コクラン

 ロンドン・ジプシーのコクランと言えば、界隈ではそれなりの有名人だ。別にロンドン中の誰もが知っているような名前ではないが、少しでも彼ら根無し草に関心があれば、一度くらいは耳にしたことがある名前のはずだ。
 コクランは「自称ばあ様」の若い女である。茶色がかった豊かな黒髪を持ち、歯が出っ張っているせいで少し間が抜けて見えるものの、愛嬌のある笑みになんとも言えない魅力がある。
 彼女はどう年嵩に見積もっても二十五に届くか届かないかくらいにしか見えないのだが、自分のことは「老齢のばあ様」だと云って憚らないし、周りの者にもそういうつもりで接しているようだった。「ある時から何故だか年を取らなくなった」「昔は立派な旦那様とお屋敷に住んでいた」というのが酔った時に出てくるお決まりの物語で、長く付き合っているジプシー仲間にしたってそんなヨタ話を信じている者は多くない。しかしこのコクランという女は―― あえてこの言葉を遣うが―― なかなかどうして老獪であり、他人を遣り込めるのが上手かった。そして少なくとも十年は"動かない床"で眠らない生活をしているというのに、老いる兆候がまったく見られないのである。
 そういうわけだから、近頃はコクランのことを魔女かドルイド僧の末裔なのではないかと、半ば本気で疑っている者も増えてきたのだと云う。
 私も人並みにオカルトに対する興味は持っているつもりだが、物事を面白がることと信ずることはまた話が違う。だから運送業を営む顔なじみのジプシーにこの話を聞かされた時も、ディナーの席で友人の面白がる顔を見ることができるかもしれないと、そんなふうに思っただけだった。
 ところがこの"コクランばあさん"の逸話は、私のへんくつな友人の興味を必要以上に引いてしまったのだった。

 ある日の夕暮れ時、私は散歩に出かけ、ロンドン大学の近くで友人のスタンレーと出くわした。この遭遇はほとんど必然だった。おたがいブルームスベリーに住み、夕べに散歩に出かける習慣があるのだから。
 とくに示し合わせたわけでもなしに合流すると、軽い晩酌を共にすることになった。その席で持ち出した不思議なロンドン・ジプシーの話に、スタンレーは大いに興味を掻き立てられたようで、大きな目をらんらんと輝かせ始めた。スタンレーという男は根っからの心霊主義者で、この世に無数の霊魂が取り残されていることを信じて疑っていないのである。ただ信心深いだけなら大した問題にはならないが、この男の"厄介さ"はそれだけにとどまらない。

「それは実に面白い。そのばあさんには一度会ってみないとな」

 スタンレーは知的好奇心がもたらす衝動に、まったく逆らわないのである。
 おかげで過去と未来において、私がどれだけ振り回されてきたことか。この時の私はまだ、スタンレーのバイタリティを甘く見ていたのだ。

「直接会いに行くだって? どうやって。相手はジプシーだぜ。今どこにいるかもわかりゃしないじゃないか」

 私が鼻をすすりながら素っ頓狂な声を上げると、スタンレーはみすぼらしく縮れたひげを撫でつけながら得意げに答えた。

「そんなもの、ジプシーのことはジプシーに訊けばわかるだろう。きみにしたってその話はジプシーから聞いたんじゃないのかね。大方そんなところだろう?」

 私にこの話を教えたジプシーの青年のことは伝えていないのだが、お見通しのようだ。私が普段から周囲に関心の網を張り巡らせているわけではないことをスタンレーはよく知っている。

「会ってどうするんだね」
「どうして年を取らないのか、その秘密を知りたい」
「まさか信じるのか? 彼女が実は"ばあさん"で、ほんとうに年を取らないのだって?」
「人間、まず信じてみることからだよ。疑うのはあとからでも間に合うことのが多いのさ」

 どうせすぐに飽きるだろう。そう思っていた私が甘かったのだと思い知らされたのは、その晩から五日後のことだった。直接訪ねてくることなんて滅多にないスタンレーが、わざわざ私の家に上がり込んでまで言うことには、「コクランばあさん」は実在するとのことだった。――いや、私とて実在性を疑っていたわけではない。つまるところ、コクランが「相応に年を取った人間である」という実感があったのだと、スタンレーはそう主張するのである。

