おいしいものが食べたい

「盗撮のことを、もう少し前向きに考えてみたっていいと思うんです」
 穴切 正之さん(35)はそう語る。
 芯の通った力強い声には、一流企業の営業マンといった雰囲気もある。
 しかし正之さんは、かつて都内のカフェやショッピングモールなど商業施設の利用者を中心に、男女問わず二千人以上もの人間を『盗撮』してきたという、異色の経歴の持ち主だ。公衆トイレの個室内、スポーツセンターの更衣室、雑誌を立ち読みする女性のスカートの中、はたまた民家の浴室など、気の赴くまま様々なところにカメラのレンズを向け続けた。自身の行為を見とがめられたのは、人生でたったの一度きりだそうだ。
 今回待ち合わせ場所として指定していただいた喫茶店は、現役の盗撮犯として活動していた二十代の頃、サラリーマンとしての仕事の休憩時間によく利用していたのだという。時間帯の問題もあるだろうが、広い店内に人はまばらで、大学生くらいの青年が読書している他には、若い女性客が数組見えるだけだ。
 正之さんのおすすめはアイスコーヒー。きりっとした味と氷のぶつかる音が、暑い日の頭を冴えさせてくれるのだと笑う。そんな氏の言う「前向き」とは、一体どういう意味なのだろうか?
「多くの人が、ものの価値を最初から決めつけてしまっているということです。世間ではみんな盗撮を悪く言うんです。いや、それ自体は当たり前のことですよ。問題はその先でして……」
 そこまで喋ったとき、正之さんはふと口をつぐんだ。
 氏の周りの空気が一瞬で変わったような気がした。
 どうしましたかと記者が訊いても、答えは返ってこない。その視線は私を通り越し、店内の一角に注がれているようだった。やがて彼はふいと立ち上がると、つかつかとまっすぐに歩いていき、一人の青年の肩に後ろから手を置いたのである。
 彼はトイレに行こうとして立ち上がりかけたところだったようで、突然の出来事にびくついて、振り返ったまま固まってしまっている。あわてて後を追ってきた私も呆然としている中、正之さんは小さな声でこう言った。
「なってないな」
 そして、青年が小脇に抱えていたバッグに素早く手を入れ、なにやら黒くて小型の長細いものを取り出すと、なんとそのまま卓上のコップの水の中に沈めてしまった。目にも留まらぬ早業であった。
「きみには素質がない。それでは人に迷惑がかかるんだ。別の方法で折り合いをつけて生きていきなさい」
 そう言われた青年は俯いたまま、消え入りそうな声で「すみませんでした」と呟いた。見てみると、コップの中の黒い道具にはレンズがついていた。小型のハンディカメラ……そう、彼は盗撮犯だったのだ。驚くべきことに正之さんは、座っていた彼の挙動を視界の端にとらえただけで、彼がなにをするつもりであるか見ぬいてしまったのだった。
 一連の出来事のあいだ口を挟むこともできずにいた私は、その光景に往時の正之さんの姿を見た気がした。彼が忍者のように数々の盗撮を成功させてきた理由は、行動に対する迷いのなさにあるのだろう。
 いちど動き始めたあとは、一つ一つの動作を一瞬たりとも躊躇わない胆力。凡夫の思考が正之さんのスピードに追いつくより前に、為すべきことを終えて去っていく。盗撮を通して培った決断力が、現在の仕事にも活きているのかもしれない。
 奇しくもこの日の取材は、そんな出来事から始まったのだった。

 それからある場所に向かうため、私たちは喫茶店を出た。
 道すがら、氏は先ほどの一件について詳しく説明してくれた。
「あの店はどこに座っても店内の全ての席が確認できる上に、トイレ内には共用の個室が一つしかないから、利用状況が把握しやすい。さらに洗面台までのドアには鍵がかからない。絶好のロケーションなんです。
 あの子は本を読むふりをして、他の客たちの様子をずっと気にしていた。おそらく、ターゲットが個室に入るのを待って追いかけ、ドアの上や下からカメラを突っ込もうってわけでしょう。ですが、店全体を見渡せるというのは誰にとっても一緒なんです。女性が立ち上がったのを受けて、離れた席の誰かも立ち上がったら、店内でいきなり二つの人影が動くことになる。実はこれが外から見るとかなり怪しい。そこに気をつけないというのは、自分がどう見られているかを空間的に意識する能力がない証拠ですね」
 盗撮に必要なのは見る力だけだと思われがちだが、現場では見られ方を把握する力も問われるものなのだ。自分がいかに盗撮という行為について無知であったかを痛感させられた。
 そこで、話の続きを聞かせてもらうことにする。「ものの価値を最初から決めつけてしまっている」と氏は言った。それはつまり、盗撮には世間が思っているのとは違った価値がある、ということなのだろうか?
 正之さんはしばらく考えるような仕草を見せたあとで、一つの喩えを出した。
「なにも考えずに犯行を繰り返し、数人ほど撮ったところでヘマをして捕まった人間。とにかく慎重に事を運び、誰にも知られないまま何千人もの人を盗撮して、ついに逮捕されることなく引退した人間。どっちがより悪質だと思いますか?」
 それは後者だろうと私は答えた。害を与えた人数が多ければ多いほど、当然ながら罪は重くなる。何千人も毒牙にかけ、あげく罰を受けることなく逃げおおせた人間の方が、倫理的な観点から見れば悪に決まっている。
「その『害』というのが間違っているんです。そりゃあ傷害事件なら、一人ケガさせるより二人ケガさせる方が悪いですよ。しかし盗撮は違います。自分が被害者となったことを本人が自覚しなければ、なにもされなかったのと同じ状態になる。極端な話、絶対にばれないという前提さえあったら、世界中の人間全てが盗撮者になったとしても社会は成立しますよね?」
 するかもしれない。では、前向きという言葉の意味もそこにある?
「そうです。盗撮は成功しているかぎり、される者を傷つけない。いくら撮ろうと被写体がすり減ったりすることもありません。する者の幸福だけを錬金術のように増やしていくことが可能です。うまく運用されれば、社会に絶大な恩恵をもたらすのです。それなのに人々はデメリットにしか目を向けず、正面から取り上げようとすらしない。盗撮そのものをなくすのではなく、正しい技術教育を浸透させ、失敗を減らしていくという方向になぜ進もうとしないのでしょうか?」
 主張は単純明快で、子どもにも理解できるものだ。しかしこうして、一度も人々に真剣な課題として受け止められることのないまま、いつの間にか解決したことになって消えていく物事がたくさんあるのだと正之さんは言う。ルポライターとしては耳の痛い話だ。
 ところで、幸福の量だけが増えるということは、果たして特別なことなのだろうか、と私は疑問に思った。一人で部屋にこもって絵を描いても満足感を得られるように、誰かの不幸と引きかえにせず生まれる幸福は、世に多く存在するのではないか?
