無花果

 かつて祖父が使っていたという書斎に、俺は足を踏み入れた。
 畳の匂いがなつかしい。しかし、この部屋でなにか祖父と言葉を交わしたという記憶はない。あくまで仕事部屋、生前はたとえ孫でも入れないようにしていたのかもしれない。
 たしか祖母の趣味であったはずの油絵のイーゼルらしきものや、どう見ても他の部屋で壊れたと思しき座イスが置いてあるなど、物置としての機能も多少押し付けられてはいる。しかし、重厚な文机や壁いっぱいの本棚が残されているだけで、かつてここの主だった人物のいる風景を想起させるには十分だった。
 父には二人の姉がいて、祖父にとって孫にあたる者は五人いる。その中で唯一の男児だった俺のことを特に可愛がっていたと、親族は口を揃えてよく言っている。だが俺がほんの三歳の頃に死んでしまったため、正直なところほとんど覚えていないのだ。
 いつでも優しそうに笑っていたおじいちゃんが好きだった……そのことだけはおぼろげに記憶しているものの、どんな声だったか、どんな話をしたかなどまでは思い出せない。
 昔そのことを告げたとき、薄情だな、あんなに可愛がってもらったのに、と父に言われた。もちろん冗談めかしていて、本気で責めるような調子はかけらもなかったが。
 去年、初任給でその父の誕生日になにか贈ろうと考えた俺は、父の趣味も嗜好もほとんど知らないことに気づかされた。酒飲みなのは知っているが、どんな種類の酒が好きかもよく分からなかった。二十年以上も一緒に暮らしていたのに、思えば親としての顔しか知らない。外ではどんな人物なのか、なにを楽しみに生きていて、どんなときに悲しいのか。俺や母の存在を、自分の人生にどう位置づけているのか。
 一人息子が一応こうして経済的に自立したわけだ。父は自分だけの人生に戻って、父親として以外の姿を見せてくれるようになるのだろうか。これから先、死ぬまでの時間をかけて、もっと本来の自分に近い形になっていくのだろうか。
 父は、祖父に対して同じようなことを思ったりしただろうか?
 大学教授だったという祖父の人生の最後の最後、ほんの一部分しか俺は知らない。ふと興味を覚えたのだ。祖父はなにが好きだったのか。どんな人だったのか。
 そういうわけで俺は祖父の部屋にいる。といっても、一家で祖母の家に顔を見せにきたついでなのだが。
 棚にはいろいろな本があった。どれも年季を感じさせ、見たところでは文化史や民俗学に関する専門的な本がやや多いか。中身はちんぷんかんぷんだ。横に引くガラス戸のつけられた、段が大きめの本棚もあって、中には大判の演劇本や映画スターに関する本が並んでいる。箪笥の上には大量のVHSやカセットテープが詰め込まれたラックも載っていた。
 この部屋に入るのは初めてではない。子どもの頃から一人でいるのが好きで、親戚の集まりで来たときも他の子たちとは遊ばず、この畳の上に転がって過ごしたりしていた。だが子どもの注意をひくようなものは何一つなかったし、亡き祖父の存在と結びつけて眺めた覚えもない。
 当時こういったコレクションたちは、この古い家屋に備えつけられたものたちの一部というような認識だったかもしれない。老年期の人間とは誰もがこうやって難しい本を読み、レトロな音楽を聴き、映画をたしなんで悠然と余生を過ごす感じなのだろうと思っていた気がする。
 あらためて見ると、少なくとも映画に関しては並大抵の好きではないなと感じる。俳優の写真集などだけでなく、だいぶ専門的に見える映画評論や、哲学寄りの映像論の本なんかもある。ひょっとすると自分で撮ったりもしていたのかも。
 そうして眺めていたとき、棚のいちばん下の段にそれを見つけた。
 その段だけ、本ではなく大学ノートが詰まっていたのだ。何十冊と並べてあるものから適当に真ん中あたりの一冊を出して開いてみると、どうやら日記らしい。律儀にも表紙に名前が書いてあるので、間違いなく祖父のものだ。
 祖母の方もボケ防止のために日々の記録をつけていると聞いたことがあるが、こちらはこの分量から推測するに若いときから書き溜めたものではないだろうか。長年の習慣だったのだろう。一つ一つきっちりラベルが貼られて整理されたビデオやテープから、几帳面な性格だったのだろうとは思っていたが。
 めくっていくと、映画の感想や読書記録、暮らしの中で思ったこと感じたことなどが、乱雑な字で書きつけてある。大学教授としての研究のアイデアの断片らしき行も見える。ところどころに新聞・雑誌の切り抜きや写真も貼られていた。このノートを順に見ていったら、祖父がなにを考えていたかそっくり分かるのではないだろうか? そう思ってしまうくらい、頭の中をそのまま活写したもののような雑多な内容となっている。
 ……おじいちゃんの、人生の軌跡か。
「普通に考えたら、左の方が古いノートだよな」
 もっとも、何歳から書いていたかは分からない。俺は少し考え、左端から数冊の位置に差し込まれているノートを引き抜いて、適当なページを開いてみた。


