未達の霊

「買ったばかりの家に幽霊が出る」。そんな相談を受けたのは、仕事中のことだった。
 突然こんなことを言い出したのは―― 私の身分でこの表現を用いるのは、本来不適切なことだが―― 中堅作家、チャールズ・グッドオーク氏だ。彼とわが社との付き合いはまだ三年余りだが、そのあいだはずっと私が担当を務めている。あくまでも出版社の人間と作家の間柄だから、特別親しいわけではない。けれども愚痴を吐く相手としては適当だったのだろう。私が自分の仕事をこなすためにグッドオーク氏のもとを訪れると、彼は原稿を寄越す代わりにそんな話を始めたのだ。
 グッドオーク氏は極めて神経質なたちで、彼の執筆作業の進み具合は周囲の環境に大きく影響される。彼はずっとロンドン郊外に静かな作業環境を求め続けていたのだが、理想の場所はそう簡単にはみつからなかった。食うに困らないほどは稼げているとはいえ、生活に余裕はなく親族の援助も望めないともなれば、本来は妥協をするほかはない。
 ところが、彼はイズリントンに非常に優良な物件を見つけたのだ。一人で住むにはいささか大きすぎるが、庭付きの立派な邸宅を小さな家が買えるほどの値段で手に入れることができたのである。
 この手の上手い話にはたいてい裏があるものだが、なんのことはない。この家の所有権を持つ人物が偶然にもグッドオーク氏の大ファンであり、安値で融通したに過ぎなかった。本人はこの家に住むつもりがなく、持て余していたことも理由のひとつだろう。
 ともあれ、念願の静かな家を手に入れることができたグッドオーク氏だったが、しばらくして問題が発生した。家の中に幽霊が出たのである。それも一度や二度ではなく、毎夜のことだ。
 私は気を使って、「さぞかし恐ろしい目に遭われたことでしょう」と言ったが、それに対してグッドオーク氏はむっつりと首を振った。「いや、それがそうでもないのだ」と言う。
 幽霊はただ現れるだけで、何か悪さをするわけではないのだそうだ。強いて被害を挙げるとするなら、幽霊が一階と二階を繋ぐ階段の踊り場に現れるので、恐ろしくて夜のあいだは階下に降りられないくらいのものである。
 幽霊がグッドオーク氏の生活の妨げになることはほとんどないのだが、神経質な彼はやはり気になって仕方がない様子だった。せっかく手に入れた家を手放してしまおうか、とまで言う。私はうかつに意見を申し上げられないので、「先生の気持が済むようになさるのがいいでしょう」と当たり障りのないことを言って逃げ帰ってしまった。
 私の奇特な友人はこの手のゴースト・ストーリーを非常に好んでいるのだが、私はこの時点で「あいつに喋るのはよそう」と心に決めていた。しかしながら、いつものように屋外で出っくわして食事を共にしたとき、友人・スタンレーは私の顔を眺めながらこんなことを言ってきたのだ。

「きみのところの先生から、何か興味深い話を聞かされたんじゃないか?」

 私は思わず驚きに身を固くしてしまった。それは言葉よりもなお明確な「答え」となり、スタンレーは憎たらしく微笑んだ。

「やっぱりね。そしてきみはそれを友人のぼくに黙っていたと。友達甲斐のないやつだねまったく。しかしね、きみも傲慢なやつだな。作家先生が君だけを信頼してその話をしたとでも思っているのかい?」

 私が考えていたよりも、グッドオーク氏の口は軽いようだ。彼の家に出没する幽霊の噂は、すでに広範囲にわたって拡散されていたようだ。むしろ、私は知るのが遅かったほうであると云う。言葉を失っていると、スタンレーは子供のような無邪気さを両目にみなぎらせ、身を乗り出した。この男がこういう目をするときは、たいていろくでもないことが起こる。そして、私はそれにいやおうなしに巻き込まれるのだ。