「いいえ。盗撮は『社会的である』そして『嗜虐的である』という点が重要です。なぜか幸福は量で語られがちで、しばしば質を問題にしてもらえないので、世の多くが安易に置き換え可能なものとして扱われてしまいます。カレーとシチューは同じくらいおいしいものだから、カレーだけ残してシチューは禁止にしたっていい……と、こう言えば明らかに変だとわかるんですが、あちこちに同じロジックが蔓延している。
 人間誰しもが、攻撃的な衝動を持っています。人を傷つけたいという欲求は強烈で、無理なく昇華するのが難しく、知らず知らずのうちに誰かにぶつけてしまったりする。そこで盗撮なんですよ。盗撮は人の尊厳を蹂躙し、毀損する。そうした鋭利な暴力性のはけ口となりうる。なのに、実際には誰も傷つけずに済ますことが『できる』んです。手品みたいですよね?」
 盗撮に多くの可能性と夢を見ている正之さん。
 あの喫茶店で、青年の行動を咎めた理由も分かった。ばれなければ誰も傷つけないとは、裏を返すと、ばれてしまえば暴力と変わらないということだ。いずれ失敗するであろう盗撮者を野放しにしておくべきではないと考えているのだろう。
「それもありますが、もう一つ。誰かが失敗すると、店側の防犯対策が強化されることになるんですよ。盗撮は場所探しが九割と言ってもいいくらいなんですが、せっかく見つけた良いスポットを、初心者のヘマで潰されることも多かった。だから、レベルの低い同業者はさっさと追い払わないといけない」
 なるほど、と思った。「人に迷惑がかかる」とは、被害者だけでなく他の盗撮者のことも指していたらしい。
 だがこうして同業者という言葉を使いながらも、当の正之さん本人はすでに引退している。今の話を聞くかぎりでは盗撮をやめる理由が見当たらない。なぜ一線を退いてしまったのだろうか?
 氏が語るところによれば、引退を決心する直接のきっかけとなる出来事もあったが、それとは別にうすうす「潮時と思っていた」そうである。子どもの頃から身体が強いとは言えなかったが、加齢と共に持病が悪化し、「責任の重さに身体がついていかなくなった」部分が大きいという。
「たとえばある人物が逮捕されて、こいつは過去十年間にわたり無差別に女性を盗撮しまくっていたんだぞ、と報道されてしまったとしましょう。これはとんでもないことですよ。十年間その人にかかわった女性、いやそいつの行動範囲で生活していた全ての女性に不安を与えることになりますからね。アウトブレークと言ってもいい。
 こういう場合に警察は、どんなに嘘くさくても件数や内容をかなりマイルドに発表した上で、『映像から身元の特定できる被害者には直接謝罪した』としながら現実には誰にも連絡しないというような処置を取って、多少なりとも市民を安心させるべきだと思います。それはともかく、長くやっていればいるほど、露見した際の社会的影響が大きくなる。だから、ベテランほど重い責任があるんです」
 だが実際の盗撮者の行動は逆だそうだ。撮れば撮るほど油断するようになるし、どんどん大胆にもなっていく。ほぼ確実に安全な手段で撮り続けてきた人が、ある日いきなり命綱も着けずに飛び込んでいき、あっけなく逮捕というケースも枚挙にいとまがないという。
「歳を取ると感受性が鈍くなって、より強い刺激を求めはじめるんですね。たいてい止めてくれる人もいませんから、それこそ逮捕されるまで……いや、逮捕されて止まるのも、一握りでしょう」
 逮捕されても止まらない。だったら、あの青年もやはり?
「ええ。逮捕どころか、僕にちょびっと怒られただけですからね。場所は変えてくれるかもしれませんが、どうせ盗撮は続けるでしょう」
 呆れたように話しつつも、正之さんはどこか嬉しそうだった。
 本当は心の中では、あの青年が今ごろ「折り合いなんてつけられるものか」と毒づいていることを――そして、懲りずにまた他のスポットを探しにいってくれることを望んでいるのかもしれない。私の目にはそう見えた。

 現役を退いた正之さんは、それでも盗撮に関わることをやめなかった。
 氏をこの世界に留めたのは、かねてより頭の片隅にあった一つの事実だった。「盗撮で逮捕された者たちは、往々にして周りの評判が良い」というものである。性質上とりわけ頻繁に報じられる、教師による盗撮事件は格好の例だ。逮捕された元教師の同僚や保護者たちは、必ずと言っていいほど「教育熱心な先生だった」と証言する。
 もちろん、「そんな人には見えなかった」なる言葉は事件取材において定番ではある。いかにもなにかをやらかしそうな人物ではなく、日頃その素振りを見せなかった人物という面を強調することで、社会に紛れた危険人物への注意喚起を促すという意図がある。新聞記事を読んだだけでプロファイリングなどできない。
 ところが、正之さんには中学校の教師を務める友人がいた。
 盗撮を通して知り合ったわけではなく、出会った頃の彼はまだ手を染めてもいなかった。だが同業者は匂いで分かるという。もともと精神構造が盗撮の形をしていることも、ある時期に一線を越えたらしいことも、本人の告白より先に気づいていた。
 同僚に言えるはずのない苦悩を、彼はこんなふうに漏らしていたそうだ。
「教職は苦しいけどやりがいがある。生徒たちのことが好きだ。天職だと思う。教師をやめるか盗撮をやめるか迫られたら、盗撮をやめたいくらいだ。けどやめられない。なあ穴切、俺ってそっちが本体なのかな? 生徒の成績が上がったことを喜んでるときの自分と、カメラを無事に回収してほくそ笑んでるときの自分と、どっちがほんとなのかわかんないよ。