――


 トイレに行かせて~~!!
 いやぁ~~!! 見ないで~~!!
 ブシャ~~~~~~!!!

うるさい。本当にうるさい。
馬鹿の一つ覚えのように皆ぎゃあぎゃあとわめいて、真剣さがたりない。台詞に中身がなさすぎて、聞けば聞くほどむかむかしてくる。
こういうたぐいの女には、いちど落ち着いたあとで、「どうして見ないでほしかったのか?」と訊いてみた方がよい。このようなことをむやみにわめくだけの人間からは、けして満足な答えがえられぬであろう。たった今やっていたことだというのに「よく覚えてないです」と返ってくるかもしれない。その場しのぎをすることしか知らぬ人生だったに違いない。

排泄欲に耐えるとき、また、意に反して排泄物を垂れ流すときにこそ、人間が最も輝くということは周知の事実だ。開発されて以来、浣腸液ほど人間の美に貢献してきたものはない。
にもかかわらず、世のフィクションにおける浣腸描写は、まったくどうしようも無い。あれほどおろかしく、腹立たしいものは無い。

アダルトゲームにおいては特にそうだ。「糞便なぞ汚いだけだし理解できないがこんなもので自慰をする物好きもいるようだから入れておくか」という制作陣の熱量のなさ・投げやりさがひしひしと伝わってくる。
いくら軽い描写とはいえ、苦手な者は眉をひそめるだろうし、むろん私のような好事家からすれば無価値。なら、誰がこれで喜ぶ? 少し考えれば分かるはずだ。中途半端こそは最上の罪なのだ。

これを見よ。便が下痢のような液状になって噴き出している。浣腸とは腸を刺激して排泄を促す薬剤だ。最初に浣腸液が排出されたあと、形を保ったままで便が下りてくるのが正しい。多少は溶けるにしても、まるっきり液状にはならないだろう。これは作画コストの節約である。中身の詰まった便より、茶色い(またはやや濁っただけの)水の方が描きやすいから、事実をねじまげているとしか思えぬものだ。

ひどいものだとブシャ~~の直前で暗転する。排泄の瞬間に明かりを消すとはどういう了見なのか。見ないでって言ってるから見せません、とでも言うつもりか。大した騎士道精神だな。そんなことをしても女からの好感度が上がるはずがない。
そして、ようやく明かりがついたと思ったら何事もなかったかのように次の場面になっている。なにをあっさり片づけているのか。せっかくトイレに行かせなかったというのに、闇がトイレの代わりをしただけではないか。何がしたかったんだ。後始末を見せろ。後始末が本番だろうが。どっちへ進めるかの展望もなく単に見よう見まねでやっているから、やらせたあとでなにをしたらいいか分からず、ぬるっと終わるのだ。

なによりも私が言いたいのは、「そもそもイチジク浣腸を使え」ということだ。薬局で売っているピンク色のあれをだ。
どうして、浣腸器など使うのか? 理解ができない。
ここでイメージしている浣腸器とは、透明なシリンジ式の注射器のような代物である。肛門に先端を突き刺して押子をぐっとして薬液を注入する。もはやSMのクリシェだ。SMプレイならまだいいが、問題は純粋な暴力の一貫として浣腸をする場合だ。
凌辱(輪姦)なのに浣腸器を使う意味が分からない。現状、浣腸器の使用率の高さは異常と言う他ない。なにか気味の悪い人々のあいだで取り決めでもあるのだろうか? 医療器具メーカーがスポンサーなのか? どこまでもふざけている。


