公が辿り着く先はその自分のルーツに深く関わっているという話。東洋人の顔で肌の色で、でも自分はアメリカ育ちで日本語もわからない主人公は、どう考えてもアメリカ人で、そこには憧れにも似た思いが個人的にはあるが、白人社会を強く意識する瞬間があるとは考えなかった。東洋人であるがゆえに(と考えられる)いじめられた記憶からの回復を試みなければならなくなってしまったのは、祖父母の代の強制収容そして母に受け継がれなかった日本語といった背景があったと次第に明らかになっていく。自分には見えなかった日本人の血であることや強制収容の記録で触れる日本語に自分が日系人であることは避けて通れないと気づいてしまう。それは一見、悲しいことのように思えるけれど(気づかないですむ運命でいられなかった)、喜ばしいことのように見え、少なくともこの物語の主人公は少しだけでも救われていると思っていいと思う。今まで見えなかった世界が見えて新しい自分との出会いはきっと戸惑いでもあるけれど、晴れ晴れとした心でいられるんじゃないかな。日系アメリカ人(あるいはそれに類するもの)でなければそういう感情に出会うことは絶対にないわけで、それは幸か不幸かわからないけど、日本生まれの日本人の僕には持つことができないものだ。きっと羨ましいんだろう僕は。魂が郷愁を叫んでいるんだ。それまで考えもしなかった(と、少なくとも自分は感じている)感覚が自分の人生を揺さぶるものだとして顕現することは恐怖であり不安であり、逃げたいもので、もやもやした感情とでも言い表す感情が居座り続けて、目を背けて楽になれたらいいのに、その感覚が自分を作っているであろうことはどうあがいても逃れられないもので、それと向き合う勇気をもてるだろうか。自分にとってプラスになるかマイナスになるかわからないものと。いつまでも逃げ続けることはできないのだろうきっと。主人公が逃げた母と向き合ったように。それが最大の治療の一種であったように。カブールの園がVRではなく、主人公が今いる場所に見つけられたように。僕には見つけることができるかな。もう見つけたかな。音楽や小説の世界にしか救いがなかった少年だった僕には。

『半地下』
 この作品も、日本語と英語(あるいは日本とアメリカ(異国))との間にいる苦悩を描く。強い姉。麻薬の力で救いを得る主人公、そして、ドラッグをノーと言って殺された同級生が印象的。皮肉なことだから。SAY NO TO DRUGSと何度か出てくる。皮肉として。
 名前を発音できないと気づいて失恋するのはとても苦しい。名前を呼びたいし呼んでほしいものな。ちゃんと発音できていない名前を、その呼び方が好きだと言う姉は素敵で、それはその人だけが自分を呼ぶ呼び名で、とても嬉しいことだってわかる。
 死ぬときはひとりでいたいかという主人公の問いがある。LSDでトリップしていくとこまでいってなにか掴みかけて、と話す。そしてナオミにそばにいてほしいと、いうこの言葉、僕は好きだな。一人とか誰かだとかじゃなく、君がいいんだ。そう言えたらいいな。そして、最後にどんな言葉を残すかなんてどうでもいいと主人公は言っておきながら、姉の言葉を印象に残している。死の間際に姉が残した日本語と英語の混じった音に意味を感じLSDを食べまくって、これが生だと悲しみの涙を流したとは書いていないけど、ふざけるな! ていう言葉には悲しみの涙を流したように書いてあるような気がした。

 宮内悠介の文章は、なんというか淡々としている。癖がない。癖がないのが癖。そんな感じだ。翻訳小説を読んでいる感覚に近いようで違う。どこに行くのか読者にはわからないけど、流れていく。回送電車のように。駅に停まるわけでもない。
 舞城王太郎のように特急電車の文章の人もいる。止まらないという意味では回送的だが、物語の着地点はある。次の駅に向かってまた加速する。
 各駅停車の作家はいるかな。村上春樹かな。章ごとにめりはりがついている気がする。クールダウンの章を間に挟む、みたいなことを本人も言っていたし。ストーリーのリズム感とか浮き沈みの波は大事だと思う。各駅停車で、いろんな駅がやってくる。そしてちゃんと停まってくれる。
 延々といつまでも環状運転をしている清涼院流水。しかもドアが開かないからなかなか降りられない。僕はなにを言っているのだろう。
 次はどこ行のどんな列車に乗ろう。


もっと本が読みたい。