 可愛い生徒たちを裏切る快感を吸って生きてるこいつが、俺を都合よく操ってるのかな? 善良に振る舞うことで幸せを感じるように俺の脳をいじくって、生徒たちや先生たちに笑顔で挨拶させて、周りの信頼を得させてるのかな? 俺は、こいつを安全に狩り場へ運ぶためだけに生まれた、単なる乗り物なのかな? ……こんなこと言われても困るよな。どっちもなにも犯罪者のお前が一人いるだけだろって思うよな。なあ、穴切はなにが楽しくて生きてるんだ? 死後に天国へ行けることか?」
 程なくして彼は逮捕された。そのあと氏が人づてに聞いたところによれば、彼の学校での勤務態度は至極真面目で、生徒からも男女問わず人気があったそうだ。人を笑わせるのが好きな人だったと述懐する者もいたのだとか。
 犯行が露見したことがきっかけで、彼の中から「こいつ」がいなくなったかどうかは本人にしか分からない。だがとにかく大勢の人々を傷つけ、生徒の中には現在も心療内科にかかっている者もいるという。彼自身も全てを失った。詳しい近況はうかがい知れなかったが、現在は介護職に就いているそうだ。
 その友人の逮捕を受け、正之さんは個人的に調査を始めたのだった。
 教師の逮捕のニュースが出るたび、校名でツイッター検索をかけて生徒のつぶやきを探し、リアルな評判を確かめた。ほとんどは一般公開されていないアカウントだが、誰でも読める状態で学校のことを書いている学生のアカウントもちらほらと見つかる。記事ですでに実名が出てしまった後だからか、そのまま名指しで書いているものも。一番よくあるのは、リプライ(他のユーザーとのやりとり)の中で名前が出てくるパターンだ。
『○○ってどんな奴やったん?』
『全然ふつーだよ笑 てか、めっちゃ真面目っぽい先生やったんでガチびびってる オタクみたいな感じでもなかったし』
 手を変え品を変え調べていく中で、正之さんはいよいよ確信を持つに至る。
 教職は、長時間の残業や部活動での休日出勤など労働条件も依然厳しく、子どもを預かる立場としての精神的負荷も大きいため、まともな人間には務まらないとすら言われることがある。だが逮捕された彼らは揃ってむしろ真面目であり、まれに見るほど教育熱心な先生たちであった。
 表向き品行方正に見える人間ほどストレスを溜め込み、こうした犯罪に手を染めやすいのだろうと普通は思うに違いない。正之さんの考えは、歪みの蓄積に注目したという点ではそれと表裏一体だが、方向としては逆だ。つまり、彼らは盗撮をしていたからこそ、申し分なく教育者の役割を演じることができていたのだと解釈する。習慣的な盗撮には、精神状態を健全に保ち、人格をより良いものとする効果があるのだと。
「これはどこにでも存在する構図です。他者を攻撃すること以上の快楽がありますか。たとえば権力者の立場なら、盗撮よりもリスクの低い『弱者の傷つけ方』だっていくらでもある。そうして人を食べて得た養分によって元気に日々を過ごし、なんらかの形で社会の発展に寄与しているという人々は少なくないはずです。
 発展のために供物を捧げる社会構造を肯定するつもりは決してありません。しかし実際にそうなっている。望む望まざるにかかわらず、社会の血肉は汚れた栄養で作られ、今を生きる我々はすでにその恩恵を享受してしまっているんです。目をそらすわけにはいかないでしょう」
 たとえ資源が無尽蔵となり奪い合う必要がなくなったとしても、人類は傷つけ合うことをやめないだろう。先ほどの表現を借りれば、幸福は量ではなく質であり、攻撃の快楽はその他の快楽で代替できないものとして端的にあるからだ。
 正之さんは語る。人生の目的が幸せになることだとして、そもそも幸せとはなにか。
 会社への奉仕や子孫を残すことが無条件に信奉されていた時代は終わった。たとえばある者が、自らの幸福を最大化する唯一の解は「殴って奪って犯して暴れて自殺する」ことだと確信してしまったとして、その後もこの息苦しい世の中で地道に生き続けようなどと思うだろうか? 生まれてから死ぬまでの数十年、わざわざ社会への貢献などのために働いたり、生き続けたりする必要がどこにあるのか。
 人間として最高の状態とはなにか。他の全員が律儀にルールを守ってくれている中で、自分だけがそのルールを破って得をすることだ。私たちはみな、誰かがそのことに気づいて、それができる状態になってしまうことに怯えている。そうして私たちは、道徳や社会通念としての幸福を持ち出す。お互いに「おいしいものが食べられたら幸せだ」と思い込ませ続けておくよう必死になっている……。
「そこで盗撮ですよ。盗撮は、言ってみれば『誰もが自分だけ得ができる』んです。そして養分も得られます。ベジタリアンにとっての豆腐ハンバーグのように、僕たちが人間を食べずに済ませるための代替食品となりうるのではないでしょうか?」
 正之さんはそれに気づいたとき、雷に打たれたような気持ちだったという。

 そして二年前の春、正之さんはNPO法人『ドアドア』を設立した。
 どこか部族的な響きのあるその名前は、「あなたのドアとわたしのドア」を意味する――というのは後付けであり、実際は氏の好きなファミコンゲームから取ったそうだ。
 ドアドアが最も力を入れている事業は、盗撮の理念や心構え、実践的な方法について教える盗撮教室である。生徒は随時募集しており、入塾条件は三つ。十五歳以上であること、盗撮に興味があること、通っているあいだは教師の許可なく盗撮を行わないことだ。すでに幾人かの卒業生も送り出している。
「新聞やネットニュースには目を通していますが、嬉しいことに、卒業していった彼らの名前を見かけたことはまだありません。便りのないのは元気な証拠という言葉の通りですね」
 ここでは、具体的にどのようなことを教えているのか?