以下、浣腸器とイチジク浣腸の比較を述べる。よく読みやがれ。そして死ね。


○浣腸器の方が優れている点

・注入がゆっくりなので、「ああ……っ! 入ってくるっ……!」という独白など、余裕を持った心理描写ができる。だからなんだ。自分が繊細な人間にでもなった気になったか。

・いろいろ関係ないものを腸に入れられる。イチジク浣腸から牛乳や尿が出てきたら手品というかシュルレアリスムになってしまうため、ここは端的にメリットであると認めざるをえない。しかし今回は、純粋に浣腸液を用いるケースが多々あることを問題にしたい。

・非日常的な器具の無機質さが竿役の不気味感を引き立たせるという意見もあるだろう。医療器具は基本的におそろしい。監禁されてこれからなにをされるかと思ってるときに、全身くまなく検査します終わる頃には死にます、みたいな道具セットを持ってこられたら相当怖いだろう。だがほとんどの場合、浣腸器のこのような側面が意識的に描かれているとは言いがたい。
一方、日常的なイチジク浣腸はどうか。あれは薬局で容易に入手できる。こんな大量の浣腸をお前らどこで買ってきたの? ココカラファイン? とか考え出すと面白くなってきてしまって暴力に集中できないという説もあるが、輪姦の現場がこいつらの家の近所だとしたらサンテPCとかもそのココカラファインで買ってるの? と思わされるし、強姦魔も普段は当たり前の顔で生活している一人の人間であり、パソコンの画面を見すぎたあとは目がしょぼしょぼしてくるのだという事実を再認識させ、恐怖が倍増するに違いない。

・介助用に用いられる器具を健康な人間への暴力に使うという背徳感がないこともない。だがもはや間違った使い方ですらなく、第二の正しい使い方になってしまっている感はぬぐえない。


○イチジク浣腸の方が優れている点

・まず、イチジク浣腸を男の指が乱暴に潰すという動作の方が、浣腸器を両手でゆっくり押し込んでいく動作より、野蛮な感じがしてわくわくする。

・イチジク浣腸は大抵ピンクなので、コンクリートの床に放るだけで強烈な違和感を放ち、悪趣味さを演出する。一般的に言って大人のオモチャも同様のカラーリングであり、人を痛めつけるためのもの=ピンク色と統一することで画面が引き締まる。糞尿との取り合わせも悪くない。
浣腸器はガラス製で透明なので、空間に溶け込んでしまっているし、無いのと同じである。

・イチジク浣腸は複数人が使える。竿役たちがよってたかって一人の女のアナルに注入していくことができるし、一個百円で分け与えてギャラリーを凌辱に加担させるといった展開にも使えて、いろいろ融通がきく。
浣腸器は、せっかく竿役がどれだけいても一度に一人しか使えない。人数を活かし切れていない。仮に男たち全員が一つずつ浣腸器を持って女の子を囲んでたら、馬鹿かと思う。かさばるし、一人のカバンにそんないっぱい入らないから、自分の使う分は持参って事前に伝えられて持ち寄ったのかな? ということが気になる。

・浣腸器は漠然と「量が多いですよ~」みたいな雰囲気を出している。だが多すぎて逆に分かりづらい。充填した液体を見せられた女が「そんなにいっぱい入らない……」とか言う描写がよくあるが、たぶん本人もどれくらいの量なのかあんまりピンと来ないまま言っている。
イチジク浣腸は一回分=一個だから、どれだけ過剰な量を注入されているかが視覚的に分かりやすく親切だし、立て続けに入れれば一個また一個と心地よいテンポが作られ、メリハリが生まれる。浣腸器に比べて薬液の濃度も薄いため、じわじわと苦しみを生み、急に効きすぎないのもよい。

・そのテンポの良さのため、よってたかって一人に注入していく際も男たちはしゃべり続けられる。「いくつ入れんだよ(笑)」「おまえ、ひでぇな(笑)」といった楽しく自分勝手でゲスな笑いが場を盛り上げ、輪姦欲を大いに促進する。
浣腸器はゆっっっくりと注入しているあいだ謎の緊張感が漂い、男たちは誰からともなく口をつぐんで見守り、これ以上なく気まずい思い出になるだろう。注入し終えたあとも、「………………ょ~し、我慢しろよ~」といったように、最初に発言する奴がそのタイミングを見計らうような沈黙が挟まり、それを場の全員が一瞬意識してしまうことは避けられないだろう。