「きみが件の作家先生と直接話ができる立場なのは僥倖だね。どうだろう。一晩でいいから、ぼくを彼の家に入れてくれないかどうか、交渉してみると云うのは」
「おいおい、勘弁してくれよ。なんて言って頼めばいいんだ?」
「幽霊の正体を探ってやると言えばいいんだ。うまくすれば、もう出ないようにしてやれるかもしれないぜ」

 いったいぜんたい、その自信はどこからみなぎってくるのだろう。
 私はうんざりしながらも、どうせ断られるに違いないと決めてかかって、グッドオーク氏に困った友人を紹介してみることにした。するとどうだろう。両者はあっという間に打ち解け、意気投合してしまった。この人心に付け入る話術もまた、スタンレーの高い情報収集能力を裏打ちするもののひとつなのかもしれない。
 かくしてスタンレーは週末にグッドオーク氏の家に滞在する権利を獲得したのだが、私は自分でも気づかないうちに、スタンレーの計画に巻き込まれていた。どうやら我が友人は、グッドオーク氏の説得に氏の私に対する信頼を利用したらしい。あれだけこき下ろしておきながら、私の三年余りの仕事の成果を踏み台にするあたり、相当にしたたかな男である。
 グッドオーク氏はスタンレーに二日のあいだ家を貸してやることを承諾したのだが、条件として私の同行を提示したのだ。私としては大変遺憾だが、判断としては妥当なところである。もし不都合が起きた場合、責任を負うのは個人よりも集団、集団よりも会社のほうが補償を受けやすいからだ。
 そういう事情で、私はわたしの意志とは関係なしに、次の週末に自分の家をグッドオーク氏に明け渡すことになってしまった。はからずも、書斎には執筆作業に必要な環境が整えられている。作家先生は「二日間の仮住まいとしては上等だ」と上機嫌な様子であったが、私としては大変に居心地の悪いことである。少しでも早く自分の城を取り戻すために、私はスタンレーを急かしてグッドオーク邸へと向かうのだった。

 イズリントンのグッドオーク邸は、私が考えていたよりもずっとこざっぱりとした、雰囲気の好い家だった。とても「ロンドン郊外」と言えるような場所ではないが、周囲には立派な庭付きの邸宅が多く、幸いにもヴァイオリンが趣味という者もいないようで実に閑静だ。
 ロンドンには幽霊が出る家に住みたがる奇特な者も多いが、私は御免被る。スタンレーに付き合って何件もそのような建物を見てきたが、幽霊の噂のある建物というのは決まって陰湿な雰囲気のある、重苦しい空気が纏いついたものであることがほとんどだ。
 ところが、グッドオーク邸にはそのようなネガティヴなイメージがない。話に聞いた資金で購入できるような建物のようにはとても思えず、私はさっそく困惑させられてしまった。

「建てられてからそれほど時間は経ってないようだ」

 スタンレーは私の横でたるんだ顎を撫でつけながら、そんな感想をもらしていた。
 なるほど、建物はここ十年のあいだに建てられたものであるようだ。その真新しさこそが、こざっぱりとした雰囲気の元なのかもしれない。我々の民族は歴史の重みを感じさせるような物件を好む傾向にあるが、ここ最近の折衷主義的建築物も悪くはない。
 どちらかと言えば新し物好きの私と回顧主義的なスタンレーは、あれこれと好き放題の感想を述べながら、グッドオーク氏に借り受けた鍵を使って屋敷の中に入った。
 エントランス正面には二階につながるかね折れ型の階段があり、正面の踊り場には一枚の絵画が掛けられている。この絵画の目前の踊り場こそが、幽霊の出る場所だと云うのだ。私がまじまじと階段を眺めているあいだ、スタンレーは壁の絵画を気にかけていた。絵画は肖像画で、気難しそうだが男ぶりの好い老年の男性が描かれている。その鋭く怜悧な眼光は、どこか遠い未来を見つめてさえいるようであった。