「いやはや、有意義かつ奇妙な時間だった。きみもぜひ彼女と会って話すべきだったね」

 満足げにそう話すスタンレーは、私に一枚の写真を差し出してきた。わざわざ写真家を帯同して、コクランばあさんとその仲間たちを撮影してきたらしい。
 私はそこではじめてコクランの容姿を目の当たりにした。髪の色こそわからないが、たしかに話に聞いていた通りで若々しく、とても半世紀にわたって生きていると云われるほどの老女には見えない。
 矯めつ眇めつする私の手から写真をスラリと抜き取ると、スタンレーはまったく別の話を始めた。

「ぼくはね、彼女に名を訊ねたんだ」
「コクランだろう」
「それはね、姓名だろう。それも亡夫のものであって、自分のものではないらしい」
「ロマンティックな話じゃないか」
「そうかね? ぼくには彼女がコクランを名乗り続けるのには、それなりの理由があるように思うがね」
「それで? レディの名前は教えてもらったのかい、色男」

 私がそうやって揶揄うと、スタンレーは突っ張った腹を震わせて笑った。

「いや、残念ながら。彼女はこう言ったよ。『私には名前などない』とね」

 スタンレーがコクランを探し当ててから、さらに一週間と少しの時間が経過した。
 そのころになるともう、もともと乏しい私の興味関心はすっかり失われたも同然になっていて、日々の暮らしに没頭する凡夫に立ち戻っていたのだが、我が親愛なる友の訪いによって、私は再び舞台上に引っ張り出されることとなった。
 ある朝―― そう、昼でも夕べでもなく朝のことである―― 唐突に現れたスタンレーは、興奮した様子でコクランが亡夫と暮らしていたという屋敷(マンション)を突き止めたのだと語った。
 これから実際に行ってみようと思うのだが、とまくし立てるスタンレーに対し、私の気持ちは冷え切っていた。それもそのはずで、私は五分後には家を出発して、今頃自室から逃げ出して近所のコーヒー・ハウスで頭を抱えているであろう偉い先生のもとに、仕事の成果を受け取りに行かなければならなかった。やくざな文筆業で生計を立てているスタンレーは、まっとうに労働に勤しむものの日常というものを理解していないのである。
 私がすげなく「きみ一人で行くように」と告げると、彼は心底つまらなそうにした。これじゃあ市井の子供のほうがよっぽど聞き分けが好いことだろう。
 スタンレーが黙っているのであきらめたものだと考えた私は、彼を放って仕事に出かけ、夕方の五時ごろに帰ってきた。するとどうだろう。十月の冷たい小雨が降りしきる中、スタンレーは私の帰りを待ち構えていたのだった。

「きみの楽しみは知っているぞ、ベンジー。友達想いのぼくに感謝すべきだな」

 呆れと驚きの言葉を口にする前に、スタンレーはそう言った。
 いったい何時知れたのかはわからないが、スタンレーは私が偉い先生方の真似をして書き物をしていることを知っているらしかった。怪奇幻想のたぐいを書くつもりはなかったのだが、こうも言われれば無下にもできまい。今度のことは必ずネタにしてやろう。そういう気持ちを胸に、私はスタンレーについていくことにしたのだ。

 コクランの亡夫が建てた屋敷は、ブルームスベリーからずっと北上した郊外にあった。
 とっくに人手に渡っているものとばかり思っていた私は、見ものをしてすぐにでも帰るつもりでいたのだが、あとになって考えてみれば、そのような事情であったならばスタンレーが「行ってみよう」と言い出すことはなかっただろう。
 屋敷は宵闇の中に忽然とそびえていた。周囲に他の建物はまばらで、人通りもほとんどない。繁華街からそれほど離れていないはずなのだが、街灯りは熱に浮かされたときに見るまぼろしのように遠くに見えた。
 厚ぼったい雲を背負う屋敷は奇妙な存在感を放っている。四半世紀前に立派に建てられたはずの母屋は異様にかんさびていて、その倍かそれ以上は放置されていたものであるように見受けられた。
 私が屋敷のたたずまいに圧倒されるなか、スタンレーは粛々と不法侵入の準備を推し進めていた。崩れかかった石壁の隙間を自分のためだけに広げていたのだ。その慎重極まる破壊活動はどこか滑稽で、見ているうちに笑い出しそうになってしまった。