・浣腸器は洗えばまた使えるが、イチジク浣腸は一回ごとに確実にゴミが出る。使用済みコンドームを考えれば分かるとおり、凌辱においてゴミが出るよりも大事なことはなく、空の容器をたくさん転がしておけば時間の経過が一目で分かる。
しかも浣腸器は満タンにして使うとは限らないため、空っぽで転がっていても「実際どれくらい入れたのかな?」という疑問がぬぐえない。冒頭で書いたが、浣腸器を使われるような女は自分の身に起きていることをまったく記憶していられない痴呆なので、意を決して本人に訊いてみたところで徒労に終わるだけだろう。

・浣腸器は医療用のよそよそしさ・無機質さがあって、とどのつまり女の子がどれだけ脱糞しても「病院?」としか思わない。どころか先述の通り、もはやSMプレイに使われることが公認されているも同然の状態のため、二次創作のネタを公式が取り入れてきたときのように興醒めする。
その点イチジク浣腸は、薬は薬でも簡単に手に入る身近なものであり、そのへんで「使えそうなものを適当に買ってきた」感があるため、衝動に任せて拾った石で昆虫をすりつぶしてみる子どものような残酷さがあって滋味深い。


結局のところ輪姦とは、する側の楽しさがいかに伝わってくるかということにかかっている。イチジク浣腸は私たちからすればいかにもなアイテムだが、彼らにとってはおそらく直前に思いついた、これを使ったら俺たちの遊びがもっと面白くなるかもという、稚気あふれる素朴なアイデアなのだ。
事前に浣腸器を発注しておいてしまったらもう仕事なのである。輪姦が始まるくらいの時間に廃工場に直接届くようにして、代引きで受け取っているようでは先が思いやられるのである。


――


 見開きの右ページ下部に大きな余白を残したまま、一枚めくって次のページからはもう別のことが書いてある。
 祖父の生きていた時代には、このような状況があったのだろう。昨今ではイチジク浣腸が用いられる場合も多い。イルリガートル(点滴のように吊り下げて管を肛門に入れて水圧で注入する)による浣腸描写もポピュラーになってきたが、この文章を読むかぎり祖父にとっては論外のやり方といったところに違いない。なんとも不思議なことに、「自分の手でやってこそ浣腸だ」と喝破する祖父の顔をはっきりとイメージすることができる。
 俺はスマホでpixivのアプリを起動し、「浣腸」でタグ検索をかけた。しばらくスクロールしてから、「浣腸 スカトロ」で検索し直す。
 根気強く探した末、一枚ぴんとくるイラストを見つけた。使用済みのイチジク浣腸だけでなく、トイレットペーパーのロールまでもが汚れた床に散乱している。力なくうつ伏せに崩れた女の子の横には汚物で満たされたおまるがそのまま置いてあり、度重なる惨めな排泄の形跡をうかがわせる。精液や糞便の悪臭と蒸発した少女の涙がまじりあい、混沌と淀んだ空気がこちらにまで匂ってくるようだ。
 祖父の机のペン立てから鉛筆を取ると、ノートの余白部分にそのイラストのURLを書き込んで、元通りに本棚に戻し、合掌した。
「あんた、ここにいたの」
 母が部屋のふすまを開けた。
 見たものはすべて片づけていた。なぜこの部屋にいるのかと問われたので、「おじいちゃんの蔵書が見たくて」と微妙な距離感の説明をする。
 ついでに祖父の趣味(映画の方)のことを訊いてみたが、そもそも母にとっては義理の親だし、あまりそういった話を家族にはしない人だったようで、詳しいことは知らなかった。
 そういえば、祖母はこのノートを読んだのだろうか? 思えば孫の立場でわりと躊躇なくプライベートを侵してしまったわけだが、夫婦の関係となるとこのあたりもまた違ってくるのだろうか。まあ、知る由もない。
 最後に母に一つだけ訊いてみた。
「ねえ、母さんが子どもの頃にもサンテPCってあった?」
「PCがないのにどうしてサンテPCだけあるのよ。バカじゃないの? 本当にあんたは出来そこないね」
 言いすぎじゃないか? と思った。立ち上がったちょうどそのとき、五時の鐘が鳴った。ずっと座って読み物をしていたせいか身体が痛かったので、大きく伸びをしたら脇腹がつった。「バカじゃないの?」と母が言った。僕はバカなのだろうか? そのことを父に訊いてみたら、父は自分から縄で縛られ、箱に入ってしまった。

(おわり)

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