「聞くところによれば、これは前の持ち主が描かせたものだそうだね」
「なんでそんな話を知っているんだ?」
「いやね、この階段に幽霊が出ると聞いて、『そこには何があるんですか』と訊ねたんだ。するとこの絵があるというじゃないか。何か関係あると思うだろう?」

 たしかに、階段には絵画のほかには何もない。だが、幽霊と絵画が関係しているとは限らないのじゃないか。
 私が言いたいことは、言外に伝わったのだろう。スタンレーは鼻で笑った。

「限る材料がないから訊いてみるんだろう。きみも作家を目指しているなら、もっといろんなことに興味を持ち、いろいろな可能性を想定する癖をつけたまえよ」

 スタンレーは厭味ったらしい男だが、彼の言葉にはいつも一定以上の理があることは否定しえない。私は答えの代わりに黙り込んで、勝ち誇るスタンレーの後について二階にあがった。
二階にはグッドオーク氏の寝室と書斎があるのだが、我々はそのどちらにも入り込む権利を与えられていない。ちょうどベッドふたつが置いておけるだけの小さな客室に滞在して、夜を待つほかないのである。スタンレーはいつものように興奮気味で、なにやらいろいろと喋りまくっていたのだが、私はそのほとんどを聞き流してしまった。
 私が作家の仕事場に侵入を許されない一方で、あちらは私の秘密の仕事場を好きに使っているのである。それがなんとも気に食わなくて、グッドオーク氏の顔を思い浮かべながら過ごしていたのだった。

 そんなふうに悶々として過ごすうち、私はいつのまにか眠りに落ちていたようだ。ベッドの上に腰かけていたつもりが、猫のように背中を丸めて横たわっていた。
 すでに部屋は真っ暗闇に包まれている。起き上がってみると、ちょうどスタンレーがオイルランプに火を入れようとしているところだった。長年の悪友は寝ぼけた私の顔を見ると、「きみは実にタイミングのいいやつだ」と笑った。

「聞こえるかい? ちょっと耳を澄ませてみな」

 私はしばらくぼんやりとしていたが、すぐに自分が幽霊屋敷で過ごしていたのだと気が付いて、黙って耳をそばだてた。するとどうだろう。階下のほうから、人の足音が聞こえてくるではないか。

「泥棒か?」
「そいつは実にまずいな。グッドオーク先生に怒られるどころじゃすまないぞ。確かめに行かないとな」

 わかっている。足音の主は泥棒ではないのだろう。グッドオーク氏は言っていた。幽霊が現れるときには、かすかな足音が聞こえるのだと。
 私は寝起きのけだるい体に鞭を打って立ち上がった。もたもたと動いているうちにスタンレーは廊下まで出て行ってしまったので、後を追う。彼がいないと、私には灯りがないのだ。前にもこんなことがあったなと思い返しながら歩いていると、スタンレーが不意に階段の前で立ち止まったので、背中にぶつかってしまった。

「おい、危ないじゃないか」
「そっくりそのままお返しするよ。それよりも見たまえ。グッドオーク氏の話は本当だったな」

 そういえば、幽霊が出るのは階段の踊り場だった。ようやくそのことを思い出した私は、スタンレーの肩越しに階下を覗き込んだ。
 狭い階段の踊り場には、男が立っていた。室内は光度の低い粗末なオイルランプでは照らしきれないほど暗いのだが、その男はぼんやりと輝く薄い膜のようなものをまとっているせいか、はっきりと視認することができた。
 年のころは、四十より少し若いくらいだろうか。踊り場に掛かる絵画を見上げるその横顔は、どこか絵画に描かれている人物と似ているところがある。とはいえ、本人ではないことは明らかだ。幽霊の男は絵画の人物と比べると、印象があまりにも凡庸だ。年齢的には絵画の男のほうが年上であるはずなのに、目の前の幽霊のほうがよっぽどくたびれて見えるのである。
 私がどのような反応を示すべきか迷っていると、スタンレーは気負った様子もなく階段を下り始め、通行人に話しかけるがごとき気軽さで、幽霊に声をかけた。