「よし、ここから入れそうだな。……なんだい、きみは雨具のほかに何も持ってこなかったのか? 仕方のない奴だな」
「仕方がないのはどっちだまったく」

 言い合いながら、我々はそれぞれ頭と腹をつっかえさせながら隙間を潜り抜け、コクラン邸の前庭に侵入を果たした。草を払いのけながら進んで、ガラスの落ちた窓枠から家内に入り込む。
 家の中は雨漏りがひどいと見えて、床板は腐っていて、壁は黒カビに覆われている。とても足の踏み場があるとは思えず、私は「帰ろう」と提案したが、スタンレーは構わず奥へと入り込んでいく。
 スタンレーのあとを追っている最中、屋敷は複数回にわたって不自然に揺れた。湿気のおかげで埃が舞うことはなかったが、私は何度も息を詰まらせて咳込んだものだった。
 やがて我々は屋敷の中心部にある、大きな居間にたどり着いた。かつては贅を凝らした部屋であったことは想像に難くないが、今や時の流れの残酷さを体現している。敷物はぼろぼろにほつれ朽ち果て、絵画の額だけが残り、そこかしこを虫が這いまわっていた。
 スタンレーは周囲の様子をつぶさに観察していたが、大きな暖炉の前までやってくると、「見たまえよ」と私を呼んだ。促されるままやってきた私に、彼は暖炉の中を覗きこむように言った。暖炉の中は煤で大変汚れていたが、よく見ると炉内のレンガに文言が刻み付けてある。
 私は夜目が利かないので、スタンリーに頼んでカンテラの火を近づけてもらってようやく、文字を判読することができた。――『私の名前はジェリー(My name is Gerry)』それがすべてだった。

「子供の悪ふざけか?」
「そう思うかい? しかしね、きみはさっぱり気づかなかったようだが、この文言は家じゅうそこかしこに刻み付けられているんだぜ」
「なんだって?」

 顔についた煤を拭いながらスタンレーに目をやる。てっきり"したり顔"で微笑んでいると思っていたのだが、その時の彼はまじめくさって考え事をしている様子だった。

「これはどうも、尋常な様子じゃないな。この家は病んでいる。じきに"おしまい"だ」
「じきに、って何時だ?」
「そんなもの、わかるわけがないだろう。だがきみもご存じの通り、大ロンドンでは五十年生きるのだって大変なことなんだ」
「それは人間の話だ」
「そうだとも、人間の話だ」

 かみ合わぬ会話をする私たちの目の前で、暖炉が咳をした。――きっとなんらかの原因で、煙の通り道に風が滑り込んだのだろう。異音を立てて、煙棚から多量の煤が吐き出されたのだ。
 スタンレーはそれを見るやいなや、心底「いやなものを見た」というような顔をして、一言も発しないままに来た道を戻り始めた。それも来た時よりもハイ・ペースで。
 いったいぜんたい、あの鈍重そうな体のどこにあれほどの俊敏性が宿るのだろう。私は追いつくのに必死で、家のそこかしこに刻まれていると云う文字を見つける余裕さえ持てなかった。
 窓枠から這い出し、石壁の穴に身を押し付けた直後のことだった。
 我々の背後で目眩く光が閃いて、轟音がそれに続いてさく裂した。よりにもよって、我々がついさっき入り込んだばかりの廃屋敷に雷が落ちたのである。
 私は光に音に地響きにと三度驚かされ、過ぎ去ってもなお残る痺れのような余波に慄き動けずにいた。スタンレーに「早く出てこい」と促されなければ、そのまま勢いを増す雨の最中に立ち尽くして過ごしたことだろう。
 生きた心地がしないままに石壁を潜り抜けると、青白い顔をしたスタンレーが待っていた。彼は私のことを一瞥もせず、尖塔が崩れた屋敷を見上げていた。

「早く帰ろう」

 私が疲れ切った声を出すと、スタンレーは一度頷き、力なくつぶやいた。

「家に名前はないのだ」

 ジプシーのコクランばあさんは、今なお元気に生きている。
 彼女は老いもしなければ死にもしないのだろう。例えある日突然、心臓が止まったとしても。
 そして彼女の生い立ちを誰も気にしなくなったころ、人知れずゆっくりと朽ちていくのだ。そういうわけに、違いない。

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