 今回は撮影しないことを条件として、特別に授業風景を見学させていただくことになった。準備作業があるという正之さんと別れ、授業開始十分前に教室に入ると、十人ほどの生徒がすでに着席していた。私はその場で挨拶し、記者として最後部の席に座ること、自分は警察関係者ではないことを伝えた。
 ほどなく開始時間になり、機材を抱えた正之さんが入ってきた。ちなみにドアドアには事務などを担当するスタッフが数人在籍しているが、授業を行うのは氏ひとりだけである。公務員の友人が副業として助手を務めてくれるという話も出ていたものの、逮捕によって流れたらしい。
「今日は、実際に撮影に臨む際の態度についてです。とても大事な内容です。まずはビデオを見てもらいます」
 まさか盗撮映像を? と思ったが……スクリーンに映し出されたのは、免許更新時の講習ビデオを彷彿とさせるようなミニドラマだった。あとで聞いたところによれば、動画編集の心得もある正之さんが監修したという。長年の盗撮によって身につけた技術の一つだ。
 小学校中学年くらいの男の子が、なにかわがままを言って両親を困らせているというシチュエーションらしい。カメラがズームしていくにつれ、口論の内容が聞き取れるようになる。こんな内容だった。
『……だってさ、女どもは自分の肉体に金銭的価値があることを鼻にかけてるじゃないか。何様なんだって感じじゃん。ムカつくんだよ。だからボク、すべたどもの○○○とか○○○を盗み撮りしてさ、ネットでお値打ち価格でばらまいてやるんだ。てめーの裸に600円(税抜)の値がついてるとこを本人に見せつけてやるんだ。3匹分まとめて売ったら1匹あたま200円だぜ。しかもどうせそのうち無断転載されまくるから実質0円だ。あいつらの○○○の爆安な海賊版を出回らせて、正規版の○○○の価値を暴落させるんだ! わははは! 無料で落とせる○○○を、わざわざ金と時間かけて股開いて見るほどみんな暇じゃねえからな! 誰にも相手されずに生きてけロハ○○が!』
『なんてことを言うんだケンイチ! 俺も母さんもなあ、おまえにそんな割り算をさせるために小学校へ行かせてるんじゃないぞ!』
『うるさい! 学校で習ったことをどう人生に活かそうがボクの自由だ。バカ女ども、外から見られる部分だけ取り繕って、中身空っぽのくせに一丁前の顔しやがって。わたしたちは清潔ですみたいな顔しやがって。あいつらにプライベートなんて上等なものは必要ない、どんな個室の中であってもな。ざまあみやがれ! ○○○○○や○○○しながら油断しきってるおまえの○○○や○○○だけをおまえとして世界中に拡散してやるからな。せいぜい今後はもっとイ○スタ映えする○○○ぶら下げて生きていくんだなあ!(注:伏字は編集部の判断による)』
 それ以降も五分ほど映像は続いたが、倫理的観点から当記事への掲載はここまでとする。
 正之さんがリモコンを操作すると、男の子の両親が、ほとほと困り果てたといったふうに顔を見合わせているコマで画面が止まった。衝撃的で露悪的な内容に、嫌悪感もあらわにため息をつく生徒もいる。
 彼は咳払いをひとつして、「覚えておいてください」と話し始めた。
「一番やってはいけないのは、このように異性への歪んだコンプレックスを爆発させ、報復感情によって盗撮をすることです。もてない男がいだく女性への憎悪はとても危険です。持たざる者は持つ者を偏った形で評価し、『社会的に正しくない』と見なすことで自尊心を保とうとし、女=悪を叩く正義感に酔いしれる。正義という後ろ盾を得たつもりで堂々と女子トイレに出入りする男は、人として終わりだと言わざるをえません。
 初めから感情に振り回されていては、いつか必ず暴走します。そしてみなさんの中でたとえば、自分をこっぴどく振った元恋人などを破滅に追い込むためにカメラの使い方を学ぼうとしている人がいれば、どうか今すぐにやめてください」
 正之さんの口調はこれまでにないほど厳しかったが、どこか切実に懇願するようでもあった。現役時代に――もしかしたら引退以後にも――悲しい事例を見てきたのかもしれない。
 なんとも重苦しく息詰まる空気が、教室内に漂っていた。教師の言葉がその人生に裏打ちされ、確かな質量を伴っている証拠だ。真の教育とはこういうものなのだ。
「謙虚な気持ちを忘れてはいけません。誰かの顔を直接殴りつけることなく、人を殴ったような手応えだけを得られるのが盗撮行為の素晴らしいところです。けれどもそのとき、『殴らせていただく』という敬意もどこかに持っておかなければいけない。と、こういうわけなんです」
 一般人相手に技を使ってはいけない、礼儀を忘れてはいけない……と説く格闘技の師範のような言葉だった。そこには氏の確固たる信念がある。小型カメラの販売サイトなどでは「悪用厳禁」という注意書きが白々しく付されているというが、氏は心からそのように思っているのかもしれない。つまり、悪用ではない盗撮の可能性を信じているのだ。
「とはいえ、どうしても異性への、いや、自分をないがしろにしてきた全ての人間たちへの憎しみが消えない、という人もいるでしょう。実際それは一朝一夕でどうにかなるものではありません。急に『他人たちを対等な存在として尊重しろ』と言われても、難しいかもしれないですね」
 卓上のPCを操作すると、スクリーンにまた別のものが表示された。初老の男性の運転する赤いコンバインが稲畑を進んでいく動画だった。農家の資料映像だろうか?
「どうでしょう。人間=盗撮動画が採れる畑……そんなふうに思ってみては。自分以外にもごまんと人間がいるから盗撮ができるのだと。見てください、金色の稲穂が並ぶ畑を。やがて人の身体の一部となる稲の生命力はもちろん、それを育む豊かな土壌にも、誰かが愛情を持って管理したからこそ土が生きているのだという事実にも、なんだか尊さや愛おしさを覚えませんか」
 正之さんは、畑という喩えを使った。ことによると利己的・即物的すぎるように読者には思われるかもしれない。
 しかし教室の生徒たちはみな、わざわざ盗撮の理念を学ぼうと集まってきている。「盗撮がしたいからする」で済むなら、こうまで真剣に耳を傾けたりしない。きっと自身の幸福について、人生について、考えずにはいられない種類の人々だ。そんな相手にごまかしは通用しないと、正之さんは分かっているのだ。
 人間の目は畢竟、目の前の相手からどんな見返りを得られるかということしか見ない。その事実から目をそらさず、しかも決して斜に構えることのない氏の言葉は、どんなきれいごとよりも優しい説得力をもって響くことだろう。
 お互いに話し合うようにという教師の指示で、彼らは活発に議論を交わし始めた。

 その日、正之さんはとある生徒に声をかけて、一緒に教室を出た。
 盗撮の『実習テスト』を行うためだ。何人も引き連れて歩くわけにはいかないので、公共の場所での実習は日を空けて一人ずつ行われる。二人の許可を得て私も同行させていただくことになった。
 今日順番が回ってきたのはK園さん(仮名・20)。都内の有名私立大学に在籍しつつ、週三回の授業の日には欠かさずドアドアに通っている。
 そして、この教室の開始以来、唯一の女子生徒である。
 ここで明らかにしておきたい。盗撮において、性別による向き不向きと言ったことはどうなっているのか?
「僕が思うに、根本的なところで性指向は関係がありません。先ほど見ていただいたビデオのように、女性嫌悪の異性愛者が自分の欲望を誘発する女体への憎しみを盗撮で晴らすパターンはままあるのですが、それは副次的なものだと思います。盗撮自体の快楽は別にある。ただ、脱衣所やトイレといった場所が指定する性と盗撮者の性が一致している場合とそうでない場合とでは、そこにいることの意味自体が変わってきてしまいますので、結局『どちらでも同じ』とはいきませんが」
 ということは今回、K園さんには男子トイレを盗撮させることになるのだろうか?