「やあ、この絵画は、あなたがモデルですね?」
「そう思うかね?」

 スタンレーがごく至近まで近づいても、まっすぐ絵を見つめたまま動かなかった幽霊は、スタンレーに声をかけられたとたん、機械的な動きで首だけを向けて返答した。私などはその奇妙な動きに慄いてしまったのだが、スタンレーは彼が人を騙すときによく使う愛想のいい笑顔を浮かべながら、鷹揚に頷いて見せた。

「ええ、そうでしょう。違うのですか? よっぽど腕のいい絵描きに描かせたのでしょうね」

 スタンレーがはっきりとそう告げると、幽霊は「そうか」とつぶやいて、ただちに消滅した。幽霊が纏っていた光の膜だけがチラチラとその場に残ってなおも輝き続けていたが、それらもやがて消え失せた。
 そのあっけない幕切れに唖然とする私のもとに戻ってくるなり、スタンレーはつまらなそうに嘆息する。どうやら彼は、私以上に「あっけなさ」に落胆しているようだった。

「用事が一晩で済んでしまったな。話を聞く限り簡単に済む話だと思ってはいたが、ああもあっさりと満足してくれるとは思わなんだ」
「いったいきみは何を言っているんだ? 何をした?」
「さてはベンジー、きみ、ぼくの話をさっぱり聞いてなかったな?」

 降参の意味を込めて肩をすくめると、スタンレーは彼にしては珍しく盛大に嘆息した。

「いいかね、あのゴーストはこの家を建てた商人だ。彼の父は非常に立派な人物でね。自分の手でひと財産築き上げたにもかかわらず、父親に対する劣等感からずっと抜け出せずにいたそうだ」
「それじゃあ、あの絵画はその父親の肖像画なのか?」
「いや、それがそうじゃない。あれは商人本人が『未来の自分』を描かせたものだ。まったく絵描き泣かせの無茶な注文だよな。本人がそっくり老いた姿を描いたのじゃ、納得してもらえないだろう」

 私は黙って絵画を見返した。どうやらこの人物は、『どこにも存在しない人』だったようだ。

「商人は絵をいたく気に入り、その通りに威厳に満ちた晩年を目指して邁進したそうだが、苦労が祟って四十前に死んだのだ。その後のことは、ぼくの知るところじゃない。巡り巡って家がきみのところの先生のものになったのさ」
「あの幽霊は、いったい何が気がかりでこの家に残っていたんだ?」
「おいおい、本気で言っているのかい? もっと想像力を働かせろよ。自分が"あの姿"になれるのを待っていたんだよ。素敵に年を取るのをな」
「そんなわけがあるか。幽霊は歳をとらない」
「まったくもってその通り、だがそれは我々の理屈だ。死んだ本人には関係ないことさ。しかし人間のまっこと悲しきことよ。死してなお、理想の自分になれないとはな」

 私とスタンレーは夜が明け次第、元の生活に戻った。
 最初こそ懐疑的だったグッドオーク氏であったが、新居に幽霊が出なくなったと確信するに至ると上機嫌となって、その年は何篇もの短編小説を書き上げた。
 余談だが、グッドオーク氏は私の仕事部屋で秘密の原稿を見つけ出したらしい。寸評を聞いた私の顔色は青くなったり赤くなったりしたが、ひとつの指針となったことには感謝すべきであろう。
 ともかくも、この時の私は書き溜めたものを公開することを先送りにしたのだが、同時にいつか世にさらけ出さねばならぬとも考えた。未達のまま死に、いつ至るともわからぬ幽霊になるのは御免だからだ。

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