 そう訊くと正之さんは難しい顔をした。それほど単純な話ではないということである。曰く、男子トイレと女子トイレは公共空間として全く違う性質を持っているため、ただ逆にすればいいとは言えないそうだ。
「男としては悔しいですけど、やっぱり女子トイレの方が断然おもしろいですよ。というか、男子トイレがつまらないのかな。個室の外にも小便器が並んでますからね。あれじゃトイレと人間の馴れ合いだ。個室から一歩出たらそこはもう外の世界、みたいな緊張感がどうしようもなく足りない。手洗い場まで堂々とおっさんの屁が聞こえてきたりして、脱力してしまいますね意識の低さに。そうそう、女子トイレにはサニタリーボックス(注:汚物入れ)があるでしょう。あれは個室内個室とでも言うべき代物で……」
 語る声が少し上ずっていた。盗撮するしない以前に、トイレという空間そのものを愛していることがひしひしと伝わってくる。
「ほら、女学生は連れ立ってトイレに来ますよね。それでも用を足している最中は壁を一枚挟むわけです。小便器の前に並んで談笑したりする男などとは、個室意識が比べものにならない。友達とげらげら笑ってお喋りしながら個室に入ってきた女の子が、ドアを後ろ手に閉じてふっと無表情になる瞬間を目撃してごらんなさい。美しさに言葉を失いますよ。蓮の花がポンと音を立てて開くのにそっくりですから」
 熱が行きすぎて、もはや少し怒っているようにすら見えた正之さんだったが、そこまで話すと一呼吸おいた。
「……近い将来にきっと、男子トイレと女子トイレという区分は無くなりますよね。それが社会にとって当たり前になったとき、多様な性が同じ緊張状態の中に放り込まれるのか、もしくは、今の男子トイレのくだらなさが全てのトイレに感染してしまうのか。そのときになるまで予想できないことです」
 トイレの形態が変遷しても、できれば和式トイレだけは無くならないでほしい、と笑っていた。日本人のDNAに刻み込まれた美意識を象徴するものだからと。
 ともかく、まだ日本のトイレのほとんどは男子と女子に分かれている。そして正之さんによれば、男子の側にはあまり面白みがなく実用的でないため、トイレ(とスカート内の逆さ撮り)だけは女子側でのやり方しか教えていないそうだ。
 しかしK園さんは女性である。
 世の中の多くのものが右利き用に作られているように、盗撮はどうしても男性向きであるそうだ。そんなハンデがある中、彼女はなにを求めてドアドアにやってきたのだろうか。先の授業が終わったあと、教室の隅にぽつんと一人でいた彼女を見つけた私は、話を聞くべく近づいていた。
 インタビューには快く応じてくれた。そして、質問の答えは「なんとなく」というものだった。
 K園さんは大学生だが、現在休学中だそうだ。精神的な問題で大学に通うことが困難になったらしい。昔から人が苦手だったが、進学のため上京してきてそれが急激に悪化した。なにをしていても他人の視線が気になり、指の先の動きまで値踏みされているようで、そこに存在していることすらも苦しい。深刻だった一時期は、人の少ない深夜でなければコンビニにも出かけられないほどだった。
 二回目の春がきた頃、無為に過ぎていく生活にも耐えられなくなり、なにか今の自分でもできることはないだろうかと探し始めた。そんなときに見つけたのが、ドアドアの公式ウェブサイトだった。『豆腐でハンバーグをつくろう。盗撮で人を踏みにじろう。』――言葉の意味は分からなかったが、サイトの雰囲気にはどこか惹かれるものがあったという。
「盗撮って、隠し撮りだよね? あれだったら誰かを観察することはあっても、誰かに観察されることはないんじゃないかな……って、思ったんです」
 そんな生き方は自分に合っているのではないかと、K園さんは運命的なものを感じたそうだ。
 いざ来てみれば、周りは男性ばかり。場のせいか、たまたまそうした生徒が集まっているせいか、どうしても女性の自分は遠慮がちに接されるし、コミュニケーションもうまく行かない。変に目立っている感覚もあり、予想に反して彼女はここでも人の視線を浴びることになってしまった。
 授業の内容にもついていけているとは言いがたい。異性へのコンプレックスがどうたらという先の授業など、感覚的には小指の先ほども理解できていない。それでも、出席し続けている。
「言い方悪いですけど、ここは『最後』な気がして。普通の人がくるところじゃないですよね? 大学でダメだったわたしが、ここでもダメだったら、あとはもう死ぬまで自分の世界に閉じこもるくらいしか残ってない気がして。そんなの悔しいし怖いじゃないですか。だから、絶対に途中でやめないぞって。意地で」
 K園さんの手にしている小さなデジタルカメラには、道ばたで撮られたと思しき猫の動画がたくさん保存されていた。
 なにも知らない人がそれを見れば、彼女を単なる猫好きとしか思わないはずだ。しかしこれらは盗撮の特訓記録なのである。死角に身をひそめてレンズ部分だけをのぞかせ、猫がこちらを振り向いたら、すぐにカメラを引っ込める。人間よりもずっと物の気配に敏感な猫の速度に対応できるようになれば、人間を撮ることなど造作もないと思ったそうだ。
 授業ではペアでの練習もあるものの、男子生徒はいまいち本気になってくれない。だから彼女は自分でこの練習法を編み出した。内蔵メモリ全てを埋めつくす勢いの猫動画を見せてもらったとき、私はそのひたむきな努力に感服し、今日はきっとうまくいくだろうと思っていた。

 今回の課題は手撮り。個室が複数並んでいるタイプのトイレで、外または隣の個室の上下の隙間からカメラを差し込んで撮るという、ニュースでもよく報道されているオーソドックスなやり方だ。
 ただどちらかというと、盗撮と聞いて一般の人が真っ先に想像するのは、置き――つまり、偽装した小型カメラを設置しておくという手法ではないだろうか。そちらは取り扱わないのかと正之さんに訊いてみると、「もう少し慣れてからです」という答え。
「置き撮りはリスクが高いというのもあるんですが、なによりも……自分がカメラを仕掛けたトイレに、次から次へと不特定多数の人々が吸い込まれていく様は、ネズミ捕りのようで刺激が強すぎるんですね。あれから始めてしまうと、健全な盗撮観が育たない可能性がある。僕の知り合いにも設置型専門の撮影者はいますが、撮られにきてくれた人たちを眺めるのがエンドルフィン(注:多幸感をもたらす脳内物質)の分泌のピークで、撮ったもの自体は二度と見返さないというタイプも多いんですよ」
 過程だけを大事にする人々がいるというのは、案外盲点かもしれない。釣りでいうキャッチアンドリリースといったところだろう。もっとも、キャッチしたからといって魚が傷つくことはないのだが。
「第一、カメラを手で持って撮るのと、置いて撮るのは概念が違います。トイレにおける置き撮りは、なによりもまず個室という空間を撮り、その一部として利用者を映すという考え方なんです」
「つまり、トイレを撮るかトイレの利用者を撮るかは、まったくちがって……あ、森を撮るか鳥を撮るか、みたいなことなんですか?」
 K園さんの発言に、優しくうなずく正之さん。意地で続けていると言っていた彼女だが、学ぶからにはきっちり修めたいとばかりに積極的に質問している。
 ところでこの実習、失敗したらどうするのかと疑問に思っている読者もいるだろう。正之さんも生徒たちから同じ質問を受けるが、「自分が見ているかぎりは絶対に大丈夫」だと言う。
「いくら仮免でも、教習車は事故を起こさないでしょう? 万全に注意してやっているかぎりは、ばれたりしないんです。僕がちゃんとブレーキを踏みますよ。それこそ車の運転と同じで、慣れて能力を過信して散漫になりだしたころの方が危ない」
 やがて私たちは駅のトイレに着いた。
 駅にいる人々は移動のために大抵急いでおり、周りに注意を払わないことが多いため盗撮に向いている。盗撮は駅に始まり駅に終わるという言葉もあるそうだ。最近は対策も強化されて駅員や監視カメラが目を光らせているが、場所さえ選べばまだまだ仕事はしやすいという。
「ちょっと行ってきますね」
 その一言だけを残してK園さんは行った。
 私たちはトイレからやや離れたところに立って、彼女が出てくるのを待った。そちらに目をやっていても怪しまれず、かつトラブルがあればすぐに駆けつけられるような位置だ。正之さんは全く心配していないようだが、万が一があれば冗談では済まない。固唾を呑んで見守る。
 一時間も経ったかと思われた頃――実際は三十秒ほどだったが――、トイレの入口からK園さんが現れた。たとえ誰かが一部始終を見つめていたとしても、彼女が私たちを待たせてトイレに行き、普通に用を足して戻ってきたようにしか見えないだろう。
 だが私は、こちらに近づいてくる彼女の様子がなんとなくおかしいことを感じていた。もしや失敗した? あれほど熱心に猫を撮っていたのに? しかし、盗撮しようとした相手に気づかれて逃げてきたという動きでもない。平静を装おうとするゆえに身体が硬くなってしまっているのだろうか?
 戻ってきた彼女が真っ先に発した言葉は、
「すみません……」
 一体なにがあったのか、正之さんが問いただす。
 すると彼女はポケットに入れていたカメラを出し、何度も謝罪の言葉を呟きながら、おずおずと氏の方に差し出した。私も画面を覗き込んで、思わずあっと声が漏れた。
 そこに表示されていたのは、個室内を撮影した画像……ではなく、カメラのシステムエラーメッセージだった。猫で埋まったカメラには、新たに動画を入れる隙間がなくなっていたのである。

 こうして初めての実習で、K園さんは撮影を行うことができなかった。
 そのときのことを、彼女はこんなふうに振り返る。
「……わたしは自分を、つねに見られる側だと思ってました。どこへ行っても名前も知らない誰かに見下され、値踏みされている存在だと。だから盗撮を勉強して、人を一方的に見てやる側になれたらとか思うようになってたんです。
 あれだけ練習したし、最初は緊張なんてしませんでした。個室の上からこれ(カメラ)を差し入れて、すぐにシャッターを切りました。けど撮れ具合を確認しようとしたら、ここにバッテンマークが出てるのが見えて……自分のミスに気がつきました。その瞬間、どっと冷や汗が出て。失敗してしまった! と自覚した途端、その個室にいる人――中学生くらいの女の子ですけど――が、目も合ってないのに、壁の向こうからこっちをじっと冷ややかなに見つめてる気がしたんです。『あんた大人のくせにどうしようもねえな、死ねよブス』って、蔑んだ目で……。
 もうパニックになって、これはダメだと思ってあわててトイレから出てきたときになって、容量いっぱいならデータを消せばよかったんだって気づきました。いよいよ本当に恥ずかしくて。なにやってるんだろって。出来の悪い生徒への失望の視線が、全身に突き刺さってくるみたいに感じました。死にたかった。そのまま消えてしまいたかったです。
 けど、私の報告を聞いた先生は、失敗を責めたりしませんでした。戻ってからこんなふうに声をかけてくれたんです。『K園さんはこだわりが強いので、無茶な状況になっても意固地にやり通そうとするんじゃないかと、実はそこだけ心配してました。でもそこであなたは、動転している自分を客観視して、深追いせずにすぐ引き返してきた。成功しなかったのではなく、失敗しなかったんです。そういう判断のできる人こそ、最後にモノになるんですよ』……そのとき思ったんですよね。人の目は、意地悪なばっかりじゃないんだなって」
 K園さんは目を赤く腫らしていたが、どこか晴れやかな顔をしていた。憑き物が落ちたように見える。盗撮による人間性の改善という話も、今は心から頷けた。
 正之さんは語る。
「誰しも、見る見られるはお互い様です。社会の中で生きているかぎり他者からの評価に晒され続けるし、他者を評価しないでいることもできない。二人一組で盗撮練習をするのは、そこに気づいてほしいという意味もあるんです。
 けれども今の日本では、そこに男女の不均衡を認めざるをえないのも事実ですね。概して女性に注がれる視線には、男性が受けるそれよりも強い暴力性があると考えます。そういうわけなので、女性にこそ正しい盗撮のやり方を知ってほしいって思いもあるんですけどね……」
 K園さんが入学してきたことで、自分だけでは十分に教えられない部分があることを感じたという。一応は女性スタッフを探しているものの、なかなか思うような人材が見つかっていないようだ。あの子が卒業後もいてくれれば最高なんですけどね、とつぶやいていた。

 その後は正之さんの自宅で取材の続きを敢行することになった。
 正之さんは幼少期より、周りと同じことをすることに本能的な嫌悪感があったそうだ。出る杭になることを嫌って大勢の中の一人でいようとする人間ばかりの世の中に、ずっと疑問を抱いていた。典型的な起業家気質と言ったところだろう。
 その一方で、人と同じように「普通に」振る舞うことのできない自分自身へのコンプレックスにも苛まれていたのだとか。マイペースな生き方のせいでいじめを受けたりすると、普通に生きた先にある普通の幸福という幻想が、人に手に入る最上のもののように思える日もあったのだ。新卒で会社勤めを始めてから、いよいよそんな矛盾でがんじがらめになり、「自分はいったい何なのか?」と問い続ける日々が続いた。
 そして一年目の冬に、たまたま立ち寄ったショッピングモールで初めての盗撮をした。前から興味があったわけではないし、当時は盗撮なるものの実態についても詳しくなかった。そのとき心に興ったのは、目の前にいる女性のスカートの中を下から覗いたら、どんな風景が広がっているのだろうという好奇心。そして、そんなささいな好奇心さえもこの場で満たせないなら、なんのために生きているのか分からない――という想いだ。
「あのときはストレスで思考力が落ちていて、正常な判断ができてなかった。大胆になってましたね。けどあの一歩が踏み出せなかったら、その後もなかった。そう思うと、ものを考えられないということも悪いことばかりじゃないのかもしれませんね。
 携帯電話のカメラを差し入れてシャッターを切って、その場で男子トイレの個室に駆け込んで確認したら、ぶれぶれで暗くてなんだか分からない面白みのない写真が撮れてました。でも僕は震えたんです。あの女性の人生に、僕はなんの干渉もしてないし変化も起こしてない。なのに手元にこんな写真が残った。もしかしたらこれは錬金術なのかもしれないって」
 だが少なくとも正之さんの人生の方は、その一回の衝動的な行為によってまるっきり別のものに変わってしまったわけだ。

 ちなみに氏は現在、妻の亜矢(あや)さん、息子の強視(つよし)君と三人でこの家で暮らしている。
 亜矢さんと正之さんは最初、盗撮の被害者と加害者の関係だった。正之さんはたった一度だけ失敗をしたと冒頭に述べたが、実はそのときの相手こそが他ならぬ亜矢さんだったのである。
 正之さんは昔から、突発的にめまいを起こして意識を失ってしまうことがあった。前兆となる症状があるため、道ばたで倒れてしまうことはないように気をつけていたが、その日はあろうことか女子トイレの中で発作が始まった。焦って脱出しようとしたために注意力が散漫となり、運悪くたった今カメラを突っ込んでいた個室のドアが開いて、その中にいた女性とばっちり鉢合わせてしまった。
「で、そのまま失神ですからね。目を覚ましたら病院のベッドの上で、なぜ自分がそこにいるか思い出してみて、完全に終わったと思いましたよ」
 しばらくすると、先ほど女子トイレでエンカウントしたばかりの女性が病室にやってきたので、正之さんはぎょっとした。この世に二つとないほどの気まずさの中、彼がトイレの床に倒れたことと、周りに他に誰もいなかったため彼女が外まで引きずって運び出し、救急車を呼んでくれたことを聞いた。
「女子トイレの床に這った男なんて、放って死なせておけば良いじゃないですか。それが救急車を呼んで。しかも、わざわざトイレの外に運んで、僕の不法侵入をかばってくれたんです」
 だが当の彼女自身は、目の前の男からレンズという名の悪意を向けられていたことに気づいているだろう。なのに黙っている……。
 これほどまでに優しい人が、自分の盗撮のせいで不幸になることなどあってはならない。そう思った正之さんは、その場で亜矢さんを口説いたそうである。つまり、一生をかけて彼女を幸せにすることで、「結果的に盗撮されて良かった」と言わせようとしたのだ。驚くべき機転と決断力。
 当時のことを亜矢さんはこう語る。
「いや、警察行ったらカメラ調べられるやん。うちの写真入っとるのに。それが嫌やってん。かといって自分でも確認したないし。この男が落ち着いたら、見てる前でカメラ壊させる予定やってんけど。したらいきなり『僕があなたを幸せにします!』って! あんな正面から目ぇ見てはっきり言われたのあのときだけや。醜悪な思い出や」
 話を聞いているだけなら怪談かなにかとも思えるほどだが、なぜそれを受け容れようなどと思ったのだろうか?
「いや、ありえへん……っちゅうより、最初なにを言うとるか理解できんかった。けどなんか情熱的で有無を言わさない調子やったし、よぉ考えてみたら、うちみたいなのの人生に今後これ以上劇的なことなんか起こらんのやないか。メチャクチャやけど、人生なんてそんな大切なもんやないし、粗末にしてもうた方がおもろいかも、って普段から考えとったから。それで正しかったのかは、今も分からへんけどな?」
「あのさ、今週末うまいものでも食べにいこう。寿司とか」
「機嫌の取り方!」
 けらけらと笑う亜矢さん。幼い息子を愛おしそうに撫でる彼女の横顔は、私には幸せそうに見えた。

 そんな昔話のあと、正之さんはあるものを部屋から出してきてくれた。さまざまなフルーツの絵が描かれたカラフルなラベル。ロッテの粒ガムのボトルである。ガムを出すときのように蓋を開けると、甘ったるい香料の匂いがふわっと漂う。
 中では黒いSDカードがざらざらと音を立てていた。この大量のSDカードに、これまで撮影したきた全てのデータが収められているのだ。残念ながら中身を見せてもらうことはできなかったが、この小さなボトルに二千人が詰め込まれているのである。過去のある日あるときの、入浴や排泄といった日常的な行為について記憶している人間が、果たしてこの世にいるだろうか? そんな本人にすら覚えておかれることのない瞬間が、正之さんのカメラという額縁によって切り抜かれて二千人分もコレクションされているのかと思うと、なんだか神秘的な感覚に襲われる。
 それから彼は、思い出したように「あれなら見せられるかもしれません」と言って、輪ゴムで束ねた紙の束から一枚を抜き出して見せてくれた。一見したところでは、なにか絵が描かれたカードと見える。といっても、何色もの線がスパゲッティのように絡み合ってぐちゃぐちゃになっているだけで、意味のある図柄には思えない。
 一体なんなのだろうとさらによく見てみれば、どうやらそれは抽象画というわけではなく、プリントアウトした写真なのである。色とりどりのペンがのたくった跡がほとんど全面を埋めつくしているので、地肌が見えなくなっていた。個人の識別どころか人間が写っているかどうかも怪しい。
「使い潰した写真です。いや、これじゃ僕もなんだか分かんないな」
 その後の説明を聞いて驚いた。
 正之さんは、盗撮した写真に直接あれこれと呪文を――つまり、被写体を貶めるような言葉を――書き込む習慣があるのだという。気に入った写真は見るたびに新しく書きたいことが浮かんで、次から次へと空いているところに書き込んでいくと、最終的には今書いた文字すら読めないほどに線が重なり、ただペンででたらめに塗りつぶしただけかのごとき有り様になってしまうそうだ。
 もはやこれ以上なにもできることはなくなった状態の写真を眺めると、正之さんの「ありがとうございました」という礼が聞こえてくるようだ。見事だ。ここまでして初めて盗撮と呼べるのか。
 私は、ずっと気になっていたことを質問してみた。
 確かに氏の言うとおり、盗撮は人の写真という分身を徹底的に痛めつけることにより、私たちの攻撃的な欲求を解消させるように思える。だが、それならばわざわざ盗撮などせずとも、たとえばテレビに映った素人などを(本人の目に触れない形で)『中傷』することによっても、同じ目的が果たせるのではないか?
「いい視点です。そして、盗撮の最も素晴らしい特性が、まさにその点においてあるんです。インターネットに匿名で悪口を書き込む人は、それがどういう結果を生むかを考えない。中傷では社会的立場を奪われる人、自殺に追い込まれる人もいます。そういった事実がニュースでいくら取り上げられても、ほとんどの人は『してやったり』と思うでもなく、ましてや後悔などするわけもない。当事者意識を持っていないからです。多対一の多の方に立って、相手を一方的に見ることに慣れきってしまっている。匿名の安全圏から誹謗中傷を行う人間が、『本人の目に触れないように』という見せかけの善良さをいつまでも保っていられるわけがない。エスカレートするに決まっている。
 一方で、盗撮は真剣勝負なんです。自ら罠を仕掛けて、獲物が入ってくるのを待つ。ときには自分から巣に飛び込んでいく。どんなときでもいつも独りぼっちです。完璧にやりおおせるほどに、被写体本人からは何のリアクションも返してもらえず、閉じた世界の中に取り残されるわけですよ。不特定多数で連帯して、数をかさに着て石を投げる『視聴者』から、ひそかに孤独を噛みしめる『盗撮者』になること。とても難しいですが、その大切さに気づかないかぎり世の中は良くならない」
 そんな氏の信条からくる当然の帰結として、現役時代に盗撮した写真を直接見せてもらうことはできなかったわけだ。けれども想像してみるには、きっとそのデータの一つ一つに、正之さんの抱える孤高の怒りや愛情が刻み込まれているはずである。盗撮は犯罪だ。だが複雑化した現代社会、自らの身体を罪に浸す勇気すらない私たちに、生きていく資格はあるのだろうか?
「……といっても。僕は『幸福を増やす暴力』というパラドキシカル(注:逆説的)な魔術性に心酔しているだけで、実際の社会的な問題にはそんなに興味がないと言われれば、そうなのかもしれませんけどね」
 そう嘯いて、いたずらっぽく笑う正之さん。その目は少年のように輝いていた。この人はとにかく心の底から盗撮が好きなんだと思った。

 そんな正之さんは、最近新しい趣味を見つけたという。
「屍姦です」
 屍姦とは人間の死体に性的暴行を加えることである。独自のルートから新鮮な死体を入手してきて、そのまま遊んでいるのだそうだ。男女とも生きた人間とはまた違った具合なのだとか。なるほど、死者はいくら弄ばれたところで傷ついたりしない。これもまた『幸福を増やす暴力』の一つなのだろう。
 ちょうど死体が手に入ったところだということで、本日の締めくくりとして屍姦の様子を見せてもらえることになった。
 取り出してきたそれは、どうやら十代の男性の死体のようだ。生前のままのようなポロシャツとジーンズを身に着けており、死んでいるように見えない。いかにも痛ましいという様子で、正之さんはその人物について説明してくれる。
「自殺です。いじめだったかな。親御さんから愛情いっぱいに育てられただろうに、哀れですよ。死んで……こんなところに行き着くなんてなあ」
 指で押させてもらうと、身体はまさに硬くなっている段階なのが分かる。私は屍姦という概念は知っていたが、実際に生で見るのは初めてだった。指も開かないほど硬直した人間をどのように愛すのだろうか。
「確かに死後硬直も進んでますね。でも僕は、もっと硬直したものと長年付き合ってきましたから……。写真の中の人間だって、言ってみれば死体なんです。どんな暴力にも抵抗できません。カメラで撮られると魂を抜かれるなんて昔は言ったそうですが、言い得て妙です」
 ガムボトルの棺の中で今も眠る、無数の盗撮画像たち。被写体たちは永久に止まった時間の中にいる。
「屍姦をしているあいだだけ、僕は霊魂を信じることにしています。死んだ人が地縛霊になって、自分の死体を好き勝手にいじくりまわす僕のことを、悔しそうに睨みつけている……そんな想像をするだけで、今日を生きる喜びが心の内にあふれるんです」
 記者の面前ながら興奮が抑えきれないというようであった。
 では屍姦の際になにか意識していることはないかと問うと、「本人にひたすら確認することですかね」と意味深な答えが返ってくる。確認とは? 意味を掴みかねている私の前で、氏は死体におおいかぶさるようにして耳に顔を寄せ、「いいの?」と呟いた。
「いいの? いいの?」
 言いながら指をベルトにかける。「ベルト、外しちゃうよ? いいの?」もちろん、死体からの返事はない。身をよじって抵抗などしないし、大声で制してきたりもしない。安らかに眠る少年は、傍らの正之さんに身をゆだね、されるがままである。
 ベルトを外し、シャツとジーンズをゆっくりとずらしていく。
「いいの? いいの? ねえ、いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? 本当にいいの? いいの? いいの? いいの? しちゃってるよ? いいの? いいの? 見えちゃうよ? いいの? いいの? いいの? いいの? 止めるなら今しかないよ? いいの? いいの? いいの? いいの? たいへんなことになるよ? いいの? いいの? ねえ、いいの? いいの? いいの? 男の子だからって、手加減できないよ? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? 本当にいいの? ねえ、」
 部屋の空気は神聖に張りつめ、屍姦は儀式めいた雰囲気の中で進んだ。問いはいつまでもいつまでも繰り返されていた。まるで、若くして命を落とした少年への弔いの歌のように。その問いかけはだんだんと、私たち一人一人に向けて投げかけられているようにも聞こえてくる。
 ――いいの? 本当に、こんな世の中でいいの? こんな子どもが、自分から死を選ばないといけない世の中で? 死を選ばせてしまう世の中で?
 なにを訊かれても、死んでしまった者は答えることができない。なら生きている私たちの側は、死者の問いに答える言葉を持っているのだろうか? 必死に会話しようとしている二人の姿を見ていたら、涙があふれてくるのをこらえることができなかった。
「いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの? いいの?」
 死体の盗難については被害届が多数出されているそうだ。正之さんが検挙される日も、そう遠くはないはずである。

(おわり)

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